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秘色の風
COLORFUL LOVE
3
「え、美作さん、なんで知ってるの?」
「類が電話してきたんだよ。突然、何の前置きもなしに『あきらのとこ何かトラブってるの?』って」
「あ……」
「一体どこの情報だよって問い詰めても、いつもの調子でのらりくらり。意味がわからなくて焦ったよ」

 この世界、様々な噂が飛び交うのは珍しい事ではないのだが、言ってきたのが親友なだけに、あきらの焦りは相当なものだった。

「しかもちょうど親父が日本に帰ってきて、それが突然の帰国だったから、もしかして俺が聞いていないだけで何かあるんじゃないかって思ってさ。でも、今日会社へ行ってもそんな話は全く出ないし、親父の様子からしてもそんな感じもないし、類が帰ってきたら問い詰めようって思っていたんだ。でも、これでわかった。情報源は牧野だったんだな」

 安心した、とあきらは笑った。笑い事じゃないのはつくしだ。その話を聞いて、顔から血の気が引く思いだった。

「ごめんなさいっ!」
「おまえ今日頭下げてばっかりだな」
「あたし、そんなことになるなんて思わなくて、あの、本当にごめんなさい。余計な心配いっぱいかけて――」
「気にするなよ。大丈夫だから」
「気にするよ、だって」

 絶対あきらは困惑した。動揺した。驚いて不安になって、ひどく焦ったに違いない。そんなこと、その世界を知らないつくしにだってわかる。

「大丈夫だよ。もう解決したんだから」
「だけど――」
「でもこれで、牧野もスッキリだろ?」
「……え?」

 ガバリと下げていた頭をあげると、そこにはあきらの笑顔があった。

「わかっただろ? 美作が業績不振じゃないこと」
「………あ」
「おまえが聞かされた話はデマだ。多分、嫌がらせされたんだろう」
「……じゃあ、本当に何の心配もいらない?」
「ああ」

 もちろん、と微笑むあきらに、つくしの緊張が一気に解けて、そのまま力が抜けたようにベンチに座り込んでしまった。

「良かったぁ……」

 ため息と一緒に吐き出した安堵の言葉は、つくしの内面にもほわんと広がって、気を抜いたら涙が出そうなほどだった。

「一人で悶々と考えてたのか?」
「うん」
「すぐに訊いてくれたら良かったのに」
「うん。……でも、なんか怖くなっちゃって」
「怖いって、何が?」
「だって、あたしじゃどうにも出来ない世界だから……」
「……」

 俯いて膝の上で握られた自分の手をぼんやりと見つめながら、力なく言葉を放ったつくしの横顔を見て、あきらは自分の迂闊さを悔いた。
 つくしはこの手の話に敏感にならざるを得ない傷を抱えている。そんなことはよくわかっていたのに。そんなことは訊くまでもないことだったのに。重い空気と思い沈黙に、何をやってるんだ俺は、とため息が漏れる。
 謝ったところで、余計に空気がおかしくなるだけなことは十分承知している。あきらがすべきは他のこと。それはきっと、つくしの不安をすべて消し去ること。
 
「まあ、あることないこと噂されるのは、俺のせいもあると思う」
「え?」
「気づいていないかもしれないけど、俺はもう卒業できるだけの単位はほぼ取り終えてる」
「え、そうなの?」
「やっぱり気づいてなかったか。本当は、今年はほとんど講義を受けなくてもいいんだよ。だから類や総二郎は、ああやって仕事してるだろ?」

 言われてみればそうだった。あれだけ一緒にいた去年までの三人を思えば、あきら一人だけ単位が足りないなんてことは、あり得ないのだから。

「それなのに、俺が牧野とあれこれ講義受けてるってのも問題なんだよな」
「でも、なんで?」
「在学中は、仕事を覚えるにしても必要最低限だって親父に言われて、それなら大学で学べるだけ学んでやろうって思ったんだ。なんとなく遊んで過ごしても、まあそれはそれで楽しいかもしれないけど、時間がもったいない気がしてさ。これからやる仕事と関係あろうが無かろうが、いろんなことを学ぶってのもアリかなって」
「そうなんだ。それで……」
「そう。で、どうせ受けるなら一人より牧野と一緒のほうが楽しいからさ。そういうのも、攻撃材料のひとつになってたかもしれない。先に言うべきだった」

 悪かったな、と柔らかな声がつくしの中に沁み込んだ。何故だろう、胸が熱くなる。

「ほ、ホントだよ。そういうことは先に言ってよ!」

 頬を膨らませてみたつくしだが、怒ってなどいなかった。むしろ、泣きそうになっていた。その優しさに。「だから悪かったよ、ごめんごめん」と笑うその穏やかな表情に。
 いつからだろう。気がつけば、いつでもあきらはこうしてつくしの抱え込んだ重い荷物の端っこを持ってくれていた。それはあまりにもさりげなくて、いつでも後から気付かされる。もしかしたら、気付くこともなく通り過ぎてきたこともあるかもしれないと、いつも、いつも思うのだ。

「それにしても、デマにも程があるってこと、知らねえ奴らが多すぎるな」

 まったく……と、ため息をつくあきらの横顔が鋭くて、静かながらも怒っていることが感じ取られた。でもそれはほんの一瞬で、すぐに笑顔が浮かんだ。

「でも良かったな、噂の相手が総二郎じゃなくて」
「え?」
「これが総二郎だったら、傷害沙汰になりかねん」
「しょ、傷害沙汰?」
「総二郎に泣かされた女は数知れず。学園内でも手を出しまくってるからな。刺される可能性――」
「「大!!」」

 二人の声が見事に揃った。顔を見合わせ、思わず爆笑するあきらとつくし。話している内容は笑い事ではないのだが、つくしにしてみれば、今まで抱えていた重苦しさから解放された気分だった。
 こんなに笑えるなんて思ってもみなかったけれど、笑顔が自然と溢れた。さっきまでとは全然違う、本来のつくしの笑顔だった。その笑顔に一番ホッとしたのは、それを見ているあきらだったに違いない。あきらも心底嬉そうに笑っていた。
 その時、だった。

 ぐぅぅ……――

 突然響いたその音に笑い声は止まり、再び顔を見合わせると、つくしの顔がみるみる赤く染まっていった。

「ご、ごめん。……あたしのお腹の音」
「……くくくっ。さっすが牧野。タイミングが絶妙だな」
「安心したら、なんだか急にお腹が空いちゃった」
「もしかして食べてないのか? そういえば、コンビニ行ったって言ってたよな」
「あ、そうだった!」

 ベンチに無造作に投げ出したまますっかり忘れていたコンビニ袋を触ると、カサリと音がした。

「何買ったんだよ」
「サンドイッチ。あーあ、もっと買えば良かったな。これじゃ絶対足りないよ」
「じゃあさ、これから食事に行こうぜ」
「食事?」
「今ならなんでも美味いぞ」
「そ、そりゃそうだろうけど」
「行こう。俺、車で来てるから」

 決して強引に誘われた気はしない、けれど断るすきを与えない誘い方は、さすが美作あきら、というところだろう。

「うん、じゃあ……。あ、でも待って。それならあたし着替えたい」

 思えばすぐそこのコンビニだからと、適当な格好だったことを思い出した。かっちりスーツを着こなしたあきらと一緒に出かけるのに、さすがにこれはまずいだろう。そして、こんなアンバランスな格好で話していたのかと、急に恥ずかしくなった。

「そう言えば、今日の会社はなんだったの?」
「ああ。親父が帰ってきてるって話したよな? それでだよ」

 普段は海外を飛び回っている美作商事の社長――つまりはあきらの父親が、珍しく日本に帰ってきたから、その仕事に同行したらしい。「親父の仕事を間近で見るなんて、そんなにないことだから」とあきらは笑った。
 美作家に生まれた時から決まっている道。ジュニアの宿命とやらに面倒臭さを感じたことがないわけではない。けれど目を逸らして逃げ出そうと思ったことはないのだと、あきらは以前言っていた。「いろいろと面倒も多いけど、俺は俺なりに楽しむつもりでいるんだ」と笑うあきらはとても頼もしいと思った。
 そして、あきらもまた着実に歩き出していると思うと、ほんの少し寂しさも覚えてしまうのだった。

「牧野、何が食べたい?」

 言葉と共に温かな笑顔がつくしに注がれる。つくしも自然と笑みがこぼれる。
 歩き出す未来は必ず来る。それはあきらにだけではない、つくしにだって来るのだ。でもそれは、まだ今でなくてもいい。
 ――まだ、楽しいだけでいいよね。
 今はまだ、友人として、隣を歩いていられるのだから。その事実を大切にしよう。

「うーん……イタリアンなんてどう?」
「イタリアンか。いいね」
「あ、でもあんまり高いのはパスね」
「了解」

 あきらと食事に行って、つくしが払った事など一度もない。今日もきっと、そうだろう。それでも今日もきっと、つくしの要求通りにリーズナブルな店をチョイスしてくれるだろう。当たり前の優しさで。

 この優しい人と歩く時、夕空は今日一番の優しい色を広げた。







 あれから数日が経った。
 大学のカフェテリア、高価な調度品が揃うF3専用スペースでは、F3とつくしの四人が朝からまったりと過ごしていた。
 つくしはふかふかのソファに身を沈め、談笑するあきらと総二郎、転寝中の類を眺めている。
 久しぶりに、F3が全員揃った。懐かしいなんて言っては少し大袈裟、けれど、みんなが揃っているだけでホッとして、心が満たされてゆく。
 開け放たれた窓からは、青い空と緑の生い茂る木々が見え、時折五月のさわやかな風が舞い込んだ。
 つくしはソファからゆっくりと立ち上がり、引き寄せられるように窓辺に立つ。ひとつ深呼吸をしてみると、清々しい匂いがした。太陽を浴びて光り輝く景色が眩しくて、思わず目を閉じる。
 ――ああ、気持ちいいなあ。
 閉じた瞼にじんわり滲み入る光と肌をなでる風を目一杯感じながら、つくしはしばらく佇んでいた。

「聞いたよ、牧野」

 振り向くと、類がすぐ隣に立っていた。

「いろいろ大変だったみたいだね」
「え……ああ、うん。そうだ、類。あの時はごめんね。意味不明だったよね」
「すぐにわかったけどね。何かあったんだなって」
「だ、だよね」
「話してくれたら良かったのに……って、牧野の性格じゃ無理か」

 いつもながら類には全てがお見通しで、つくしは笑うしかなかった。

「でもね牧野、こういう時こそ一人で悩んじゃダメだよ。きちんとした情報を持っているのは俺達なんだからさ」
「はい。よく覚えておきます」
「解決して良かったね」
「ご迷惑をおかけしました。それにしても、超有名人の友人って大変ね。あたしまで目立っちゃう」
「まあ仕方ないよねえ」
「そうね、仕方ないんだよね」
「そうじゃなくて」
「え、何?」
「俺達といるから目立つっていう以前に、牧野自身が十分目立ってるからさ」
「あたしが? まさか」

 ケタケタ笑うつくしの鈍感さは相変わらず。あの道明寺司の元彼女――正確には、元婚約者。しかもF3が親友だと認める牧野つくしを、英徳内で知らない人間がいたらそっちの方が珍しいというのに、そういった事実には本気で気付いていない。でもそこが、いかにもつくしらしくて、類は思わず小さく笑った。

「なんにせよ、慣れちゃえばいいんだよ。そうしたら気にならなくなる」

 笑顔でさらりと言ってのける類。慣れたと言うよりは、最初から気にしたことのなさそうな類の言葉は、どうにも説得力に欠けていた。けれど今は、その天使の笑顔があれば、充分だった。

「うん、そうだね」
「うん、そうだよ」

 つくしの心は軽くなっていた。あんなに悩んだのは何だったんだろうと思う程に。

「でも良かったね。噂になったのがあきらで」
「それって、西門さんだったら、刺されかねないから?」
「そう。何でわかったの?」
「同じこと言われたよ。美作さんに」
「さすが、あきら」
「ていうか、誰にでも思いつくから」

 節操無しだからね、と厭そうなつくしに、類は大笑いした。

「良く考えたら笑い事じゃないよね。本気で危ないところだったよ」
「たしかに。あきらなら、少なくとも学園内で命を狙われることはないもんね」
「そうそう、マダムキラーだしね。……となると、不幸なのは美作さんよね。マダムキラーが年下のあたしなんかと噂になっちゃって」
「そうかなあ」
「そうでしょう?」
「うーん、案外『瓢箪から駒』ってこともあると思うんだけど」
「ヒョウタン? ……どういうこと?」
「噂が本当になる可能性を全否定は出来ないんじゃないかな」

 ――噂が、本当に?
 類の言葉を反芻した途端、胸の奥がざわついた。

「な、何言ってるの」
「あきら、イイオトコでしょ?」

 ドクン――刹那、つくしの鼓動が大きく跳ねた。
 すぐ近くで談笑しているあきらの笑顔が視界に飛び込んできて、タイミングがいいのか悪いのか、同時に時折見せる大人びた表情が脳裏を過ぎった。
 するとどうだろう。ふいにあきらの笑顔が、いつも以上に眩しく見える。
 ――あれ、なんでこんなに……
 次の瞬間、その笑顔がつくしを捉えた。ハッと我に返るも、高鳴った鼓動はおさまるどころかますます激しく跳ねあがる。
 胸が苦しい、頬が熱い。言葉も出ず固まるつくし。それを見て、あきらの顔に気遣いの色が滲んだ。

「牧野、どうした?」

 その言葉に、総二郎までもがつくしを見る。

「え? えっと、な、なんでもない!」

 ぷるぷると首を振り、類に向かって慌てて言葉を放つ。

「ちょ、ちょっと類、変なこと言わないでよ!」
「そんなに変なこと言った?」

 類は、含みのある意味深な表情でつくしを見つめる。更に焦るつくし。あきらも総二郎も何事かとつくしを見つめ、つくしはどうにも居たたまれなくなっていく。
 ――ダメだ、このまま居たら、おかしなことになる!
 つくしはソファの上に置いてた荷物をガシッと掴むと、後ずさりながら言い放った。

「あ、あたし、用事思い出した。じゃ、じゃあね!」

 そして言い終わるか終らないうちに、くるっと背中を向け、一目散に走り去って行った。転げそうなほど慌てて駆けてゆくその姿を、あきらと総二郎は呆気にとられた様子で見送り、類はくすくす笑っていた。

「なんだ、ありゃ」
「さあ……。類、何話してたんだよ」
「瓢箪から駒の話」
「「……は?」」

 あきらと総二郎には、全く意味がわからない。けれど、類はそれ以上答えることはなく、ふわぁと欠伸をするとソファに横になってしまった。

「あいつ、これ忘れていったけど……」
「もしかして次の講義の資料?」
「いったいどこへ行ったんだ?」
「さあ。あきら、次は牧野と一緒だっけ?」
「そう。だから一緒に行くつもりだったんだけど」
「変なヤツだな、相変わらず。……で、今日の夜なんだけど、本当に遊びに行かねえのか?」
「悪いな、総二郎。俺、夜遊びは卒業するよ」
「……え! あきら、何かあったのか?」
「別に。でも、もう遊びはやめようかな、って……」

 開け放たれた窓から吹き込む風が類の髪を揺らす。
 寝ているのか、起きているのか、その口の端に笑みが浮かんだ。
Fin.
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―― 秘色(ひそく)――
もともとは中国の青磁器の色。ごくうすい緑みの青。
平安時代、染色では瑠璃色のことを言ったらしい。
唐の時代、天子への供進の物として庶民の私用を禁止したところから付いた色名とも。
2009.07 秘色(ひそく)の風
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