01 / 02 / 03
朽葉色に染まる頃
COLORFUL LOVE view of SOJIRO
1
 夏が霞む想いを連れていくのか。
 秋が芽吹く想いを連れてくるのか。

 夏から秋へと季節の巡りを感じる頃。
 その恋もまた、ゆっくりと動き出した。
 それは、俺のずっとずっと近くで。





 熱の抜けた夜の空気は、夏の終わりを予感させる。
 吸い込めば吸い込むほどに、切なさが身体に溜まる。

「あーあ。もう秋かぁ」
「えー! まだ九月になったばっかりじゃない。総二郎ってば、気が早いよ」
「……まあ、そうなんだけど」

 思わず口をついて出た言葉に、隣を歩く女はご丁寧に言葉を返してくれて、そして「へんな総二郎」とケラケラ笑った。

 大学四年、学生生活最後の夏休みは、茶会だ稽古だと息つく暇もないほどに、茶人としてのスケジュールで埋め尽くされていた。
 それらすべてが片付いたのは今から数時間前のこと。俺はようやく、ずいぶん遅く短い夏休みへと突入したばかりだった。

 ひとまず飲みにでも行こうかと家を出たところで電話が鳴った。ディスプレイに表示された「綾乃」という名前に覚えはなかったけれど、登録してあるのだから以前会った事があるのだろう。
 同じ女に会うのは三度までという自分に課したルールは今でも健在で、三度会った女のアドレスは消している。ということは、この女は違うらしい。ただまるで覚えていないことから考えて、その他大勢レベルの可能性は高そうだ。
 ――でも、予定があるわけでもないし……ま、いっか。
 限りなく無責任な結論の元、電話の通話ボタンを押した。
 久しぶり、と言うその声に同じように返してみると、これから会えないかと言われた。それは予想通りの展開だったので、迷うことなく了承した。

 そして今、その「綾乃」ちゃんと夜の街を歩いている。
 そして今、隣にいるのが彼女であることをとても悔いていた。

「いやさ。さっきも言ったけど、つい数時間前に夏休みに突入したばっかりなんだよ、俺。言うならば、数時間前にようやく夏を感じたのに、もう夏の終わりを感じちゃったわけ」
「何に?」
「この夜風に」
「……総二郎、老けた?」
「へ?」
「やけに感傷的。もっとテンションあげていこうよ。これからさ――……」

 こんな情緒のわからない女と、どうして会う事にしてしまったのか。百歩譲って俺の心情は理解出来なかったとしても、「そうなんだ」と大人しく相槌を打ってくれたらいいだけなのに。あまりにも多忙な日々を送って、女への勘が鈍ったか。
 猛烈に後悔して、うんざりした。
 盛大にため息を吐きながら、何気なく車道を挟んだ向こう側の歩道に視線を向ける。そして俺の視線は、一点に釘付けとなった。

「……あれ、あきら」

 みつけたのは、今まさに店の中へと姿を消そうとするあきらだった。
 そこは、俺達の行きつけのショットバー。後ろ姿しか見えなかったけれど、あの風貌とその店から考えて間違いない。

「え、あきら?」
「ん?」
「今、あきらって聞こえたんだけど。あきらって、美作あきら?」

 女は小首を傾げて俺の親友の名をいかにも親しげに呼び捨てた。そして徐々にテンションの上がる声で「わー、久しぶり! 会いたいなあ」などと口にしている。
 いったい何故にこの女はあきらの事を知っているのだろうか。俺達の名前はあちらこちらへと知れ渡っているし、こちらに面識がなくても相手が知っていることなど稀ではない。けれど、その口調は明らかにそれとは違う。どこかで会ったことでもなければ、こんな言い方は……。
 ――思い出した。
 この女は、あきらと夜遊びをしていた頃に、どこかのクラブで親しげに近づいてきた連中の一人だ。
 突如、過去の記憶が甦った。ただ、思い出せたのはそこまで。その日、そのままホテルへ行ったのか、それともそこで別れたのか。
 どこまでもぼやけ続ける記憶と、波長の合わない今の状況に、俺の心はあっさり決まった。

「悪いけど、デートはこれでおしまい」
「え、ちょっと待ってよ。なんで? 会ったばっかりじゃない。せっかく会えたのに」
「俺もあきらをせっかく見つけたのに、の気分なんだ」
「だから、あきらも一緒でいいじゃない? 私も友達呼ぶ――」

 最後まで聞くことも、それに応えることもせず、俺は店へと歩き出した。背後から甲高い声でたくさんの言葉が投げかけられていたけれど、ひらひらと手を振っただけで振り返ることはしなかった。


 店のドアは音もなく開いた。
 店内はそこからすべてが見渡せる程の大きさで、入ってすぐ、カウンターの一番奥にあきらの姿を見つけた。ちょうど目の前に飲み物が置かれたところで、あきらはそれを黙って口に運んだ。

 俺もあきらも、この店には何十回も来ている。普段のあきらであれば、馴染みのバーテンダーと何かしらの言葉を交わして笑顔を浮かべるだろう。
 けれど今日は、何やら様子が違う。
 ――何かあった、って空気だな。
 一瞬にして感じ取れた違和感に、小さくため息が漏れた。
 そろりと歩き出すとすぐに、俺に気付いたバーテンダーが小さく頭を下げた。軽く手を上げてからあきらを顎で指し示すと、僅かに微笑み再び小さく会釈をして、俺が注文するいつものカクテルを作り始めたようだった。
 初めてここを訪れた時から、客の空気を読むことが実に巧いバーテンダーばかりが働く店だった。こうした店で働く者には、多かれ少なかれそうしたことが必要なのかもしれないが、この店のバーテンダーはそれがズバ抜けていた。何年もこの店を利用している最大の理由はそこだ。
 俺の存在に気づいても、無駄に声を発することなく自然に受け入れたその態度から、さっき感じたあきらの違和感が勘違いでないことを確信した。
 ――さて、何が起きてるのやら……。
 少しずつ近づくあきらを前に、俺は僅かに気を引き締めた。

「よっ。珍しいじゃん」
「……総二郎!」

 不意に現れた俺に、振り返ったあきらは目を丸くして、そしてそれから微笑んだ。

「久しぶりだな、しかもここで会うとは」
「それはこっちのセリフ」
「それもそうだ」

 あれは五月のことだったか。あきらが突然夜遊びをやめた。
 俺自身、急激に忙しくなり始めた頃で、夜遊びといってもかつてのように自由気ままに遊び回っていたわけではない。それでも時間の都合がつけば、二人で出掛けていた。
 夜の街に繰り出せば、そこにはお決まりのように女が絡む。それを、あきらは卒業すると言い出した。
 理由は特には言わなかったし、訊かなかった。俺には思い当たることがきちんとあったから。
 それ以降、二人で飲みに行くことはあっても、声をかけてくる女達をあきらが相手にすることはなかった。そして、好んで会っていたワケありのマダム達とも、関係を切ったようだった。

「ここへ来るのは久しぶりか?」
「ものすごく。総二郎は?」
「俺も久しぶりなんだよ。時間に追われまくっていてさ、ここのところ。やっと解放されたのが今日」
「ようやく夏休みに突入ってところか?」
「そういうこと。それなのに、もう夜風が涼しかった」
「夏がようやく来たと思ったら秋にトリップか。それショックだな」
「さすがあきら。その通り」

 同じ風を浴びながら話したあの女にはまるで通じなかった心情が、こうして通じる仲間がいることを嬉しく思う。やはり本音を語る相手は選ばねばならないということか。

「でも、そんな夜に一人なんて珍しい」
「ん?」
「久々に解放されたなら、まずは女だろ?」

 ニヤリと意味深な笑みを浮かべるあきら。さすがは親友。そういうところは見逃さない。
 この店は、俺達の隠れ家的な場所だった。ここで飲む時は男同士、というのが俺達の暗黙のルール。だからここで会った時は、何も言わずとも互いに連れがいないことがわかる。

「女と歩いていたら、ここへ入るあきらが見えたんだよ」
「で、その女は?」
「置いてきた」
「おいおい、いいのか?」
「いい。全然いい。チョイスを完全に間違えたから」
「……これまた珍しい」

 くくく、と笑うあきら。
 バーテンダーがカクテルを置いたところで、今まで立って話していたことに気付いた。再会の喜びに浸っていたわけではないが、久しぶりの空気感に夢中になっていたのは事実なようだ。
 座れよ、とあきらに目で促された俺は隣に腰をかけながら、ついさっきまで一緒に居た女とのことを話した。あきらは相槌を打ちながら愉快そうに聞いている。

「情緒か……。どこで会った女か定かじゃなけどクラブとかだよな、きっと」
「だろうな」
「まあ、そういうところで俺らに話しかけてくる女に、そんなものを求めたのが間違いだな」
「そうなんだよな。俺もそう思うんだよ。思うんだけど、なんか今日はひっかかったんだよな」
「そういう時ってあるよな」
「だろ?」
「ま、縁がなかったってことで」
「そうだな」

 大きく頷いた俺は携帯電話を取り出すと、アドレスから「綾乃」という名前を探し出し、削除を選択した。

「これで一人減った」
「もう消したのか?」
「お互いのためにこれが賢明だ」
「そういうところ、相変わらずマメなやつだ」

 くくく、とあきらはまた愉快そうに笑った。それから、カウンターの上に置かれた自分の携帯電話に視線を止めた。

「あきらこそ、どうした?」
「ん?」
「電話待ち?」
「……ああ、待ちっていうか――まあ、待ちか」
「なんだよ、曖昧だな」
「掛かってくる確率が一割にも満たない電話を、待ってますと公言すべきかどうか」

 妙に律儀な、あきららしい返答だった。故にその言葉から、あきらがどれほどその電話を見逃したくないと思っているのかを感じ取れた。

「女?」
「まあ、女、ではある」
「……その曖昧な感じから察するに、牧野か」
「ご名答」

 牧野が聞いたら怒るな、とあきらは小さく笑った。
 香水の匂いをぷんぷんさせて、媚びた表情と媚びた目でジトリと見つめてくる――そんな印象を与える人種を「女」と呼ぶならば、牧野は女ではない。けれど牧野は、正真正銘の女性で、もはや今となっては出会った頃のような少女でもない。
 俺にとっては、仲間で親友で。それ以上でもそれ以下でもない。
 あきらにとっては俺のそれとはまた違う事を、俺は知っている。
 牧野が怒りそうなこの会話も、俺達にはベストだった。

「それは読めないな、たしかに」
「まったく、だ」

 苦笑交じりにグラスを傾けたあきらは、ゴクリと飲んで、はあ、とため息を吐いた。
 きちんと約束を交わせば、それを破ることなど滅多にない牧野だが、そうでなければ途端に確率は曖昧になる。一割にも満たないというあきらの言葉は、大袈裟ではない。
 目を伏せて、憂いを含んだ表情を浮かべるあきら。その横顔から、店に入って来た時に感じた違和感は、牧野絡みなのだろうと察するのは容易だった。ただ、軽いノリで「どうした?」と訊くのは躊躇われた。
 普段は何かに悩んでいたとしても、俺達にさえそれを感じさせない大人な振舞いをすることの多いあきら。それだけに、今は深いところで何かに傷つき何かに悩んでいるように思えて、辿ればその先にはとてつもなく複雑で繊細な何かが待っている気がしてならなかった。
 これが類なら、どんなに聞いても話したくないと思えばさらりと交わすだろうし、司なら、すぐに自分の気持ちを爆発させるからわかりやすい。
 けれど、目の前にいるのはあきらだ。その悩みが深刻であればある程、話すことによって巻き込むかもしれない他者への影響まで考えて――それは、話を訊く俺だったり、そこに出てくるであろう牧野だったり、考えなくてもいいようなところまで含まれる――ギリギリまで消化しようと努力して、自分を犠牲にするだろう。
 無理矢理訊き出せば、万が一それが本当に言いたくないことだったとしても、自分が傷つくのも顧みずに話すだろう。
 どうにも感情の均衡が計れなくなれば、二十年近い付き合いの中でも数度しか見たことのない大爆発が起こる。
 俺はあきらが仲間内で一番器用で一番不器用だと感じていた。
 ――あきらからのアプローチを待つことが賢明か。
 知りたい気持ちも見守りたい気持ちも、あきらが親友だからこそ。けれど、それだけに焦ってはいけないと、頭の中に警告ランプが灯る。

「最近、どうしてた?」
「ヨーロッパに行ってたよ。今朝帰ってきたんだ」
「バカンスか?」
「いや、仕事。親父と関連企業の視察」
「お疲れだな、そりゃ」
「でも半分はバカンスみたいなもんさ。軽い視察だったから。総二郎は、茶道一色か?」
「その通り。うんざりするほどな」
「夏休みも何もあったもんじゃないな」
「ホントだよ。みんなで旅行でもしたかったよなあ」
「わかる。俺もそれは考えた」

 本音を言えば、茶道一色の夏休みは、自分にとって多くの収穫があった。ただそれとは別に、飾らない自分で居れる空間も大切で、仲間たちとのんびり過ごす夏休みを望む気持ちもあった。

「類はどうしてたんだろうな。連絡とったか?」
「フランスに居る時に電話した。あいつもちょうどフランスに居てさ、おいでよって言われたんだけど、行く時間がなかった」
「そっか」
「でも」

 あきらは言葉を止めて、目の前のグラスを見遣る。そして、すう、と息を吸い込んだ。

「ニューヨークで司に会ってきたよ」
「……司?」
「ああ」
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2009.11.11 朽葉色に染まる頃
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