01 / 02 / 03
朽葉色に染まる頃
COLORFUL LOVE view of SOJIRO
2
 思いもよらない名前だった。
 司とあきらが会う事が意外だとか信じがたいとか、そういうことではない。ヨーロッパに行ったあきらから、ニューヨークに居る司の名前が出るとは微塵も予想していなかったのだ。同じフランスに居た類のところへさえ行く暇のなかったあきらが、ニューヨークの司のところへ行くのは、些か不自然な気がした。

「ニューヨークも視察だったのか?」
「いや。呼び出されたんだよ、司に」
「マジで? 相変わらずだなー、あいつは」

 自分勝手に人を振り回すのは、司の専売特許とも言える。けれど、社会人として御曹司として、しっかりその地位を確立しつつあることもまた事実。
 司のことだ、これと言った理由も言わずに強引に呼び出したに違いないのだが、自分ではどうやっても動けない事情もあるのだろう。あきらとて、それがわかっているから無碍に断らずに従ったのだろう。

「司、元気だった?」
「ああ、元気だったよ。忙しそうだったけど」
「それも相変わらずか」

 あいつの多忙ぶりは、噂に聞くだけでも相当なものだった。年中ひっついていた俺達が、年単位で会わずにいることが何よりもその証。最後に司に会ったのがいつだったかを考えても、すぐに過去に行き当たらないことに驚いた。

「開口一番、牧野のことを訊かれたよ」
「ほう」
「俺の顔見た途端、『牧野は元気か?』だと。俺のことなんて全く触れずに」

 わざわざヨーロッパから行ったのにだぞ、とあきらは笑ったけれど、俺はすぐに気付いた。笑っているのは表面だけで、その眼の奥は笑っていない。むしろ、どこか切なげに揺れている。
 凝視したまま眼を逸らさない――正確には逸らせなかった――俺に、あきらは何かを読み取ったのだろう。ふっと自嘲気味に息を吐いた。

「あいつ、何にも変わってなかった」
「何にもって?」
「まだ、牧野を想ってる」
「……まあ、そうだろうな」
「ああ。わかっちゃいたけどな」

 司は昔から、良い意味にも悪い意味にも一途で、諦めることを知らない。そしてそれを、なんとかする力を持っている。けれど、ただ一つだけ思うようにいかなかったものがある。あの司が全てを捨てても手に入れたかった唯一無二の存在。それが、牧野つくし。
 牧野が訊けば「あたしはモノじゃない」ときっぱり言い捨てるだろうが、司とて牧野をモノだと思っているわけでもなんでもなく、本気で惚れて本気で切望して、同じ未来を歩みたかった相手なのだ。
 一度は、結婚までのレールが敷かれた時期もあった。周囲の認識は定かではないが、二人は婚約まで交わしていた。けれど二人は別れてしまった。司にしてみれば、納得しきれないままに。
 だから、その経緯を知れば知るほど、司の気持ちが変わっていないことは容易に想像できる。諦めることを知らない男が、そうそう簡単に諦められるわけがないのだから。

「なんか言ってたのか? 牧野のこと」
「変わらずにいてくれたら、って」
「変わらずに?」
「ああ」
「誰がだよ。牧野が、か?」
「ああ。牧野にそう伝えろって言われた」
「……で?」
「それだけ」
「は? まさかおまえ、あいつに伝言頼まれるためだけに行ったのか?」
「結果的にはそういうことだな」

 司ならそれくらいはやりかねない。けれど、それはないだろうと思わずにはいられなかった。
 あきらがニューヨークに居たと言うなら話はわかる。けれどそうではない。わざわざヨーロッパから呼び出したのだ。そんな、電話でも頼めるような伝言のために。仲間だから幼馴染だからと言って、何でも許されていいはずがない。
 あいつの傲慢さは昔から目に余るが、今は特にカチンと来た。
 それはきっと、俺があきらの気持ちに――。
 ――待てよ、ということは……司も?
 俺の中で疑問が浮かび、俺の不安をサワサワと揺らす。

「司、今もまだどうしようもなく好きなんだなって思った」
「そうなんだろうな。でもそれは司の気持ちであって、牧野に求めても無理だろ。変わらずになんて」
「俺だってそう思ったさ。でも、切実な想いなんだよ、司の。会って眼を見て話した俺には、それが痛いくらい伝わってきた」

 どんなに長く離れていても、一度は別れた関係であっても。自分の知る、自分の愛したままの牧野でいてくれたら。そうしたら、きっともう一度始められると司は本気で信じている。無理かもしれない可能性を心のどこかで思ってみたとしても、それ以上に強い信念が存在している。
 司は一ミリも違わず、牧野を愛しているのだ。

「正直、切なくなったよ」

 あきらは、司の想いを深く抱え込んでいた。ニューヨークで感じ取った司の愛の深さを。
 ――わかりすぎるんだろうな、あきらには。
 あきらも――あきらもまた、牧野を愛しているから。仲間としてではなく、一人の女性として。

 本人から聞いたわけではない。けれど俺は確信している。俺だけではなく、きっと類も。そして、おそらく司も。
 あいつのことだ、なんらかの手段で牧野の周辺を探っているだろう。その中であきらの存在に、そしてそこにあるあきらの想いに気付いても、なんら不自然ではない。
 最初は、自分の代わりに牧野を面倒見てくれているのだと思っていただろう、実際そうだったのだから。でも、それを見続ければ、その親密さが伝われば、必ずそこに疑問を抱くはずだ。いくら恋愛事に疎い司でも、自分の惚れた女のこととなれば別。しかも相手があきらとあっては、司だって考えざるを得なかったに違いない。
 ――だから、呼び出したか。
 直接会うことは、その温度を肌で感じ取ること。交わされた言葉の響き方や重みは、電話のそれとは比べ物にならない。会えば、互いの心が浮かび上がる。
 司自身の想いの強さを感じてほしかったのか、あきらの想いの真意を感じたかったのか。いずれにしても司は何かを得ただろう。隣で目を伏せてその想いに漂うあきらから、それは一目瞭然だった。
 けれどそこに何らかの意図が働いていたのは、おそらく司だけではないだろう。あきらもまた、司に会って確かめたかったのかもしれない。司の想いを、自分の想いを。

「そんなに大切なら、なんで手放したんだよ」

 その言葉はポツリと独り言のように吐き出された。あきらの強い想いを感じて、俺の心臓がどくりと鳴った。

「それは――」
「わかってるんだ、どうしようもない事情があったことは。俺だって司ほどじゃないけどめんどくせー家に産まれてるし、選択の自由がない時だってある。信念や想いだけじゃどうしようもないことがあることくらいよくわかってる。だけど」

 カウンターの上で組まれたあきらの手に力が籠る。整えられた爪の先が白くなるほどに、強く。

「だけど、腹が立って仕方ないんだよ。牧野がどんな想いで別れを選択したか。どんな想いでこの一年を乗り越えて来たか……俺は、知ってるから」

 切なく歪むあきらの横顔。
 そう、あきらは知っている。この一年の牧野を。誰よりも。どれだけ悩んで、どれだけ苦しんで、どれだけ泣いたか。あきらはそれを一番近くで見ていた。ずっと。俺や類が現実に追われていた時間も、あきらは必死に立ち上がろうとする牧野と向き合ってきた。牧野のそばで、誰よりも、その苦しみも涙も掬いあげてきた。

「もがいてたのは司だけじゃない。牧野だって苦しんだんだよ。司とおんなじだけ。なのに……司は、自分が牧野を好きなことにばかり必死で、牧野がどれだけ司を想っていたかをわかってない気がして仕方ない。やっとここまで辿り着いたのに。今更、変わらずになんて、あまりにも勝手すぎるだろうが」

 心の奥底から絞り出される僅かに掠れたその声には、あきらの想いが溢れんばかりに詰まっていた。こんなに熱くなるあきらは、とても珍しい。それだけに、こもる想いの強さが伝わって痛い程だった。
 あきらは、いつの間にこんな大きな想いを抱えるようになっていたんだろう。いつの間に、こんな強く思うようになったのだろう。誰にも明かさず、誰にも語らず、静かに想いを募らせて、どれほど葛藤を繰り返してきたのだろう。どれほどの感情を抱え堪えてきたのだろう。
 考えたら、せつなくてたまらなくなった。
 ――司より牧野より、実はおまえが限界じゃねえかよ。
 思った途端、踏み込むことを迷い躊躇っていた自分がどこかへ吹き飛んだ。

「――言っちまえば?」
「え?」
「隠しておくことでもねーだろ」
「……何を?」
「牧野が好きだ――って」
「……」

 図ったように、グラスの中の氷がカラリと音を立てた。
 あきらは、ほんの僅かな動揺も見せずに俺の顔を見つめ続けて、やがて、静かに目を伏せて、ふっと笑みを漏らした。

「気付くよな、やっぱり」
「そりゃまあ、長い付き合いですから」

 だよな、と自嘲気味に笑って、髪に指を差し込むとゆるりと動かした。大きく息を吐き、視線をあげたその横顔は、先程とは打って変わってとても穏やかだった。

「伝えた方が、状況はシンプルになるよな」
「と思うぞ」
「でも」
「でも?」
「あいつが、逃げ場を失う可能性もあるよな」
「……あー、受け入れなかった時ってことか?」

 小さく頷くと、グラスに指をかけた。道を得た水滴がツウっと流れ落ちる。

「今の関係が壊れることを恐れているわけじゃないんだ。……まあ、多少はもちろん考えるけど。でも、友人でいられなくなることはないと思ってる」
「それは同感だな」

 あきらと牧野の間に、俺との間にはない信頼関係があることは見ていてわかる。かつて、類と牧野がそうだったように、きちんとした心の繋がりがあれば、男女の感情に振り回された後だって友情は継続するだろう。

「俺の気持ちを知った上でも牧野が今のままを望むなら、俺はあいつの望むままにいたいと思うし、最大限の努力はするさ」
「ああ」
「でも、見えない壁が出来る可能性は否定出来ない。何かあった時に、俺から手を差し伸べることは出来ても、向こうから差し出してくれなくなるかもしれない」

 信頼している友人が、自分を女として見ていると知ったら。
 もし牧野が「女」を利用して生きる術を持っていたら、自分の味方としてこれ以上に好都合な存在はないし、最大限に頼るだろう。でも、牧野はそれとはまったく正反対の人間だ。

「牧野には出来ないよな、好意を利用するなんてこと」
「きっと牧野は俺を頼ろうとしなくなる。俺が利用されていいと思っていて、それを伝えたとしても。牧野は絶対にしない」
「そうだな、あいつはそういう女だもんな」

 最初は、そんな牧野を不器用で損な生き方をしていると思っていた。どうしてそこまで強がって頑なに自分の力だけで生きようとするのか。近くにある大きな力を――俺達には自由になる力がそれなりにあって、仲間と認めた牧野には惜しみなく差し出していたはずなのに――なぜ使おうとしないのか。
 そればかりを目的に近づいてくる輩を追い払う術ばかり身につけていた俺達にとって、牧野は理解し難い人間だった。
 けれど年月を積み重ねる中で、そんな牧野だから心を許せるんだと思えた。そんな牧野の生き方は俺の世界を広げたとも思う。押しつけるだけが良い事でもなければ、何でも手に入るだけが幸せでもない。生まれ育った環境ばかりは、自分ではどうにもならない。けれど与えられた環境の中で、もがいて何かを得ながら生きることが誰にでも出来るんだと、牧野から教えられた気がしている。
 俺だけでなく、こっちの世界しか知らない俺の仲間達は、誰もが何かを感じ取っているはずだ。
 時と共に、その関係性はどんどん良くなり深くなる。俺達は牧野相手に過剰な力を振り回さなくなった。頑なで真っ直ぐ過ぎる程だった牧野は、信念にも似たその強い意思を捨てることなく、それでもいつしか本心で差し出された親切を受け止める柔軟性を持つようになっていた。
 俺達を変えたのは牧野で、牧野を変えたのは俺達――というか、あきらではないかと、ずっと感じている。年齢を重ねた事や長くなる付き合いの年数だけでなく、尤もさり気なく手を差し伸べる事の出来るこの男が傍にいたから。牧野自身も知らず知らずのうちに、差し伸べられた手を掴んでいたのではないかと。
 もしそうであるならば、その手を掴もうとしなくなった時。掴みたい気持ちに自分でストップをかけ始めた時。牧野はまた、どこまでも頑なな牧野に戻ってしまうかもしれない。見ていてせつなくなるほど、不器用に生きようとする牧野に。
 おそらくあきらは、それらをある程度自覚していて、心配しているのだろう。
 でも。
 果たして本当にそうだろうか。本当に、後戻りをするだろうか。進んできた道は、なかったことにはならない。時には引き返すことがあったとしても、決して消滅したりはしない。
 しかも、牧野だって、きっと――。

「でもな、総二郎」
「ん?」
「そんなのはただの言い訳なのかも」
「言い訳?」
「うん。結局は、気持ちを確かめるのが怖いだけなのかも」
「牧野の?」
「そう」

 みっともねえな、と顔をくしゃりと歪ませ、照れたようにあきらは笑った。
 それは今までに見たことのないほど柔らかな笑みで。あきらの想いの大きさや真剣さを、俺は改めて思い知ることとなった。




 結局、電話は来なかった。
 あきらは携帯電話を視界の隅に置いたまま、朝まで飲み続けた。俺もそれに付き合って、二人でいろんな話をした。
 もし牧野から電話が来ていたら。
 あきらは告げていたかもしれない。「牧野が好きだ」と。
 けれど、電話は来なかった。

 驚いたことに、あきらはその足で再びヨーロッパへと飛び立った。数日で帰ると言い残して。
 何のために日本に帰ってきたんだろうと考えて、数秒で答えに辿り着いた。
 司と牧野が別れた日――なんとなくこのあたりだったと思ってはいたが、はっきりとした日付はその時まで忘れていた。
 あきらは昨日、それだけのために帰ってきたのだ。牧野を一人にしたくない、その一心で。
 ――心底面倒見がいいのか、それとも、愛ゆえか。
 一人納得していた俺に、「誰も覚えていないんじゃ、辛すぎるだろ?」と片眉をあげたあきらは、優しい顔をしていた。


 家へ帰った俺は、数時間ぐっすりと眠って、目覚めてすぐに牧野へ連絡を入れた。以前、時間が空いたらお茶の稽古をつけてほしいと言われていたことを思い出したから。それを理由に牧野を呼び出したと言ってもいいかもしれない。
 あきらは牧野の様子をずいぶん気にしていた。俺に何かを頼んでいったわけではないが、本心では、様子を見てほしいくらいに思っていただろう。
 大切な親友のためだ。会ってその様子を電話してやろうと思った。でもそれ以上に、俺自身が牧野に会ってゆっくり話してみたかった。
 気持ちを確かめるとか、そんな大それたことを考えているわけではない。ただ牧野がどこを向いて立っているのか、この目ではっきりさせておきたい。何も知らずに進んだ先で、親友たちが傷つくのは見たくない。
 すべてが動き出す前の今だからこそ、きちんと見極めておかないといけないような気がしていた。
PREV / NEXT
2009.11.11 朽葉色に染まる頃
  After Word ―この恋の果てに―
inserted by FC2 system