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朽葉色に染まる頃
COLORFUL LOVE view of SOJIRO
3

 数日後、牧野が俺の家へやってきた。
 明るい声と明るい笑顔で玄関に立つ姿を見た時、心の片隅にあった漠然とした不安や心配みたいなものがすうっと消えていく気がした。



「今日はありがとう」
「どういたしまして」
「今更だけど、良かったの?」
「何が?」
「ようやくお休みに入ったばかりなんでしょ? あたしなんかにお茶のお稽古してないで、デートとかさ」
「おまえ、本当に今更だな」
「だからさっきからそう言ってるでしょ」
「ダメなら呼び出さないから心配するなって」
「……ま、それもそうね。西門さんが私に遠慮とか気遣いとか、あり得ないわね」

 稽古を終えて和んだ空気の茶室で軽口を叩く牧野。

 ――「俺がバカだった。あんな中途半端な伝言、伝えるべきじゃなかったんだ。牧野を惑わせて泣かせたのは、司じゃなくて伝えた俺だ」

 あきらから聞いた牧野とはまるで別人に思えるほどに、目の前の牧野は普段通りの振舞いを見せていた。少なくとも俺には、「どこの誰が元婚約者の伝言聞いて泣いたって?」と軽く核心を突いたからかいをしたくなる程、いつもの牧野にしか見えない。
 あきらの眼に映る牧野が俺と違っているのか、裏表があるとは思えない牧野でも、実は特定の相手に見せる顔は違うのか。
 おそらくそのどちらでもあるのだろうけれど、当たり前に俺の前では良く知る牧野そのままだった。
 牧野はそんな俺の心中に気付く気配もなく、残った茶菓子を食べている。実に美味そうに。

「やっぱりお茶っていいね」
「それ、お茶じゃなくて茶菓子の間違いじゃないか?」
「失礼ね。たしかにこれはすっごく美味しいけど」

 ぷくっと頬を膨らませて俺を睨みつつも、握った菓子は放さない。その姿があまりにも可笑しくて、俺はぷっと吹き出した。

「もうっ、真面目に言ったのに。あー、なんで西門さん相手だとこうも会話が成立しないかなあ」
「だってその菓子を握りしめた姿、あまりにも牧野らしすぎる。あー、ツボに入った」
「どうせハタチ過ぎの女には見えないとか思ったんでしょ。いいですよーだ」

 笑い続ける俺をプリプリと怒る牧野は、本当にハタチ過ぎの女には見えない。まるで子供だ。でも俺は、こんな牧野を秘かにとても気に入っている。無邪気なのは決して悪いことではない。無邪気なだけでないことを知っているから、余計にそう思う。
 口に出せばまた会話が成立しなくなるのは判り切っているので、そんなことは言わないけれど。
 詫びて話を促せば、ふんと小さく息を吐いて、それでも話を続けた。

「だからね。今日すごく久しぶりだったけど、やっぱりお茶って心が落ち着くなって思ったの。身が引き締まるっていうのかな。無になれるっていうか」
「なら、また始めたらどうだ?」
「そうしたいけど……西門さん忙しいでしょ?」
「きちんと生徒になれば定期的に予定に組み込める」
「でもそれだと、お稽古代もそれなりに高いでしょ? バイト暮らしの私にはそんな余裕ないよ。あ、今日はちゃんとお支払いします」
「おまえから金を取るつもりはないって、前にも言っただろ?」
「ダメだよ。あの時とは状況が違うじゃん」

 司と婚約をしていた頃、牧野はしばらくお茶の稽古に通っていた。司が頑張っているのだから自分も何かをしたいという思いで。けれど別れたことで、ちょうど忙しくなりつつあった俺が声を掛けそびれていたこともあり、そのまま有耶無耶に終わっていた。
 当時も稽古代のことで牧野とは少々揉めた。要らないと言う俺と、払うと言う牧野。結局、未来の道明寺夫人にお茶を教えるのは、俺にとっても西門にとってもプラスなのだからと説得した。その時は渋々了承した牧野だが、今はもうその理由はない。

「なら格安でやってやるよ」
「それだと今いる生徒さんや他の人に申し訳ないじゃない。いくらでも払うから西門さんにお稽古してほしいって望む人がたくさんいることくらい知ってるよ?」
「それは関係ないよ。だっておまえは俺のダチなんだしさ。友人割引だよ。ほら以前、知り合いの働く店で買い物すると優遇してもらえることがあるんだって言ってただろ? それと同じ」
「同じって……あたしの他愛もない買い物と、西門総二郎のお茶のお稽古を同じに考えるのは、さすがにちょっと……」

 それでも納得いかないのか、渋い顔を崩さない。こういうことに関して、牧野はなかなか譲らない。

「じゃあ、友人割引プラス出世払いってどうだ?」
「出世払い?」
「俺が設定した金額を、おまえが就職して今より安定した収入が得られるようになったら払う」
「……そんなことでいいの? もし払えなかったら?」
「おまえは何が何でも払うだろ。誤魔化すことも逃げることもしない。いや、出来ない」
「うっ、そうだけど」
「だからそうしようぜ」
「ホントに? 利子は?」
「取るかよ、バカ」
「……」
「な? これで決まり」

 押し切る俺に、それでも牧野は暫く考えて、それからようやく頷いた。

「じゃあ、お言葉に甘えてそうさせていただきます」
「よろしい。来月から来いよ。予定組んだら連絡する」
「うん。ありがとう。でも今日は――」
「いらないから。出されても受け取らないから出すなよ」
「……じゃあ、何かさせてよ」
「何かって?」
「何でも。お庭のお手入れに人手が欲しければ手伝うし、西門さんのお部屋の掃除でもいいよ」

 言い募る牧野は真剣そのものだった。
 西門に人手不足なんてあるわけがない。庭の手入れも部屋の掃除もいつでもきちんと行き届いている。仮に人手不足の状況に陥ったとしても、俺の友人である牧野がそんなことをしている姿を目にしたら、使用人達が慌てて止めるだろう。ひれ伏す程の勢いで。けれど牧野は、そんなことは全く考えずに真剣に言うのだ。
 ――変わんねえな。
 庶民な牧野は、どこまでもあくまでも変わらない。その事実は俺を呆れさせるのに、心のどこかが温まる。

「何でもするのか?」
「何でもする」
「本当に?」
「うん、本当に」

 だから俺は、いつだってこいつをからかいたくなってしまう。

「わかった。じゃあ今晩ベッドで――」
「それだけはお断り」
「何でもするって言ったのになあ、つくしちゃん」
「殴られたい?」

 ギロリとにらむ牧野は、本当に昔から変わらず――変わらず温かい。爆笑する俺に「笑うな!」と一括して、牧野は頬を膨らませた。
 本当に本当に変わらない牧野が目の前にいる。「変わらずにいてくれたら」と願った司は、この牧野を見てどう思うだろう。きっと懐かしくて嬉しくてたまらないだろう。けれど、そんな言葉を伝えた自分を恥じるかもしれないとも思う。
 牧野はいつだって牧野なのだ。司が望もうとも、望むまいとも。けれど司が本当に願っているのはそんな表面的なものじゃなくて、そして、おそらくそこは――そこだけは変わった。
 ――見逃してないよ、俺は。
  表情をコロコロと変えて喜怒哀楽を素直に表現する牧野が、時折、ふと手を止めて想いに耽る瞬間がある。その表情が、いつからか妙に憂いを含んで艶めいていた。
 それを目にするたび、牧野も確実に少女から女性へと変化を遂げているんだと気付かされる。
 あきらはこの変化を、ずっと近くで見ていた。そして司は、見ていない。
 この表情を引き出しているのは、積み重なる年月なのか、それともその心に宿る特定の誰かなのか。
 ふいに、その答えを知りたくなった。

「じゃあさ、これからする不躾な質問に答えてくれ」
「不躾な、質問?」
「何だっていいんだろ?」
「……いいけど、あたしに答えられるやつ?」
「おまえにしか答えられないやつ」
「何?」
「もしさ」
「もし?」
「もし、司がヨリを戻したいって言ったら、牧野はどうする?」

 俺の顔を探るように見ていた牧野の眉間に、みるみる皺が寄っていく。そして考え込むようにゆっくりと俯いた。
 そのまま何の言葉も発しない牧野。沈黙が流れた。
 ――単刀直入に切り込み過ぎたか?

「答えたくなきゃ――」
「断る」
「え?」

 俯いたままの牧野から、小さな声がした。そして、くいっと顔をあげると、真っ直ぐに俺を見る。睨みつけんばかりの勢いで。

「西門さん、道明寺に訊けって言われたの?」
「ん?」
「もしそうなら、はっきり言ってやって、道明寺に」
「いや、俺は別に――」
「あたしにその気はないって、はっきり言っていいから」
「待て待て。違うよ。司に頼まれたわけじゃない。ただ俺が訊きたかっただけ」
「……本当に?」
「本当。だいたい司となんて、どれくらい話してないか」
「……なんだ、そっか」

 険しい表情だった牧野が、ようやく肩の力を抜いて苦笑した。

「ごめん、あたし――」
「いや、俺こそ悪かったな」
「ううん、いいの。ごめんね。あたしがちょっとムキになりすぎただけ」

 過剰に反応してしまったことが恥ずかしいのか、牧野は照れ笑いを浮かべ、大きく息を吐き出した。
 数日前、あきらから司の伝言を聞かされているからこその反応だということを俺は理解しているが、それを俺が知っていることを牧野は知らない。これだけ顕著な反応をされたからには、聞いたぞ、と教えることも、何かあったのか、と知らん顔で訊ねることも出来る。そうすることのほうが自然かもしれない。けれど、この話題を掘り下げていいものかどうか……伝言を受け取った牧野の反応をあきらから聞いているだけに、思わず慎重になってしまう俺がいた。
 ただ、今日ここに現れた瞬間からこんな話をしている今に至っても、俺の目に映る牧野は、やっぱりあきらのそれとは違っている気がして、そこだけはどうにも腑に落ちなかった。今だって、目の前の牧野は「あー、びっくりした」と独り言を言いながら湯呑を手に取り、残り僅かだったろう緑茶を飲み干して、ふうと小さく息を吐いている。必死に様子を窺うのが馬鹿らしくなるくらい、いつもの調子で。
 たった数日ではあるが、その間に牧野の中で消化された気持ちがあるからなのか、あるいは、あきらと牧野の間に、俺の知らない何かが……。
 考えたところでベストな答えに辿り着ける気がせず、さてどうしたものかと思案しながら、お茶のお代わりを淹れようと手を動かす。
 その手元に牧野の視線を感じて、見ることもせず「お代わり、いるだろ?」と訊くと、「うん」とだけ返事が返ってきた。
 流れる沈黙。漂う緑茶の香り。
 一杯目と同じように牧野の前に置いたその瞬間。牧野が口を開いた。

「西門さん、知ってる?」

 顔を上げると、続けて言った。

「あたしと道明寺、別れて一年経ったんだよ」
「……そうだな、それくらいになるよな」

 頷きながら言えば、牧野も小さく頷いた。

「だからもう戻ることなんてないよ。もし道明寺が言ってきたとしても、さっき言ったとおり、あたしは断る。一年も経って、今さらあり得ないから」
「時間は関係ないだろ。もう一年かもしれないけど、まだ一年とも言える」

 俺の言葉に牧野は「そうだけど」と呟いて、湯呑を手に取った。一口、二口と口に運び、それから自分自身を納得させるように頷いた。

「うん、そうだね。時間は関係ないね。半年でも一年でも。断るものは、断る」
「未練はないのか?」
「未練、はない」
「まったく?」
「うん。ただ、後悔は少しだけあるかな」
「後悔?」
「付き合ってる間、もっとどうにか出来たんじゃないかなって。でもやり直したいわけじゃない。だってあたし、もう道明寺のこと、あの頃のようには想ってないから」

 僅かに目を伏せ、小さく笑みを浮かべながら素直に自分の気持ちを淡々と語る牧野は――そして多分俺も――いつの間にか少しずつ、大人になったのだろう。昔なら、茶化して誤魔化して終わっていたであろうこの手の話も、今はきちんと向き合える。
 ――これなら、あともう一歩踏み込むことも許されるかな。

「じゃあ、今の牧野は他にいるんだな」
「え?」
「好きなやつ。司じゃない、誰か」

 刹那、牧野の眼が大きく見開かれ、瞳が揺れた。まるで動揺をみせなかったあきらとは真逆の反応。性格ゆえか付き合いの長さの差か。そこには明らかに動揺が見えて、語らずともイエスだと感じ取れた。

「牧野、沈黙は肯定だぞ」
「……西門さんって意地悪。だって、そんなこと突然――」
「突然じゃなくても同じ反応すると思うけどな、おまえは。わかりやすいからなー」
「わ、悪かったわね」
「別に悪くない。むしろ助かる」
「助かるってなによ」
「腹の内を探るのに無駄な労力を使わずに済む。おかげで的確なアドバイスもしてやれる」
「アドバイス? 西門さんがあたしに?」
「そう」
「へえ。どんな有難いお言葉をいただけるのかしら?」

 半ばうんざりしたような顔に冷笑を浮かべて俺を見た牧野の表情が、次の言葉で一変した。

「怖がるな、ってことかな」
「……え?」
「新しい恋を、怖がって竦んだりするな」
「……」
「好きになったらさ。それがどんな相手でも、その恋を捨てることも諦めることもないんだから」

 牧野の瞳が、揺れた。

「……何よ、その真面目なアドバイス」
「さあね」

 曖昧にすり抜ける返事とは裏腹に、俺は牧野から眼を逸らさない。そんな俺を、牧野もじっと見つめ返してくる。
 はっきり言葉にせずとも、思い描いた先に立つ人物が同じなら、その真意は伝わるはずだ。言葉もなく互いの気持ちを探り続けたそこに、俺はひとつの答えを見た。
 薄々感じていた、ずっと感じていた、限りなく確信に近かった勘。

 やっぱり牧野も、あきらに惚れてる。――もう、誤魔化しようもないほどに。

 牧野にもそれが伝わったのだろう。その顔が見る見るうちに朱に染まっていき、ゴクリ、と喉が音を立てた気がした。

「いつ……から?」
「さあな。たった今、とも言えるし、ずーっと前から、とも言える」
「……」
「気付けば長い付き合いだからな、俺達も」

 軽い調子で言う俺を、牧野は呆然と見ていたが、やがて諦めにも似た溜息を漏らし、力なく笑みを浮かべた。「あーあ」と零れた小さな声は、自分自身に対してだろう。両手で包み込むようにして持っていた湯呑を数秒見つめ、一口飲んでから静かに置くと、居住まいを正して俺を見た。

「西門さん。お願いが――」
「言わないよ、誰にも。あきらにも」
「……」
「安心しろ」
「……信じていいよね?」
「もちろん」

 頷く俺をじっと見て、それから丁寧に頭を下げた。ありがとう、と笑った牧野は、今まで見たどの時よりも、美しく可愛い女の顔をしていた。
 ふと、別れ際に見たあきらの柔らかな瞳を思い出した。

――
「帰ってきたら、思い切って告っちまえば?」
「え?」
「あれこれ考えたところで、結局は言ってみなきゃわかんないんだからさ」
「……まあな」
「ここはひとつ、踏み込んでみるのもアリじゃないか?」
「……やめとく」
「慎重だな」
「そうかも。でも、大事にしたいから」
「……」
「ゆっくりでいいんだ。そのかわり、大切にしたい。自分のこの気持ちも、牧野も」
――

 ゆっくり待ってみよう。
 この恋の成熟を。
 やがてきっと来る、幸せの時を。

Fin.
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2009.11.11 朽葉色に染まる頃
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