01 / 02 / 03
雨色に滲む
COLORFUL LOVE view of AKIRA
2
翌日。
ダルさと寒さで目が覚めた。
正確には、あまり眠れなかった。
身体中が痛い。
この感覚には覚えがある。

( 完全に風邪ひいたな。 )

多分、体温計で数字として見てしまったら、それだけで具合悪さが倍増しそうなくらいの熱は出てるだろう。
それはそうだろう。あの寒空で雨や雪が降る中、傘もささずに立ち尽くしていたのだから。
あれで風邪を引かない方がどうかしてる。

( もともと寒さに弱いってのにな。 )

寝返りを打つと重い頭が揺れて、目の前まで揺れるようだった。
思わず大きなため息を吐く。

クリスマスパーティーは夜。
楽しみだと声を弾ませた牧野の笑顔が浮かぶ。

( 半日寝たらマシになるかな……。いやその前に連絡だけは入れないと。 )

俺はベッドサイドの電話を手にすると、使用人に風邪薬を持ってきてほしいと頼んでから、ゆっくりと身体を起こした。





ふと目覚めて時計を見ると、午後一時を少し回ったところだった。
薬を飲んだのが七時くらいだったと思うから、あれから六時間が経っている。
体調は依然として思わしくなく、むしろ朝よりもダルさが増している気がする。
あれから少しは眠れたが、寝苦しくて何度も目が覚めた。
その間には、話を聞いたらしいおふくろが慌てた様子でやってきた。
医者を呼ぶとか看病するとかいろいろと言っていたが、大丈夫だから双子を近づけないように――あの二人が騒ぐと落ち着かなくてゆっくり休めないという理由もあるが、それ以上に彼女達にうつしたくないと思った。二人同時に具合が悪くなっては看病も大変だし、何より小さい彼女達が苦しい思いをしては可哀想だから――と言うと、深刻そうに頷いて出て行った。
それきりおふくろの姿は見ていない。
ベッドサイドのテーブルに、食事や薬と一緒におふくろの好きなプリンが置かれているところを見ると、俺が眠っている間に様子を見に来たのかもしれない。
見た目も性格も甘ったるくて子供っぽいところもたくさんあるけれど、それなりにきちんとした母親であることも確かだから。

それにしてもこの体調はいただけない。
少し頭を動かすだけでぐわんと眼の前が揺れるような衝撃を受けるし、まだ熱が上がっているのか寒気がして、身体の節々は動かしたらギギギと音を立てそうな程痛い。

( 何か口にして、薬飲まないといけないよな…… )

頭では思うものの食欲はまったく湧かなくて、正直少しの量を口に入れるのも躊躇われて、いよいよ医者を呼んだ方がいいのではないかという気になった。

窓際の机に目をやると、無造作に放り出した携帯電話のライトが点滅しているのが見えた。
牧野に講義を休むことだけはなんとかメールをしたけれど、それきり携帯電話はそこに置き去り。
メールか電話か、何らかの着信があったことは確かなようだ。
総二郎からは昨夜から何度か着信があって、そのどれにも返事をしていないから、また連絡が来ているだろう。
おそらく、講義を受けているだろう牧野からも。
今の状態を話したら心配させることは間違いなくて、けれど話さずに時間ばかりが経ったところで体調が回復する見込みも薄い。

( 早く連絡しないとな。 )

ひとつ大きく息を吐いて、ゆっくりと身体を起こしかけた時、部屋のドアが遠慮気味にノックされた。
返事をすると間もなく、カチャリと音がしてドアが開く。

「あの……すみません、こんな時に」
「何?」
「お客様がお見えになっておりまして」
「客? 誰?」
「道明寺様です」

「帰ってもらって」と言うつもりで一応訊いただけだったのだが、使用人が告げた名前に、俺は言葉を飲み込んだ。

( ……司? )

瞬時に、昨日の司の姿が頭に浮かぶ。
同時に牧野の顔も浮かんで、胸の奥がチクリと痛んだ。

いったいどんな用件で俺を訪ねてきたのだろう。
牧野に関係することだろうか。それとも――いや、他の可能性を考えるだけ無駄というもの。
それ以外にはあり得ない。

「あの、どういたしますか?」

黙りこくる俺に、使用人は遠慮気味に声をかける。

「ああ、悪い。会うよ。少しだけ待っててもらって」

わかりました、とドアが閉まり、部屋はしんと静まり返る。

司に会うのは、夏にニューヨークで会って以来。
あの時は、牧野への伝言を預かったくらいで、他の話はほとんどしなかった。
ただ、司が探るように俺を見ていたことは覚えている。
おそらく俺の気持ちを何らかの形で知ったか感じ取ったのだろうと、そんな予感はしていた。
俺自身、自分の気持ちを隠し続けるつもりだったかと言われたら、答えはノー。
はっきりと告げる覚悟で訪れたわけではない。けれど、告げてもいい覚悟はあった。
でもあの時は、それが出来なかった。
きっかけが掴めなかったとか言いそびれたとか、そういうことではない。
司は俺に言わせる隙を与えなかったのだ。
俺はお前の想いを認めねえ――
そう言われている気がした。

その司が訪ねてきたということは、今度こそきちんと話をつけるつもりなのだろうか。
それとも、また牽制するのだろうか。
俺の気持ちは、あの頃よりも深く大きくなっている。
もう、隠したり誤魔化したりは通用しないほどに。

( 覚悟を決めなきゃなんねえな、俺も。 )

深い深呼吸をして、ゆっくりとベッドを降りた。



着替えを済ませて顔を洗い、リビングへと向かう。
寝ていた時に感じていたよりも更に身体はだるくて、上手くバランスが取れていないのか歩く足取りはどこかフワフワしていて、気を抜いたら倒れそうに思えた。
はっきり言って、この状態でベッドを抜け出すのはまずい気がする。
けれど司に会って話をしなければという緊張感が、俺を突き動かしていた。

リビングに入ると、窓辺に立って庭を見つめている司が目に入る。
きっちりスーツを着こなしたスラリとした立ち姿。
その横顔は、ニューヨークで見た時よりも、またさらに痩せたような気がした。
俺の気配に気付いたのか、司はくるりと振り向いた。

「悪い、待たせた。久しぶりだな」
「ああ。久しぶり。……おまえ、大丈夫なのか?」
「ん?」
「具合悪いって聞いたから」

司が俺の顔をまじまじと見る。
俺はその視線を適当に交わして、ただの風邪だ、と告げた。

「それより、そんなところ立ってないで座ったら?」
「いや、すぐに出るから」
「相変わらず忙しいヤツだな」

俺はソファに身体を沈め、ゾクゾクと寒気の止まらない身体を抱くように腕を組んだ。
司はそんな俺をただじっと見つめている。

「で、話は?」
「ん?」
「座る時間のない人間が用もないのに訪ねてくるとは思えない。何か話があるんだろ?」
「……ああ」

短く返事をしたきり、司は黙りこんだ。
なんでも躊躇いなく話す司には珍しいことで、こんな時に話そうとしている内容は、俺が知る限り一つしかない。
司の惚れこんでいる女――牧野つくしのこと。
司は俺から視線を外し再び窓の外を見つめ、やがて静かに話し出した。

「昨日、牧野に会った。あいつのアパートに行ったんだ」
「……へえ」

知ってる、とは言えなかった。
俺は曖昧に返事をして俯く。
窓の外を見つめている司は、そんな俺に気付いていない。

「久しぶりに会ったよ」
「そうだろうな」
「相変わらずビンボーで、相変わらず気が強くて、まったく変わってなくて驚いた」

ひどく懐かしいものを思い出すように目を細める司に、離れていた年月の長さを実感する。

「別に驚くこともないだろ。牧野は牧野だ。そうそう変わるわけがない」
「まあな」

人は簡単には変わらない。そしてすべては変えられない。
変わるところ、変わらないところ、それらすべてが融合してその時々の自分を作る。
司には、本当に変わらない牧野だけが映っているのだろうか。
多分、そうじゃない。
変わっていないと言うわりにはその横顔に寂しさが混じっていて、離れていた年月は実際以上の溝となって司の前に現れたのだろうと、そんな気がした。
再び沈黙が流れる。
話はこれで終わらないはずなのになかなか話し出そうとしないのは、言葉を選んでるからか。
それとも、上手く言葉に出来ない感情があるからか。
窓の外を見つめる彫刻のように整った横顔には、何の感情も映し出されてはいない。
けれど司の中が牧野でいっぱいだということは容易に想像がつく。
そして昨日のことを思い返しているんだろうことも。
司を深く知らない人間には読み取れないだろう感情も俺にはわかる。
それは幼馴染として親友として、ごく自然なこと。
けれど今はそのごく自然なことが、ひどく邪魔に思える。
二人でどんな時間を過ごしてどんな会話をしたのだろうと考えるだけで心の奥がジリジリしてしまう、そんな俺だから。
俺には関係ないし知る権利もないとわかっていても、ジリジリとした感情が消えない、そんなどうしようもない俺がいるから。
その姿から視線を外し、俺は小さくため息を吐いた。

この男とだけは――親友とだけは、同じ女を好きになるまいと思っていた。
同じ女に同じ感情を抱いてしまったら、友情が成立しなくなると思っているわけじゃない。
ただ、親友の恋を心から応援して心から祝って、からかったり心配したりしながら心から見守りたいと思っていた。
だから俺は、自分の気持ちにブレーキをかけたし封印した。
今までは、それがきちんと出来ていた。どんな時でも、どんな相手でも。
けれど。
牧野を好きになって、感情が理性を上回ってしまうことを知った。
初めて直面した事態に、本当に本当に、どうしてそうなるのかがわからなくて狼狽する俺がいた。
それでも感情は押し留まる事を知らなくて。
気付けば心の底から湧き上がるその感情から眼を背けるなんて出来なくなっていた。

夏のあの日、司が俺を呼び出したのは、そんな俺の感情に気付いたから。
今日ここへ来たのは、俺の気持ちを確かめようと思ったから。
はっきりとした何かがなくても、それくらいは察することが出来る。
この先のことなんて何もわからない。
司とこうして面と向かい合ってそのことについて話したところで、何かが進むわけでも何かが変わるわけでもないかもしれない。
でもやっぱり、この感情はきちんと伝えなければならない。
司は俺の大切な親友だから。
俺は司を真っ直ぐに見て、意を決して口を開いた。

「なあ、司。俺――」
「プロポーズしたんだ」

俺の言葉を遮るように司が放った一言に、俺の思考は停止して、言葉は出口を失った。
聞き間違えかと、本気で思った。

「……司、今なんて言った?」
「牧野に、プロポーズした」

射抜くような真っ直ぐな視線を向けられて、俺は微動だに出来ず、ただ言葉にならない衝撃が身体中を駆け巡った。

「ちょ、ちょっと待て。意味がよくわからないんだけど」
「言葉のままだ。プロポーズしたんだ。もう一度」
「だって司、おまえは他の――」
「ああ、その話はまるごと撤回だ。もともとするつもりのない結婚だし、婚約も財閥のためにしなきゃなんねえかなと思ってただけだから。そんなのに頼らなくてもいいところまで財閥を立て直した」

相当手荒な手段も使ったけどな、と小さく笑った司を、俺は茫然と見つめ返すだけで言葉が出なかった。

司の婚約話が財閥がらみで、余程の事がなければ結婚までいかないことはわかっていた。
牧野と別れた後、どれだけ時間が経っても婚約発表はなく、やがて道明寺財閥の状態が上向きになったことだけが耳に入ってきた。
このまま婚約の話はなくなるだろうと、総二郎や類と話したこともある。
ただ、そのことを牧野と話したことはなかった。
牧野はすべてを覚悟した上で別れを選んだ。
司の状況がどうなっても戻るつもりはないと言い切る牧野にこの話は不要で、むしろ彼女の心を乱すだけだけだから。

「司、牧野とは婚約解消して別れたよな?」
「あいつが勝手にそうしたいって言っただけだ」
「でも一度はそれを受け入れたんだろ?」
「受け入れたも何も、意地っ張りで頑固でへそまがりなあの女と電話で話しても拉致があかねえから、その場はわかったって言っただけだ。最初から牧野と別れるつもりなんて、俺の中にはこれっぽっちもねえ」
「おまえはそうでも牧野は違っただろ」
「でも俺は牧野以外は考えられねえ」
「そうだけど」

それはわかっているけれど、自分の気持ちを押しつければいいという問題ではない。
恋愛も婚約も結婚も、片方だけの考えで出来るものじゃない。
押し切るものでも、押しつけるものでもない。
自分の想いを全面に出して突き進むのは司らしいと言ってしまえばそれまでだけれど、そのまま突っ走っていいことではないのだ。
司だって、今更そんなことがわからないわけないのに。

「司、おまえの気持ちわかるけど、牧野の――」
「返事は聞いてねえ」
「は?」
「俺は前からこうするつもりでいたけどあいつは別れたと思いこんでるみたいだし、それなり心の準備も必要だろうと思って、待ってやることにした。でも、イエス以外の返事は認めねえし、諦めるつもりもねえ」

そこに、牧野の心は完全に不在だった。
司はこのままの感情を牧野にぶつけたのだろうか。
牧野はどんな気持ちでその話を聞いて、今何を考えているのだろうと考えると、心がざわついて仕方ない。
このままじゃいけない。これ以上、牧野が傷つくのは見たくない。
俺の中にその想いが大きくなる。

「なあ、司」
「俺と牧野が結婚するのは運命だ。離れてたせいですれ違っちまった部分もあったけど、これからは近くに居れるから。きっと以前と同じように――」

愛し合えるはずだ――そう続いた司の言葉は、俺の耳にはほとんど届いていなかった。

「待て。司、近くってどういうことだ?」
「近くは近くだよ。やっぱり近くにいねえとダメだってわかったから、ニューヨークでやるべきことは片付けた。春には帰国する」

それは、いつかその日が来るとわかっていた、でももっと先だと思い込んでいたことだった。

( 司が日本に帰ってくる?牧野とやり直すために? )

俺は相当険しい顔をしていたのかもしれない。
司は俺を見てふんっと鼻で笑った。

「おまえと言い牧野と言い、俺が帰ってくるのが嬉しくねえのか?少しは喜んでもらえると思ったのに、揃いもそろってマヌケ面しやがって」
「……」
「ま、嬉しくても素直に表現出来ねえ牧野は仕方ねえけどな。あ、あきら。おまえはもしかして嬉しすぎて声も出ねえか」

軽口を叩く司の言葉など、どうでもよかった。
脳裏に、あの日の牧野が浮かぶ。

「とにかくそういうことだから。また楽しい日々が戻って来るぞ。あきら、俺に協力しろよ。今度こそ早めに婚約発表して、一気に結婚まで持ち込みたいから」

司と別れたあの日、俺の腕の中で泣き崩れた牧野の震えがはっきりと思い出される。
司を想う痛いほどの気持ちと、それでも決別しようとする強い覚悟と。
あの時の牧野の悲しみを、今でもはっきりと覚えている。

( なんもわかってねえよ、司。 )

牧野の気持ちの端っこさえ掴んではいないと思ったら、とてつもない悔しさが込み上げた。

「司。悪いが俺はお前に協力は出来ない」
「なんだそれは」
「牧野の気持ちを考えたことはあるか?」
「牧野の気持ち?」
「おまえと別れることを選んだ牧野の気持ちだ」
「すれ違っただけだろ。離れてたからな。近くにいたら、こんなことにはなってねえ」
「本当にそう思うか?」
「思うよ」
「……それが本心なら、おまえがどんだけ望んでも元になんて戻れねえよ」
「なんだと?」
「司は牧野を幸せに出来ない。絶対に」

言い切った俺を、司はじっと睨みつけた。

「まるで、おまえなら出来るみたいな口ぶりだな」
「少なくとも、今のおまえよりはな」
「……そうやって牧野を口説いたのか」
「は?」
「おまえだけは俺の女に手を出さないと思ってた」
「……」
「たとえ別れるしかなかったにしても、あの時点で――いや、どの時点でも俺が諦めていないこと。おまえはわかってると思ってた」
「わかってたよ」
「じゃあなんで人の女を取るような真似してんだよ。俺がいない間に牧野を自分の女にして、俺のことを笑ってたのか?」
「司、それは違う」
「違わねえ。俺のものを横取りした意識があるから隠しているんだろ?」
「司、おまえは誤解――」
「あの女もあの女だ。手近なところで見つけやがって」
「そういう言い方すんなよ。そうじゃない」
「結局のところ金持ちなら誰でもいいんじゃねえか、あのビンボー人は。道明寺財閥は荷が重すぎるけど、美作商事ならなんとかなるとでも思ったのか?」
「……やめろ」
「なんもわかってねえ女だな。また同じようにあと一歩のところで踏ん切りがつかなくて泣くことになるだけ――」

バンッ――

気付けば俺はテーブルに手を叩きつけ、派手な音をさせて立ち上がっていた。
その勢いでカップが倒れて紅茶が零れ、テーブルの上に広がる。
自分でも無意識だった。
ただそれ以上は言わせまいと強く思った。
俺は窓際に立つ司を睨みつける。

「司。おまえ本気で言ってんの?」

思っていたよりもずっと低い声だった。

「……本気だって言ったら?」
「牧野はおまえが惚れた女だろう?なんでそんな事言えるんだ?あいつが家柄や金を気にして誰かを好きになるような女じゃないってこと、おまえが一番よく知ってるはずじゃねえのかよ」
「……」
「本気で言ってるんだったらこれ以上は許さねえ。牧野は親友だ。親友を悪く言うヤツは、絶対許さねえ」
「……」
「たとえ司でも、だ」

張り詰めた空気が流れる。
俺も司も視線を逸らさず睨みあったまま。
これだけは譲れない、と強く思ったまま。

やがて先に言葉を発したのは、司だった。

「牧野がそんなに大切か?」
「大切だよ」
「親友だから――だけじゃないよな。それともまだ誤魔化すか?」

誤魔化すつもりなど、話し始めた時からない。
自分の中の真実は、思っていたよりも簡単に言葉になった。

「そうだ。――俺は牧野が好きだ」
「……」
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