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踏み出す一歩は雪色に残して
COLORFUL LOVE view of TSUKASA
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 美作邸の駐車スペースに、一台の高級車がスルスルと入ってきた。
 見覚えはなかったが、誰が乗っているかはすぐにわかった。まもなく助手席のドアが開いて、思った通り、牧野が姿を現した。
 牧野は俺の乗っている車をじっと見つめ、ぺこんと小さく頭を下げたかと思うと、邸へと走っていった。それを見つめている俺の視界の端に、車から降りた総二郎がこちらへ近づいてくる姿が見えて、俺も車を降りた。

「久しぶりだな、司」
「ああ、久しぶり」

 俺達はそれきり黙り、邸に入っていく牧野の姿を見つめていた。


 昨夜、日本に着いたその足で、牧野のアパートへ行った。そこで俺は、牧野の想いを真正面から受け止めることとなった。
 俺の唯一無二の女が、一人の男に想いを寄せていた。――俺以外の、俺の良く知る男に。
 正直、落ち込んだ。どうしようもない程の喪失感が俺を支配した。
 突きつけられた現実は、悲しくて、せつなくて、つらい。
 けれど、それ以上に、あきらを想う牧野の気持ちが痛かった。

「まだ何も始まってないの。始まるかどうかも、わかんない。仮に始まったところで、上手くいく保証なんてどこにもない。でももう、止まらないの。どうやっても」

 牧野の言葉、声、表情。そのすべてが、はっきりと俺の中に焼き付いていた。

 一晩中考えて、あまり眠れずに朝を迎えた。
 どう考えてみても、もうこれは、直接訊くしかないと思った。
 その結論以外は、なかった。

 俺は、美作邸を訪れた。
 そして。あきらの想いを、知った。

「この気持ちは譲らないし曲げないと決めた。俺は牧野に惚れてる。心底」

 多くの言葉は必要ない。俺にはわかる。あきらがどれほど強くどれほど深く牧野を想っているか。俺も牧野に惚れているから。心底、惚れているから。
 胸が痛かった。わかっていた現実だけれど、その想いを確かめたくてあきらに会いに来たのだけれど、それでもやっぱり、現実はせつなくてつらかった。
 聞きたいこと、話したいことがたくさんあった。けれど結局、そのすべては言えなかった。
 目の前で、あきらが倒れたから。

 咄嗟に駆け寄り、触れたあきらの熱さに息を飲んだ。具合が悪いことは、使用人から聞いていて知っていた。俺の前に現れた時、その顔色の悪さに驚いたけれど、それでも突然訪れた俺を拒まずに会ったあきらにそれなりの覚悟を感じていたから、見て見ぬふりをしていた。
 けれどあきらは、俺が思っていた以上に無理をしていた。
 気付けなかった自分への腹立たしさと、会うことを断らなかったあきらへの苛立ちと。どんな状態でも話さなければならないと強く思ったあきらの決心と、どうしても向き合わなければならなかった俺達の抱える想いと。
 俺の中には全ての感情が一気に駆け巡った。
 ぐったりしたあきらを部屋へ運んでベッドへ寝かせた俺は、医者と入れ替わるように部屋を出て、廊下で診察が終わるのを待った。壁に寄り掛かり待ち続ける俺に、「リビングへどうぞ」「椅子におかけください」と美作家の使用人たちは次から次へと言葉をかけてきたが、そのすべてを断って、俺はその場に居座り続けた。
 やがて出てきた医者に熱は高いが心配いらないと知らされて、牧野へと電話をした。
 それは、絶対にしなければならないものだった。そうすることが、俺が前へ進むためにも必要だった。


 牧野の姿が邸の中へと消えてゆく。
 ここへ来るようにと連絡したのは俺自身。見届けようと決めたのも、俺自身。
 それでもやっぱり、胸は痛い。
 知らず知らずのうちに、俺は小さくため息を吐いていた。

「司」

 気付けば、総二郎が心配そうに俺を見つめていた。
 俺はその視線を受けて、片眉を僅かに上げる。

「総二郎、おまえは行かねえのか?」
「野暮だろ、俺が一緒に行くのも」

 まるで、当たり前に俺が二人の気持ちを知っているような話し方をする。それは長年の付き合いだからこそわかる確信なのだろう。
 ピンと張りつめていた緊張にも似た息苦しさが、ほんの少し和らいで、俺は思わず苦笑した。

「総二郎」
「ん?」
「俺は、あいつらの幸せを邪魔してたか?」

 女の気持ちに――女に限らず、人の気持ちに敏感なあきらが、牧野の心を全く読めないなんてことはあり得ない。いくら牧野が鈍感でも、一人で部屋を訪れるあきらから、特別な想いを感じ取れないわけはない。その関係が、単なる友人という枠からはみ出していることくらいはわかっていたはず。
 だから俺は、二人はとっくにきちんとした関係を持っていて、それを俺に黙っているんだと思っていた。けれど二人は、付き合っていないと言った。想いを伝え合ってもいない、と。
 たしかに問題はいろいろある。
 俺と牧野がそうだったように、あきらと牧野にも、住む世界の違いはどこまでもついて回る。たとえ付き合うことになったとしても、その先の先までの事を考えると、決して明るいとは言い難い未来が広がっているかもしれない。それでも、どうしても譲れない想いがあるのなら、踏み出すべきなのに。
 俺にはそれが理解出来なかった。
 唯一思い当たるとすれば、俺自身の存在だった。
 相手は、牧野で、あきらだから。
 だとしたら、俺は二人の邪魔をしていたことになる。俺自身も知らないうちに。
 総二郎は、そんな俺の考えを読み取ったのだろう。小さく笑って首を横に振った。

「そんなことはねえよ。決して司のせいとか、そういうことじゃない」
「ならどうして、想い合ってるのに伝え合わない?」

 互いに想い合っているなら伝えればいい。そう思ってしまう俺は、単純すぎるのだろうか。
 沈黙が流れた。
 総二郎は俺から視線を外し、美作邸を見つめると、ゆっくりと口を開いた。

「待ってるんだよ」
「待ってる?」
「想いが満ちるのを」

 想いが満ちる。――それはいかにも総二郎らしい言い回しだった。

「あきらにとって、牧野は特別な女だ」
「特別?」
「年上でもなければ、ワケありでもない。今まで相手に選んできたどんな女とも違う。しかも、司の惚れてる女で、元婚約者だ。好きになる対象じゃなかったはずなんだ。絶対に。たとえ、心のどこかでそんな想いを抱えていたとしても、だ」

 総二郎のその言葉に、俺は微かなひっかかりを覚えた。

「待て。あきらは前から牧野が好きだったのか?」
「さあ。それは俺にもわからない。ただ」
「ただ?」
「こんなこと、司の前で言うのもなんだけど……あの二人は、置かれてる状況が似てるからな。家柄には雲泥の差があるけど、家族に頼られて周りに頼られて、百パーセント自分の為だけの選択が出来ない人種っていうの? 俺らジュニアもある意味そうだけど、あいつらのは、またそれとは別の次元。だから、お互いの心情みたいなものを自然とわかり合える部分があったと思う。昔からな。わかってくれるやつがいるって嬉しいし、楽じゃん?」

 俺らにはわからないわけだし、多分一生。と総二郎は小さく笑った。

「価値観ってやつか」
「そうだな。一言で言っちゃえば、そこにおさまるのかな。まあ、もう少し複雑かもしれないけど」
「……わかんねえな」
「ま、男と女は複雑でわかんないもんさ」
「……ふんっ」

 そこまで聞けば、総二郎の言いたいことはわかった。
 そんな二人が――なかなかそんな立場の人間が周りにいないあきらが、牧野に特別な想いを持ったとしても不思議ではない。

「これ、別にあきらのフォローってわけじゃないけどさ。それでもあいつは、牧野を好きになるつもりはなかったと思う。司と類が惚れてる女に自分も惚れて、なんてそんな図式、あいつの中にはなかったはずなんだよ」
「それでも、好きになっちまった?」
「多分、相当悩んだと思う。戸惑ったと思うし、どうにか止めようと試行錯誤したと思うぞ」
「でも、止まらなかった?」

 司も大人になったなあ、としみじみ俺を見る総二郎に、「うるせえ」と吐き捨てると、総二郎はひょいと肩を竦めた。

「そんなわけで、あいつは慎重にならざるを得なかったわけだ。いろんな意味でな」
「いろんな意味、か」

 そこに込められる意味には、俺がわかり得ないものもあるのだろう。どれだけ情報を集めて状況を把握しようと、どんな詭弁を並べようと、俺は何年も日本にいなくて、あいつらをこの目で見続けてはいないのだから。
 類が牧野に惚れていると知った時、俺はどんな行動を取っただろうか。それでも何とか乗り越えられたのは、俺に強い想いがあったから? 牧野が俺を想ってくれたから?
 現実は厳しい。牧野はあきらに惚れていて、俺はその想いの深さを感じ取ってしまった。悔しい事に、あまりの健気さに心を打たれてしまった。そして、あきらの想いにも。
 現実は、厳しくて、せつなくて、やるせない。まさかこの俺が、こんな想いを抱える日がこようとは、思ってもいなかった。

「白黒はっきりしない事って面倒くせえな」
「ん? ああ、恋とか愛とか、人のココロってやつ?」
「やっぱり俺には向いてねえ」

 俺はひとつため息を吐くと、腕時計を見た。会社に行かなければならない時間が迫っていた。そろそろ行くか、と思った時、ガチャリと音がして車のドアが開き、運転手が顔を出した。

「司様、そろそろ――」
「ああ、わかってる」

 軽く手を挙げると、運転手は再び車の中へと消えた。

「会社に行かなきゃならないってのは、本当だったんだな」
「ん?」
「電話で、すぐにでもここを出なきゃならないみたいなこと言ってたのに、ここにいたからさ。俺はてっきり、ここから離れるための言い訳かと思ってたよ」
「残念ながら、本当だ。一時間後には、会議室のど真ん中に座ってる予定だ」
「プライベートで来たんだろ? 随分と忙しいんだな」
「いや、そんなに忙しくない。会議はちょっと大切な事案なんで、飛び入り参加さ」
「へえ」

 総二郎は感心したように、感慨深げに俺を見つめた。思わず「なんだよ」と眉を顰める。

「いや、深い意味はない。司も大人になったもんだ、と思っただけだ」
「なんだ、それ」

 てめえはじじいか、と悪態を吐いたが、言いたい事はすぐにわかった。

「良くも悪くも、ジュニアだからな、俺達」
「そうだな。どうにか抗えないかと考えたこともあったけど……結局、自分で選んでるんだもんな」
「そうだな。でも、似合ってるよ、司」
「そうか?」
「ああ。司はトップが良く似合う」

 総二郎の笑顔は、とても優しかった。




  ***




「日本に帰ってきて牧野と話すまでは、俺はあいつらに隠し事をされてるって思ってたし、そうじゃないとわかっても、グズグズ結論を先送りして一体何してんだ、ってちょっと腹立たしかったっていうかさ」
「それで、殴りこんじゃったわけね」
「別に殴りこんだわけじゃねえけど」

 これでも俺なりに冷静に話そうと思っていた。けれど、俺の顔を見ても気持ちを打ち明けないあきらに苛立ちを覚えて、少し挑発的な態度は取ってしまった。
 あきらとの会話を掻い摘んで話す俺を、総二郎も類も、ただ黙って話を聞いていた。そして最後まで聞き終えると、「司とあきららしい会話だな」と総二郎が言い、類が頷いた。責めることも咎めることもしない、ただそれだけの言葉だった。

「まさか、あいつがあそこまで具合悪いなんて思わなかったから、かなり焦ったよ」

 あきらが倒れて、話が途中になってしまったことを、ほんの少し悔いていた。

「あいつは時々、とんでもない無茶するからな」
「そうそう。突然キレたりね。わかりづらい」
「類、てめえは人のこと言えねえぞ。全然わかんねえよ」
「そう? そんなことないよ。ね、総二郎?」
「いや、一番わかんねえ」

 そうかなあ、と首を傾げる類に、俺と総二郎は思わず笑う。当の本人は、さして気にした様子もなく目の前のケーキを突いている。最初に言った通り、本当にその中のフルーツだけを取り出そうとするから、皿の上がぐちゃぐちゃで、それが可笑しくて、また笑った。
 決して笑い話をしているわけではない。けれど、笑った分だけ心が軽くなる気がした。
 今の俺には、これくらいがちょうどいい。
 ソファの背もたれに身体を預け、天井を見上げると、自然と言葉が漏れた。

「あーあ。早く付き合っちまえばいいのに。そのほうがスッキリする」
「司、平気なの?」
「別に平気だよ。ここまでわかってんだ。今更どうってことねえ」
「本当かなあ。泣かないでよ?」
「はあ? 泣くわけねえだろ。てめえこそ、泣くなよな」
「俺は牧野が笑ってたらそれでいいもん」
「案外強がりだな、類は」
「司の強がりは前からだけどね」
「てめえ……」
「まあまあ。そのくらいにしとけ。どっちが泣こうが、どっちが笑おうが、あきらと牧野は時間の問題だろ」
「え?」
「ひょっとすると、司がそのきっかけを与えた可能性もあるからな」
「俺が?」
「ああ。非日常的な事が起きると、人は盛り上がるからな」

 実に楽しそうに言う総二郎に、俺は盛大にため息を吐いた。

「それはそれで気に入らねえ」
「我儘なヤツだな」
「我儘も、今に始まったことじゃないよね」
「類、てめえは黙ってろ」
「なんかさあ、俺が牧野を好きだって言った時は怒りまくったのに、なんであきらだとその程度なの? 不公平だよ」
「ああ?」
「類、ここは黙ってた方がいい。せっかくこの程度で収まってるんだから、寝た子を起こすな」
「誰が寝てんだよ。俺は起きてるし、第一、子供じゃねえ」
「「……」」
「ったく。総二郎。家元になるんだから、もっと日本語を勉強しろ」
「……懐かしいな、こういうやりとり」

 マヌケ面した総二郎が可笑しくて笑っていたら、内線電話が鳴り出した。

「なんだ? 今頃」
「司、まだ仕事入ってるのか?」
「いや、完全オフ」
「じゃあ、緊急か?」
「さあ」

 俺がここにいることを知ってる人間は、そうたくさんは居ないはずだった。それを知ってるやつは、完全にプライベートな時間を過ごしていることも知ってるだろう。それでも内線を鳴らすということは、総二郎の言う通り、緊急な何かの可能性は高かった。
――面倒なことじゃなけりゃあいいんだけど。
 小さく息を吐き、受話器を耳にした。

『お寛ぎのところ、申し訳ありません』

 それは秘書の声だった。

「なんだ、おまえ帰っていなかったのか?」
『残務処理が残っておりましたので』
「そんなもん明日にすればいいだろ」
『もう終わりましたので、そろそろ帰らせていただきます』
「そうしろ。……で、どうした?」
『受付から連絡がありまして、牧野様がお見えのようなのですが』
「……は? ここに?」
『はい。携帯電話が繋がらないから、と受付に――』

 言われて思い出した。携帯電話は、隣の執務室の机の上に投げ出していた。

『どういたしますか? お通ししてもよろしいでしょうか?』
「ああ。通してくれ」
『ではすぐにご案内いたします』
「執務室に通してくれ」
『承知いたしました』

 電話を置いて振り返ると、俺を見つめる二人と目が合った。

「誰か来るの?」
「ああ。隣の部屋にいるから、適当にやっててくれ」
「騒いでいて平気か?」
「問題ない。そんなに長くかかんねえだろうし」

 それだけ言って、俺は執務室へと入った。
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2010.3.10 踏み出す一歩は雪色に残して
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