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踏み出す一歩は雪色に残して
COLORFUL LOVE view of TSUKASA
3
 やがてノックの音がして、続いてガチャリと入口が開いた。
 ひょこりと顔を出したのは、美作邸の前でちらりと見かけたままの恰好をした牧野だった。

「よぉ」
「ごめんね、勝手に来ちゃって」
「別にいい。にしてもすごい行動力だな。ここに乗り込んでくるとは」
「電話でないから」
「携帯、持ってなかったんだ」
「あ、そう。……時間ある? 仕事は?」
「ああ。今日はもう、完全オフだから」
「そう。なら良かった」
「ほら、そんなとこ突っ立ってないで入れよ」
「うん。お邪魔します」

 するりと入りドアを閉めると、俺に勧められるままソファに座り、キョロキョロと部屋の中を見渡している。

「どうした?」

 向かいに座りながら訊ねると、牧野はなぜか声を顰めた。

「ねえねえ、道明寺ってさ」
「なんだよ」
「副社長なの?」
「……は?」

 突然言い出す牧野に、俺の思考回路はついていかない。

「ここ、副社長室って書いてあったよ」
「……ああ、まあ、そうだな」
「あんた、いつの間にそんなに偉くなったの?」

 真顔で訊ねてくる牧野が可笑しくて、俺は思わず噴き出した。「何がおかしいのよ」と牧野は頬を膨らませたけれど、それが余計に可笑しい。

「別に大したことじゃねえよ。そのうち社長になるんだからな、俺は」
「そうだけどさ、あたしなんてまだ学生なのに、道明寺が副社長なんて……」

 すごい世界よねえ。と相も変わらず部屋中を見渡す牧野は、どこからどう見ても、昔となんら変わらなく思えた。
 ――まんま、牧野なのにな。
 それでも変わった現実があることを知っているから、胸の奥がズクンと痛む。
 それを誤魔化すように、「お茶でも飲むか」と訊くと、牧野は首を横に振り「すぐに帰るから」と言って、それから真顔で俺を見た。

「今日、ありがとう」
「ん?」
「電話くれて。ありがとね」
「……ああ」

 昼間のことを言っているんだと言うことはすぐに分かる。

「おまえ、わざわざそれを言いに来たの?」
「うん。お礼言いたかったから」
「そんなんでいちいち来るなよ。寒いし雪も積もってて危ないってのに」
「あ、大丈夫。美作さんのところの車で送ってもらったから」

 一人で帰れるって言ったのにどうしても乗って帰ってくれって言われてさ。とブツブツ言う牧野。
 どうやら、あきらの家から直接来た事が覗えた。

「あきらに、ここへ来るって言ってきたのか?」
「ううん。言ってない」
「知れたら大変なんじゃねえの?」
「後でちゃんと話すよ」
「その前に、運転手から漏れるだろうが」
「大丈夫。自分で話すから黙っていてほしいってお願いしたから」

 ニコリと微笑む牧野はどこか頼もしく見えて、やっぱり月日は着実に流れていると実感した。

「女ってのは、怖えな」
「え?」
「いや、こっちの話。……で、あきらの具合はどうだ?」
「うん。熱はまだあるけど、随分下がってきてるし、大丈夫だと思う」
「そうか」
「目の前で倒れたんでしょ?」
「ああ。さすがに俺もびびったぞ」
「だよね。美作さんも、悪い事したなって言ってたよ」
「ホントだ。無茶するにもホドがある。いい加減にしろって伝えておけ」
「……うん」

 牧野は小さく頷き、柔らかな表情を浮かべた。それは、多分俺が初めて見る部類のものだったと思う。
 言葉が出ずただ見つめていると、牧野が静かに口を開いた。

「全部聞いたよ、美作さんから」
「ん?」
「道明寺、美作さんに嘘を言ったでしょう?」

 じっと俺を見る牧野に、俺は「……ああ」と適当な返事をした。
 確かに俺は、あきらに嘘を言った。わざと、あいつを怒らせるようなことも言った。全部聞いたという牧野は、本当にそのすべてを聞いたのだろうか。それとも、あきらは話せる範囲で言葉を選んだのだろうか。
 ――おそらく、後者。あきらなら。

「プロポーズしたこと話すなら、返事もらったことまで話してよね。まったく、すぐにバレるような嘘言って、話が噛み合わなくてびっくりしたんだからね」
「別にいいだろうが。すぐにおまえの口から真実が知らされたんだから」
「そういう問題じゃないでしょう? まったく、見栄っ張りなんだから」

 牧野は、呆れたように言葉を吐く。

「おいおい、俺は別に見栄でそんな嘘を言ったわけじゃねえぞ」
「嘘だあ。絶対に見栄もあったよ」
「バカじゃねえか、おまえ。そんなわけねえだろうがっ。何言ってんだ、何も知らねえくせに」

 声を荒げる俺を見て、牧野はクスクスと笑った。

「嘘よ、道明寺」
「あ?」
「美作さんが言ってた。司は俺のために嘘を言ったんだ、って」
「……」
「自分がいつまでもグズグズしてるから、背中を押してくれたんだ、って。手荒く引っ叩かれたみたいだったけど、って笑ってた」

 真実を知った時、俺がついた嘘の意図は、すぐにわかるだろうと思った。あきらなら、わからないはずはないのだから。
 伝わったのなら良かった、と思う反面、なんとなく恥ずかしくて、どこかくすぐったい。
 俺は思わず視線を逸らす。けれど牧野は、真っ直ぐ俺を見続けていた。視界の端にその視線を感じていると、柔らかな声がした。

「ありがとう、道明寺」

 優しい、本当に柔らかい響きだった。その裏に、あきらの声まで聞こえてきそうだった。
 そして、そんな話をした二人は、きっと。

「あきらの気持ち、聞いたか?」
「うん。聞いた」

 現実は厳しい。
 いつか来る未来なら早く来てくれたほうがいい。強がりでもなんでもなく、本当にそう思った俺がいたはずなのに、やっぱりそれが現実になれば、切なく哀しく、どこか寂しい。

「おまえも、きちんと言えたのか?」
「うん。言えた」
「……そうか」

 それでも、目の前で微笑むその表情は、今まで見たどの時よりも穏やかで、心のどこかが温かい。この笑顔が見れるなら、それもいいかと思う俺も確実にいて、俺自身が驚かされる。

 牧野が笑ってくれていたら、それでいい―― 俺にも、牧野の幸せをただ純粋に願える日がくるのだろうか。そんな穏やかな俺になれる日が、くるのだろうか。

 今はまだ、胸の奥はチリチリと痛い。
 それでも俺は、一歩踏み出す。現実と、自分と、真っ直ぐ向き合っていくために。

「困ったことがあったら、いつでも言えよ」
「うん」
「おまえは、小さいことですぐにうだうだ悩むからな」
「仕方ないでしょ。そういう性格なんだから」
「わかってるなら少しでも改善するんだな。相手はあきらなんだから」
「どういう意味よ?」

 小首を傾げる牧野に、俺は諭すように話す。

「あきらは優しいから。上っ面じゃなくて、心底な」
「知ってるよ」
「おまえが知るよりも、もっともっとだ」
「もっともっと?」
「俺に言わせれば、あきらは優しすぎる。人の気持ちに敏感で、譲ることや自分を押し殺すことを知り過ぎてる。俺みたいにドカドカ入り込んでいくことはしないし、無闇にぶつけたりもしない。でもそれは、何も感じないのとは違うだろ? あいつの中には、確実に何かが溜まっていく。だからそれに気付いてやれないと、あいつは溜め込んだままだ」

 それも、誰にも気付かれずに溜めていくんだ、あいつは。自分の中だけで処理しようとするその姿勢は、俺らの中で一番大人で、一番危なっかしい。

「時々、大爆発するんだよ、あいつ」
「そうなの?」

 驚いたように目をくるっと大きくした牧野に、俺は小さく頷いた。

「びびるぞ。普段がああだから、そりゃあもうすげえ怖えのなんのって。多分、あいつが一番怖えよ」
「……知らなかった」
「爆発する前に、なんとかしてやれよ」
「なんとかって……出来るかな」
「出来るさ。おまえなら」
「わかった。頑張る」

 牧野は神妙な面持ちで頷いた。「まだまだ知らない事っていっぱいあるのよね」とため息を吐く牧野は、真っ直ぐにあきらを受け止めようとしている。
 二人で歩もうとしている道が、成り行きでも勢いでもないということを、そんな些細な牧野の態度に感じてしまう俺がいて、いちいち胸が痛い。
 ――少しは照れて慌てろよ。俺の前なんだから遠慮しろよ。
 言ってやったらスッキリするだろうか。いや、言ったところで変わらないだろう。
 この胸の痛みは、牧野を想い続ける限り、完全に消える日は来ないのだろうから。
 俺はソファから立ちあがり窓辺へと歩いて行くと、牧野に背を向けたまま言った。

「ま、どうしてもうまく行かなくなったらさ、さっさと別れて俺のところへ来い」
「なによ、それ」
「その時は、俺がおまえを幸せにしてやる」
「あはは。本当に?」
「本当だ」
「だって、何年先かもしれないのよ?」
「別にかまわん。何年先だろうが、何十年先だろうが。俺がおまえを幸せにしてやる」

 それは俺の本気だった。牧野がどう受け取ろうとも。
 ほんの少しの沈黙の後、くすくすと笑う牧野の声が聞こえた。片眉を上げて振り返ると、いつの間にか牧野は立ちあがっていて、俺を真っ直ぐ見つめて優しく優しく微笑んだ。

「ありがとう。覚えておくよ、道明寺の気持ち。そんな大きな保険があれば、あたしも安心して歩いていけるよ」

 俺はそれを、牧野の本気として受け止めていいのだろうか。受け止めたい気持ちを優先させて、いいのだろうか。
 正直、その真意はわからない。けれど、俺の中にくすぶるチリチリとした痛みは、ほんの少しだけ抜けていった気がした。




 その後。
 隣の応接室に総二郎と類がいることを告げると、牧野は驚いた顔をして、でも「良かった。これから電話しようと思ってたの」と嬉しそうに笑った。
 あきらとのことを報告しようと思っているんだろうことは、すぐにわかった。牧野を応接室へと促し、俺はそのまま執務室に残った。ちょうど、携帯電話が鳴り出したから。
 その着信は、あきらからだった。
 牧野の姿が応接室へ消えていくのを確認して、俺は窓から外を見下ろしながら通話ボタンを押した。

「もしもし」
『もしもし……俺だ。あきらだ』
「わかってるよ」
『今、大丈夫か?』
「ああ。おまえこそ、大丈夫なのか?」
『ああ、大丈夫。悪かったな、いろいろ』
「ホントだぞ、てめえ。倒れるほど具合悪いなら、最初から断れよ」
『断れるかよ。司が訪ねてきた理由がわかってるのに』

 逃げるような真似は出来ないだろ、とあきらの神妙な声がした。俺は「それもそうか」と言ったきり、言葉が見つからない。
 沈黙が流れ、そしてあきらの声がした。

『司』
「ん?」
『……悪かった』
「何が?」
『約束の四年……待ってやれなかった』
「なに言ってんだ? 待てなかったのは、牧野だろう? おまえに待てなんて言った覚えはねえ」
『いや、俺も待てなかったんだ、結局』

 意味がわからなかった。自然と眉間に皺が寄る。

「俺が約束した四年と、おまえが牧野を好きになるのと、どんな関係性があるって言うんだよ? 関係ねえだろうが」
『関係あるさ。司は俺の親友なんだから』

 言い切られたその言葉が、俺の中に響く。
 なぜ、気持ちを伝えないのか、不思議だった。なぜ、俺に何も言ってこないのか、不思議だった。
 総二郎は、想いが満ちるのを待っているんだと言った。いろんな意味で、慎重にならざるを得ないんだと。そこには、深い想いがたくさんあって、繊細なあきららしい想いがあって。
 ――あきらのやつ……。
 いろんな意味、の端っこを掴んだ気がした。

「あきら、まさかおまえ、約束の四年が経つのを待ってたわけじゃねえだろうな。俺が帰ってきたら身を引こうと思ってたのか?」
『……』
「はっきり言えよ」

 すうっと、電話の向こうであきらが息を吸うのがわかった。

『俺は、牧野にだけは惚れないって心に誓ってた。牧野は司が惚れてる女だから、だから絶対に惚れないって。でも、気付いたら自分でもコントロール出来ないところまで来てて……覚悟を決めた。想いは捨てない。きちんと向き合おう、って』
「……じゃあ」
『それでも、司が約束した四年は――四年の間は、どうであれ踏み出さずに待ちたい気持ちはあったんだ』
「……」
『四年が経って司が帰ってきて、もしその時、俺が牧野に気持ちを伝えたことでまた苦しむことになったら、それはつらすぎるから。俺はもう、牧野が苦しむ姿は見たくないから』

 やっぱり、あきらはあきらだ。人当たりが良くて、面倒見が良くて。優しくて、優しすぎて。

『でもそれは俺の深いところにあっただけで、本当はそんなこと関係なくて、結局は勇気がなかったんだけどな、きっと。牧野に言えなかったのも、司に言えずにいたのも、最終的には勇気がなかったから……多分それだけだ』

 それじゃあカッコ悪いから、とあきらは笑ったけれど、俺は胸がいっぱいで何も言えなかった。
 あきらの気持ちは、どれも真実。誰にも言わずに、自分の中でも意識せずに心の奥底に沈めていた感情だったとしても、心のどこかにあったならそれは立派な真実だ。
 あきらは俺を裏切ろうと思ったわけでも、騙そうと思ったわけでもなく、たくさんの優しさをかけてくれていた。
 ――やっぱり、あきらはあきらだよ。

「俺はおまえに、嘘をついた」
『……ああ』
「プロポーズの返事――」
『牧野に聞いたよ。だから、もういいさ。それに、おまえの意図はわかったから』
「それだけじゃない。牧野はまったく変わってなかったって言っただろ?」
『うん……?』
「あれは嘘だ。本当は、すごく変わったって思ったんだ」

 痩せた細い身体も、サラリと揺れる黒髪も、何もかもが昔のままだった。何年も離れていたなんて思えないほど、何も変わらない牧野がいた。でも、牧野は確実に変わっていた。

「でもおまえの前でそれを認めるのが、なんか悔しかった」

 俺の知らない牧野を、あきらが当たり前に知っていることが悔しかった。仕方ないと思っても、やっぱり悔しかった。

「離れてるって怖えって思った」
『……』
「アパートの前で階段を下りてきた牧野を見た時、全然知らない女かと思った。俺の中に居る牧野と今の牧野、姿形は何も変わらないのに、全然違ってた」

 その変化は上手く言葉にならない。ただ、目の前に現れた牧野はもう、「少女」と呼ぶにふさわしくなかった。 立派な「女性」になっていた。それでもどこか危うくて、それがひどく魅力的だった。
 でもそれだけじゃなくて。
 あきらのことを語る笑顔が、ひどく優しく柔らかかった。俺の隣に居る時には一度も見せたことのない、柔らかな表情をしていた。
 その衝撃は、大きかった。

「確実に月日は流れてたんだなあって、妙に実感させられたよ」
『……』
「あきらは、それをずっと見てきたんだな。あいつの近くで」
『……そうだな』

 報告書で知る牧野は、いつでも明るく笑っていた。時に何かがあったとしても、必ず最後は笑顔の牧野がいた。
 事務的な文章にさえ、その笑顔が浮かんで見えた。
 どんな時でも笑顔でいれたのは、あいつが強いからじゃなかった。絶大なる優しさが、そばにあったから。どんな変化を遂げる時も、一人ではなかったから。あきらの優しい眼差しが、必ずそこにあったから。
 だから牧野は、いつでも笑っていれた。 あきらだから、成り立った。

「牧野は見る目あるよ。さすが、俺の認めた女だ。俺でも類でもなく、おまえを選んだ牧野はすげえ」
『なんだそれ』
「俺、おまえには敵わねえもん」
『そんなことないだろ』
「いや、敵わねえよ。一生」

 俺は、あきらのように強く優しくしなやかには生きられない。相手の気持ちを尊重することよりも、自分の想いをぶつけることにベクトルが言ってしまう俺には、きっとどんなに頑張っても、牧野を優しく包み込むことは出来ない。たとえ出来たとしても、それは長くは続かない。
 あきらだから出来る。無理をしない自然な中で牧野を愛し続けられる。
 あきらの魅力を俺は知っている。幼いころからずっと見ていた俺だから、わかる。だから、あきらだけは、牧野を好きになってほしくなかったんだ。
 牧野があきらの魅力に気付いたら、到底太刀打ちできないから。
 けれどそれが現実になった今。
 俺には勝ち目などない。いや、勝つも負けるも、牧野自身があきらを望んでいる。俺ではなく、あきらを。
 そしてそれは、牧野が幸せになる上で、何よりも正しい選択に思えた。

「泣かすなよ」
『ああ。全力で頑張る』
「ダメだと思ったら速攻で奪うからな。覚悟しとけよ」
『……ああ。覚悟しておくよ』

 どんな言葉を投げかけても、あきらから柔らかな笑顔が消えることはない。声だけでも、それがわかる。
 やっぱり牧野は、正しい選択をした。

「なあ、あきら」
『ん?』
「ひとつだけ教えてくれ。多分、おまえにしかわからねえことだ」
『なんだ?』
「牧野は……あいつは、俺を必要としてたか?」

 沈黙が流れた。
 そして聞こえてきたのは、柔らかくて優しい、囁くような声だった。

『ずっとずっと、牧野は司が好きだったよ。どんなに離れていても、どんなに連絡がなくても、牧野は司を想ってたし、信じて健気に待ってた。司との未来を、世界中の誰よりも信じて望んでいたよ』

 その言葉に、俺の四年間が――俺が必死に見据え続けた未来が、歩み続けた日々が、報われた気がした。
 ふいに、昨夜の牧野の言葉が甦った。

「あたし、道明寺を好きになって良かったと思ってる。苦しくてどうしようもないこともいっぱいあったけど、おかげで、強くも優しくもなれた気がする。道明寺に愛されたこと、一生誇りにして生きるよ。それは、どんな道を選んでも歩いても、ずっとずっと変わらないよ。ありがとう、道明寺」






 邸へ戻ると、俺はそのまま東の角部屋へと向かった。
 しんと静まり返った部屋は、月明かりでぼんやりと照らされている。灯りも点けず、俺はそのまま月明かりに導かれるように窓辺へと歩く。


 あきらとの電話を切って応接室へ行くと、すでに牧野の姿はなかった。

「一緒にパーティーしようよ、って言ったのに、今日は遠慮する、って断られちゃった」
「結局、最後のひと押しは司だったな」

 寂しそうに言った類も、ポンポンと俺の肩を叩いた総二郎も、その表情はとても優しく穏やかだった。
 胸が痛まないわけではない。でも、この親友達となら、穏やかに二人の行く末を見守れる気がした。

 ――大丈夫だと思ったんだけどなあ……。
 一歩、また一歩と窓辺へ歩くたび、様々なことが思い出されて、それが寂しさに変わる気がして、自分でも驚いた。
 それでも俺は歩みを止めない。窓に向かって真っ直ぐ歩く。

 この部屋には、牧野とのたくさんの想い出があった。
 幸せな瞬間も、切なくて苦しい瞬間も、あいつが一緒だからどれも大切な想い出だった。またここで二人の想い出を増やしていけたらいいと、本気で思っていた。それだけを願って、前へと突き進んできた。
 ――もう、想い出は増えないのか。
 心の底にゆらゆらと悲しみが漂って、牧野の存在の大きさを再確認させられる。
 はあ、とひとつため息を吐くと、窓を開け放ってテラスへと出た。
 一歩踏み出した途端、キンと凍りついた空気が襲って来る。身震いするほどの寒さの中に立ち、俺は庭を見渡した。昨夜から降ったりやんだりを繰り返した雪は、今はもうすっかり止んで、白く輝く銀世界を作り上げていた。テラスの向こうに広がる庭には、誰にも何にも汚されていない真っ白な世界があった。

 道なき道を、一人で歩き出すのは勇気がいる。
 叶わなかった想いは、未だ大きく胸を突き刺す。
 それでも新しい一歩を踏み出さなければならないのなら。
 俺は、牧野を愛したことを誇りに、牧野に愛されたことを胸に、最初の一歩を踏み出そう。俺は俺の道を、真っ直ぐに歩いていこう。
 あいつが俺を思い出した時、いつでも誇らしく思えるように。
 一歩ずつ、しっかりと踏み出して、想いと共に残していこう。

 あいつの幸せを願いながら。
 あいつらの幸せを願いながら。

 俺は、俺の一歩を。
 俺は、俺の道を。
Fin.
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