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真珠色に沈む
COLORFUL LOVE
6
 そこに立っていたのは、真っ赤なロングトレンチコートを纏った長身の男――道明寺司だった。
 司は百合の顔をじっと見つめ、無言でツカツカと近づいてくる。
 声も出ず、その司を目で追うことしか出来ない二人。
 百合に至っては、そのオーラとやけに攻撃的な視線に怯えにも似た感覚を抱き、僅かに身が竦んでいる。
 司はテーブルの真横に立つと、すっとその視線をつくしへと向けた。
 そしてふっと表情を緩めた。

「久しぶりに会って最初に見せるのがそのマヌケ面かよ」
「ど……道明寺、なんでここに?」
「は? なんでって、この前の電話で言っただろ? 年末に帰るって」

 たしかに言っていた。
 先週頭だっただろうか、突然電話が来て「年末帰るから」と。
とてつもなく仕事の忙しい時期だったけれど、あきらが海外出張中でどこか寂しかったつくしは、その電話がやけに嬉しくて、他愛もないことを次から次へと十五分以上も話した。
 司との電話と言えば、「なんか用事?」と思わずトゲのある声が出てしまうつくしと、「てめえはいつも……」と怒り含みに聞こえる話し方をする司と、お互いがお互いとの距離を計りながら用件のみで終わる、と言うのが通例。
 だからこの時、電話を切ったつくしは、恥ずかしいような気まずいような、妙な気持ちになったのだった。
 そしてその時のことを思い出した今も、やっぱりどこか気恥かしい。

「た、たしかに言ってたけど……でも、道明寺の言う年末ってもっとギリギリのことだと思ってた。三十日とか、三十一日とか」
「その予定だったけど、パーティーやるっていうから無理矢理調整したんだよ」
「あ、そうなんだ」

 すんなり納得して頷いたつくしに、司はふんっと鼻で笑った。

「何よ」
「別に。牧野は相変わらず牧野だなって思っただけだよ」
「……なんか、ひっかかる言い方ね」
「まあ気にするな。それより……」

 司の視線は再び百合へと注がれる。
 それまでつくしを見ていたそれとは全く違う、冷たい眼差しで。

「おまえはなんだ?」

 その声も眼差し同様、ひたすら冷たい。
 百合はびくっと表情を強張らせた。
 けれど、さすがは社長令嬢――と言うか、あの大木社長の娘、と言うべきか――。道明寺司に近づく機を逸するわけにはいかぬ、とばかりに、すぐに体制を立て直すと、艶やかな笑みを浮かべた。

「初めてお目にかかります。大木百合と申します。父が大木コーポレ――」
「そんなことはどうでもいい。おまえがどこの誰かなんてことには興味もねえ。おまえは牧野のなんなんだってことを訊いてるんだ」
「え、あの」
「少なくともダチじゃねえよな、この雰囲気は」
「……えっと」

 必死に浮かべた笑顔も丁寧な挨拶もまるで意味なく切って捨てられ、まるで相手にされていない。それどころか、司の眼差しは、ますます冷たく鋭くなるばかり。
 戸惑う百合は、思わずつくしの顔を見た。それはまるで、つくしに助けを求めるかのように。
 そんなことをされても、つくしだってその関係を説明など出来るはずがない。
 けれど、脇に立つ司は不機嫌そのもので、次に百合が意にそぐわない答えを返したら胸倉を掴んでしまうのではないかと思う程の形相をしているだけに、放っておくことも出来ず、つくしは思わず口を開いた。

「あの、道明寺、とりあえず落ち着いてさ」
「落ち着いて、ここに一緒に座れとでも言うつもりか?」
「いや、そんなことは――」
「ていうか、むしろおまえはここに落ち着きすぎだ」
「え」
「ダチでもねえやつと、頼んだお茶が冷める程話すことなんかねえだろうが」

 たしかに、つくしの前のハーブティは一口飲まれただけで、それ以降手つかず状態。すっかり湯気も消えていた。
 それを見て、二人の関係や滞在時間を瞬時に読み取る司はなかなか鋭い。なかなか凄い。
 ただ今はそんなことに感心している場合ではないけれど。

「まあ、そうなんだけど、でも――」
「でももクソもねえ。ダチじゃねえならこれ以上ここにいる必要はねえ。行くぞ、牧野」

 司はぐいっとつくしの腕を掴み、強引に席を立たせようとした。

「え、ちょっとま――」
「いいから早くしろ」
「早くしろって言ったってさ」
「つべこべ言うな」

 司はぐいぐいとつくしの腕を引っ張る。決して痛い程の力ではない。けれどそこには、抗えない強い意思がある。
 きっと、ここを離れるまではこの手を放してはくれないだろう。

「待ってよ、道明寺。わかったから」
「わかったんなら早くしろ」
「わかってるけど、コートを――」
「待って下さい!」

 そこに、百合の声が響いた。
 司とつくしは百合の顔を見る。

「まだ話は終わっていません。牧野さん、まだ質問に答えてもらって――」
「最初に言ったよな。答える必要性がないって」
「そ、そうですけど、でも」

 何の抑揚もなく冷たく言い放った司に百合は口籠り、視線を宙に泳がせる。
 でもすぐに、再びその視線を司に向けた。覚悟を決めたような、強い瞳で。

「失礼を承知で申しますが、道明寺さんは私達が話していたことをご存じではないはずです。それなのに――」
「あきらのことだろ?」
「……え」
「え? 道明寺……聞いてた、の?」

 これにはつくしも驚き、思わず司の顔を見上げた。
 司はそんなつくしを見下ろして不敵な笑みを浮かべた。
 どういうことだろうとつくしは考える。けれどその考えがまとまるよりも先に、司はその視線を百合に戻した。

「聞かなくてもわかるんだよ、それくらい。その上で言ってんだ。おまえに答える必要なんかないって」

 百合は瞳を見開いたまま、司を呆然と見つめる。

「おまえにとってあきらがどんな存在なのかは知らねえし興味もねえが、あきらにとっておまえがどんな存在かだけははっきりしてる」
「……」
「単なる顔見知りの女。それ以上でも以下でもねえ」

 百合の瞳が更に見開かれる。
 驚きと悲しみが、その綺麗な顔を歪ませた。

「そ、そんな――」
「あきらは優しいからな。どうせおまえもそれに絆されたんだろうが、残念だったな。あいつは誰にでも無駄に優しいんだ。別におまえが特別なわけじゃねえ」
「……」

 百合の瞳がぐらりと揺れた。
 それは、百合が痛感している現実で、けれどありのままを受け止めたくはない事実。
 それだけに、真正面から言われた衝撃は大きかった。
 言葉なく唇を噛みしめ俯く百合。
 その頭上に、再び司の声が降って来る。

「おまえがどう勘違いしようが構わねえ。この先もずっとあきらを好きでいたいなら俺は別に止めるつもりもねえ。あとはあきらとおまえの問題だ。だけど、そこに牧野を巻き込むな。自分が特別じゃなかったからって、あきらの特別を引きずり降ろそうとするんじゃねえよ」

 勢い任せな感じはどこにもない、冷静な司の声。だからこそ余計にその言葉が重く響いた。
 つくしは司の横顔を見つめる。
 百合を見下ろす強くて鋭い光を宿した真っ直ぐな瞳。
 未だ掴まれたままの腕に感じる司の強さと優しさ。

 ――ああ、道明寺はあたしを守ってくれてるんだ。

 今更そんなことをぼんやり思うつくしを知ったら、司は「てめえは今まで何だと思ってたんだ!」と烈火のごとく怒るかもしれない。
 けれどつくしはこの時まで、目の前の事態の急激な変化を受け止めるだけで精一杯だったのだ。
百合と話す覚悟をしたこと、あきらが居ないことに対する心細さ、百合が語る思い出に感じた胸の痛み、忘れ切れない過去の痛みや捨て切れない負い目、それでも強く前へ踏み出さなければと握りしめた決意。
 百合が目の前に現れてからこの短時間で、つくしは様々な想いを感じ抱えた。
 けれど司は一瞬で、そのすべてを吹き飛ばした。その圧倒的な存在感で。
 もやもやとした想いばかりが幾重にも広がり続けていたつくしの胸から、それらすべてが一掃する。
 残ったのは、「しっかりしろ」と背中を叩かれたような、けれど実はしっかり抱き止められたような、強くて優しい心の支え。そこから感じる安心感。
 多分こんな守り方は、司にしか出来ない。
 強引で自分勝手で横暴とも思える振舞いの裏に潜む不器用な優しさを誰よりも知っているつくしは、そんな司の存在に深いところで安堵して、もっと深いところで苦しく思った。

 急速に受け入れられていく現実に、つくしは小さく息を吐く。
 想いは複雑に存在するが、息苦しさはない。
 それは、目の前の百合とは対照的だった。

 百合は俯き、司の放った言葉から受けた衝撃に、唇を噛んで耐えていた。
 降ってくる言葉達は、一つひとつが重く鋭い刃物のようだ。どうして何一つ知りもしない人にこんなふうに言われなければならないのだろうと胸の中がワナワナと震えるような思いだった。
 今日初めて会ったとは言え、道明寺司という人間がどれほどの力を持つ存在であるかということは、社長令嬢として育った百合は知っている。
 絶対に敵に回してはならない人物だと、父親は言っていた。
 以前あきらと話した際に、たまたま司の名前が出てきて、どんな人かと訊ねたことがある。
 あきらは笑って言った。
「司は何もかもが規格外なやつだよ」――
 その時は、その言葉をぼんやりとしか受け止められなかった。それを語るあきらとて、規格外のような気がしたから。
 大企業の御曹司で、端整な容姿と有り余る優しさを持ち合わせるこの男以上の存在などあるだろうかと、百合は本気で思った。
 けれど今、あきらの使った「規格外」という言葉の、本当の意味がわかった気がした。
 あきらとは全然違う色のオーラを纏い、見据える視線をまったく逸らそうとしない司。――いや、そんなことじゃない。彼の存在そのものに息苦しくなるような威圧感がある気がする。
 それとて、あきらの言う「規格外」の意味とは違うのかもしれないけれど。
 それでも百合は、このまま黙って俯いているだけではいられなかった。
 今も尚溢れ続ける想いが胸にある。どうしようもなくせつなくて、どうしようもなく苦しい想いを抱えている。
 ここで全てを諦めてしまうわけにはいかないのだ。
 百合はくいっと顔を上げると、そこに立つ長身の司を見上げた。

「では道明寺さんは、財閥の後継者としてご自身の結婚をどうお考えですか?」
「は?」
「ご自分の想いだけで、好きな女性と一緒になれますか? その女性が何も持たない方だったとして、気持ちの結びつきだけで決断が出来ますか? 道明寺さんがそれでいいと思ったとしても、ご両親や周囲の方々は許して下さいますか? 財閥にとって有益である結婚を望まれるのではありませんか?」
「……おまえ、ど――」
「牧野さん」

 司が何かを言いかけたその言葉を遮った百合の視線は、今度はつくしに注がれた。

「失礼を承知であなたのことを調べさせてもらったわ。あなたはご存知なのよね? 身分違いの恋がどれだけ難しいか。身を持って体験していらっしゃるのでしょう?」

 つくしはハッとした。
 それは間違いなく、司とのことを言っていた。
 つくしのことを調べ上げれば、自ずから司との過去の恋愛が浮上する。それは至極当然のこと。
 多分司は、百合の言葉の裏にそのことがあるとすぐに気付いた。けれどつくしはそうではなかった。
 ドクンドクンと心臓が早鳴る。

「あなた自身、とても辛い想いをしたでしょうに、それでもまた同じような恋をした。――どうして? 結局最後は自分が傷つくだけかもしれないのに」
「それは……」
「てめえ、いい加減にしろ」

 地を這うように司の低い声が響くが、百合は言葉を止めない。

「あきらくんや美作家がそれでよくても、企業として考えた時に、美作商事には多くのグループ会社がある。このままスムーズに事が運ぶ可能性は極めて低いわ。きっとあきらくんは攻撃の矢面に立たされる」
「……」
「あなたはそこまで理解してるのかしら?」

 ドクンドクンと鳴り響く心臓の音が煩くて、つくしは頭がくらくらした。
 ――「きっとあきらくんは攻撃の矢面に立たされる。」
 全てを理解しているわけではない。その世界で育っていないつくしには、到底理解し尽くせないことばかりだから。
 けれど想像をしないわけがない。
 反対され攻撃され冷たい視線のど真ん中で立ち尽くす。相手への一途な想いだけを抱えて、それ以外に何一つ自分を守る術のない、何も持たない自分。
 否定されることは簡単に想像出来て、けれど肯定される想像はなかなか出来ない。
 一度だって、何事もなくスムーズに事が運ぶなんて楽観的に思ったことなどなかった。
 司との、心が折れそうな程の辛い経験が胸の奥にしっかりあるから。だからこそ余計に。

 ――わかってるよ、あたしだって。あたしの存在が、美作さんにとってどれだけ重荷となるか。どれだけ不利となるか。

 それでも好きな気持ちは消せなかった。
 どうしてもどうしても、共に歩く未来を夢見る自分を抑え切れなかった。
 だからつくしは必死に立っていた。
 差し伸べられたあきらの手の温もりを信じて。抱き寄せられたあきらの胸で感じる温もり以上の優しさを信じて。
 身体が小さく震える。
 どう拳を握りしめても、その震えは止まりそうもない。

「牧野さん、私にはあなたが本当にわかっているようには思えない。私には、あなたにそれを受け止める覚悟があるようには――」
「黙れ、ブス」

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2011.06.17 真珠色に沈む
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