01 / 02 / 03
茜色が沈んでも
COLORFUL LOVE view of AKIRA
3
「はあ……」

静まり返った部屋に俺のため息が広がる。
壁にかけられた時計は午後十一時を指し示していて、秒針は音もなく静かに動いていく。
一周、二周……もう五周以上こうして眺めている。何もせず、ただじっと。


あれから俺と牧野はタクシーで外食に出かけた。
牧野は「簡単なものでよければ作ろうか」と言ったけれど、俺は外食を選んだ。
理由は簡単。たとえ短時間でも二人きりの空間を抜け出したほうがいいと思ったから。
レストランに予約を入れてタクシーを呼び部屋を出る。外の空気が鬱々とした気持ちを少しずつ吸い出してくれて、俺の心は平穏を取り戻せた気がした。
でもそれは、あまりにも自己都合のみの独りよがりな考えだった。
しかも情けないことに、それに気づいたのは帰りのタクシーに乗る時。
乗り込むために身をかがめた牧野の表情が小さく歪んだのが見えたのだ。
ハッとした。それは、ベッドの中で見た牧野の表情と同じだった。

――もしかして、ずっと無理させてた……?

俺はその瞬間までそのことに気づかなかった――いや、意識的に気づかないようにしてたのかもしれない。
動いたら痛むだろうことはわかっていたのに。たとえ常にではないとしても。
それなのに俺は外食を選んで牧野を連れ出した。
二人きりの空間がきつかったから。自分の中で情欲がどんどん膨らんでいく感覚が怖くて仕方なかったから。
だから逃げるように飛び出したのだ。あの部屋を。
なんとも恥ずかしい、情けない話だ。
タクシーの車中、「やっぱり動くと痛かったよな?」と訊いたら牧野はほんの少し頬を染めて「平気平気」と言った。「出かけるべきじゃなかったな」と言ったら「美味しい食事で嬉しかったけど?」と笑った。
気遣ってやるべき俺が、気遣われている。その笑顔に、ますます自分が情けなくなった。
窓の外を見つめたまま黙りこくる俺に、牧野が小さな声で言った。

「連れてきてくれてありがとう。すごく美味しかった」

情けないやら愛しいやら、タクシーでよかったと思いながら牧野の手を握った。
タクシーがアパートの前に止まるまで、その手が離れることはなかった。

部屋に戻って、二人でお茶を飲んだ。
話したことは他愛もないことばかり。ロンドンでの研修のこと、牧野のバイトのこと、食べたばかりの夕食のこと。
テーブルを挟んで俺はソファに牧野はラグに、ずっとそうしてきたいつもと同じ場所に座っていつも同じ視線の高さで、変わらない口調で、変わらない笑顔で。
一時間、二時間とあっという間に時間は経ち、ふいに牧野が言った。
「あれ、もうこんな時間。そろそろ寝たほうがいいよね。明日早いんでしょう?」と。
俺は思わず黙った。「そうだな」でも「まだ平気」でも自然な答えはいくらだってあるのに、一瞬にして動揺したのだ。その一言に。
タクシーの中で牧野の手を握って、部屋で楽しくお茶を飲んで話をして、もうすっかり変わらない空気感を得られたと思っていたのに。俺自身、もうきっと大丈夫だと思ったのに。
やっぱり大丈夫なんかではない俺がいた。
沈黙を肯定だと受け取った牧野がいそいそとカップを片付けるその背に、俺は言葉を紡いだ。

「一件電話しなきゃいけないところがあるんだ。悪いけど先に寝てて」

二人でベッドへ入るのが自然だということは重々承知している。数十秒前まではそれも出来そうだと思っていた。でもやっぱりそんな余裕は俺自身にないんだと自覚して、そう言うしかなかった。
牧野が笑顔で頷いて隣の部屋へと消えたあと、俺はソファに深く沈み込んで深いため息を吐いた。
とんでもなくでかい疲労を感じた。自業自得以外のなんでもない疲労感だった。
しばらく沈み込み、それからゆっくりと電話をかけた。
最初からする予定でいた電話ではあったけれど、必要以上に話を長引かせる俺。本当は、ほんの一言二言でいいはずなのに。相手が不審がるだろう一歩手前まで話をして、そしてようやく電話を切った。


それから五分、ひたすら壁掛け時計を見つめている。

「はあ……」

――何をやってんだ、俺は……。

ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしり、そのまま頭を抱えた。
何もかもが情けなくて、自己嫌悪でどうにかなりそうだ。
こんなことは滅多にない。女性関係――それも情欲絡みでなんて、まったくもって初めてだ。
まさかこんな悩みを抱えることになるとは……いや、もう悩みというよりは戸惑いに近い。
一体どうすれば打破できるのか、どうするべきなのか、何もかもがわからない。頭の中は真っ白に近かった。
でも、わかっていることも一つだけある。
いつまでもこうしていたところで、何もなりゃしないということ。
隣の部屋からはなんの物音もしない。
けれどきっと牧野は起きていて、ベッドの中でこちらの気配を窺っているだろう。俺がむこうの気配を窺っているのと同じように。
俺が電話を終えたこともわかっていて、今何をしているのだろうと気にしているに違いない。
時間が経てば経つほど不審に思うだろうし、その結果、余計な不安を抱えることだってあるかもしれない。
そうなればそれが誤解であることを説明しなければいけなくなる。今の俺の精神状態を説明するなんて、墓穴を掘る以外の何物でもない。
グダグダしていてもいいことなんて一つもない。
不自然な空白の時間は長引けば長引くほど不自然さを増すだけなのだ。

――厭ってほどわかってるさ、そんなことは。

「ふううううう」

もう行こう。行ってベッドに入ろう。そして眠ろう、牧野の隣で。
深く大きく息を吐いて自分に言い聞かせると、俺は意を決してソファから立ち上がった。



音を立てないように慎重にドアを開けてそっと中を覗き見るとすぐに、ベッドの中の牧野と目が合った。
牧野の表情がわずかに緩んで「終わった?」と言葉を紡ぐ。俺が頷くと「お疲れ様」と笑顔を見せた。
俺を安堵させる可愛い笑顔だと思う。でも今は胸が痛む。

「寝ててよかったのに」
「うん。なんか眠れなくて」

「夕方たくさん寝ちゃったからかな」と照れたように笑う牧野。俺は「そっか」と呟いてベッドに――牧野の横に入った。
決して大きいとは言い難い牧野のベッドは、二人で寝るには少々狭い。抱きしめて眠るにはちょうどいいが、こういう時は実に困る。当たり前にその温もりが伝わってきてしまうから。
本来なら幸せなはずの状況が今の俺には何よりもきつくて、でもとにかくすべてを胸の奥底に沈めて眠ることに神経を集中させることにした。
「おやすみ」と言葉を交わし目を瞑る。
思ったよりも身体がズンと重く感じた。考えてみたら、今日はイギリスから日本への長距離移動をしてるのだ。

――それなりに疲労は溜まってて当然か。

これならきっと眠れる。きっと……暗示をかけるように自分に言い聞かせながら意識を沈めた。

しかし。
そううまくはいかないのだ。
こんな時に限って、いやこんな時だからこそ、やっぱり眠れない。ウトウトとさえならない。
いったいなんだと言うんだ、と頭を掻きむしりたい気持ちをどうにか抑えてそっと寝返りを打つ。
二度、三度……そしてもう一度、と思ったその時、遠慮がちな声がした。

「眠れないの?」

見れば牧野が、俺を見つめていた。

「あー……悪い。起こした?」
「ううん、まだ寝てなかったから」
「気にしないで寝ていいよ。あ、俺がこの状態じゃ眠れないか。俺、あっちで――」
「いいよ、このままで」
「でも――」
「あたしは平気だから。それより、なにかあった?」
「え?」
「なんか落ち着かないみたいだから。ずっと」

ドキリとする。

「そうかな」
「うん。でも無理もないか。明日入社式だもんね」
「え? ああ、うん」
「ごめんね、忙しい時に。本当は今日だって準備とかしなきゃいけなかったよね」
「いや、忙しくなんてないよ。別に準備もこれといって特にあるわけじゃないしな」
「……本当に?」
「本当に。だから気にしなくていいよ」
「……うん」

再び静寂に包まれる部屋。
心の中で安堵する俺、そして半身にじんわりと感じる牧野の体温に再び支配される俺。
この熱が一番厄介で、でもやっぱり何よりも愛しい。
どうしようもない自分に溜息がこぼれ落ちる。
それを誤魔化すように髪をかき混ぜながら天井を見つめる俺の耳に再び牧野の声が届いたのは、ほんの数十秒後のことだった。

「ねえ……」

それは気のせいかと思うほどの小さな小さな声。
けれど横を見ると、ちらりとこちらを見た牧野と目が合った。

「今、話しかけた?」
「……うん」
「何?」
「うん……あの、ね」
「うん……?」

「うん、あの……」と牧野は口ごもり、視線を宙に彷徨わせた。
再びドキリとする。
明らかに言いにくそうにしているそれは、ひょっとして俺のこの不自然な態度のことではないだろうか。やはり牧野は何かを感じ取ってしまっていて、でもそれをどう切り出したらいいか迷っているのかもしれない。もしそうだとしたら、俺はそれに対してなんと答えればいいのだろう。
必死に頭を巡らせながら、次の言葉を待つ。
牧野は何度か言いかけてはやめるしぐさを繰り返し、そしてようやく言葉を紡ぎだした。

「……ちゃんと、言ってね」
「……え?」
「いろいろ。その、あたし、呆れられても仕方ないくらい何もわからないから」

その言葉に、俺の心臓がドクンと鳴った。
もう決定的だと思った。そして牧野は、自分に非があると思っている。

「いや、牧野」

違うんだよ――続く言葉を飲み込んだ。その先の言葉が見つからなかったから。
何をどう伝えればいいのだろうか。すべてをそのまま話すのは、正直とても情けなくて恥ずかしい。
それでも話すしかないのかもしれないけれど、でもそれが余計に牧野を困らせることになりはしないだろうか。

――おまえを抱きたくて気が狂いそうなんだ……とか、俺は言えるのか?

返事を考えあぐね言葉を探すうちに、牧野が次の言葉を口にした。

「前にね、桜子に言われたの。されてるだけじゃダメだ、って」
「……え?」
「初めての時は仕方ないけど、回数を重ねれば少しずつ慣れるんだし、慣れたら自分からも相手を喜ばせないといけない、って」
「……は?」

素っ頓狂な声が出たと思う。
数秒、数十秒――とにかく俺は頭をフル回転させて考える。
牧野が何を思っているのか、何を言おうとしているのか。考えて考えて考えて……そして、その答えにたどり着いた。
俺の心臓は改めてドクンと大きく脈打った。

「え、ちょっとま――」
「で、でもあたし、情けないことに全然わからないの。どうすればいいのか、喜ばせるって何をすることなのか。だから本当はそれを教えてほしかったんだけど、桜子はそこまでは話してくれなくて。だからって改めて聞くのもなんか恥ずかしくて、その……」

そこまで言って言葉を止めた牧野はきゅっと口を結ぶ。そして勢いよくガバリと起き上がると、真っ赤な顔で言った。

「だから美作さん、あたしに教えてください。どうすればいいのか」

しんと静まり返った部屋のベッドの上。
ほぼ正座状態の牧野と、その勢いに圧倒されて思わず上半身を起こしかけた俺。
窓の外から、アパートの前を通り過ぎる車の音が低く聞こえた。

なんだこの展開は、と途方に暮れ、俺は牧野をじっと見つめた。まじまじと、本当にまじまじと。
とんでもないことを言っていることに、牧野は気づいているだろうか。
たぶん答えはノー。
彼女はただ必死なのだ。言わなければと思い詰めて、そして口にした。
牧野はそういう人間だ。真っ直ぐな。
そのことを俺はよく理解している。

――わかっちゃいるけど……。

でも今のこの状況で「牧野はそういうやつだから」の一言で済ませられるかといえば、その答えも、ノーだ。
朱に染まった頬、わずかに潤んだ真剣な瞳、きゅっと結ばれた赤い唇、太腿の上でぎゅっと握られた手。そして紡がれた切実な言葉。
今目の前にいる牧野は、俺を欲情させるには十分すぎる。
ただそこにいるだけで、頭の天辺から足の爪先まで隈なく痛いほどに刺激する。
抑えても抑えても欲情する己をどうにか抑え込もうと必死になっていたこの数時間はすべて無駄。この一瞬ですべてが吹き飛ぼうとしていた。

――どうしようもねえな、俺。

自分自身が可笑しくて、情けなくて恥ずかしくて、苦笑が浮かぶのを抑えられない。
左手で上半身を支え、右手で髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。盛大にため息を吐いて、それから俺は口を開いた。
照れ隠しに、わざとらしいしかめっ面を顔に張り付けて。

「その話、今は聞きたくなかったなあ」

俺の言葉に牧野の表情がサッと変わり、青ざめるのがわかった。

「ご、ごめんなさい」
「ったく」
「ほんとに、ごめんなさい。デリカシーないよね」
「こっちは必死で抑えてたってのに」
「ごめんなさい。忘れて、全部」
「そんな簡単なことじゃないよ」
「あたし、ただ――」
「抱きたくて抱きたくてどうしようもないんだから、俺は」
「気になって……え?」

俯いていた牧野が、そこで顔をあげて俺を見た。
視線が絡み合えば、余計に膨れる俺の欲。

「今すぐ抱いてくれってねだられてる気分になるだろ、そんな風に言われたら」
「……え? えっと、あの、」
「違うのはわかってるよ。でも俺も男だからさ」
「……」
「そんな可愛いこと言われたら、ブレーキが効かなくなる。今すぐああしろこうしろって言いたくなる」

俺の言葉に牧野はぼんっと音がするほど急激に顔を赤くして、そして俯いた。
「あ、ごめんなさい。あたし、えっと、その」と着地点のない言葉をもごもごと口にしながら。
そんな姿さえもかわいい。どうしようもないほどに。
俺は小さく息を吐いて、その頭に手を乗せるとぽんぽんっと優しく撫でた。

「物わかりのいい大人で居続けたいわけじゃないけど、でもおまえの信頼はできるだけ裏切りたくないと思ってる。だけどあんまり――……」

「信頼しすぎてくれるな」と続くはずの言葉は最後まで続かなかった。
それよりも先に、牧野がぎゅっと抱きついてきたから。

――こいつ、俺の言ってることわかってる?

直接問いただしたくなるほど俺の言葉を無視した行動をする牧野。
俺は思わず「おーい」と苦笑交じりに声を漏らした。

「なあ牧野。俺の話聞いてた?」

頷く牧野。

「だったら抱きついてくるのは反則じゃないか? こんなことすると余計に――」
「わかってるよ」
「わかってないだろ、どう考えても」
「わかってるよ。抱きたくなる、って言うんでしょう?」
「……わかってるならなんで」
「だって、こうしていたいんだもん」

身体が疼いて、指先が震えた。
可愛くてたまらない。
今すぐ掻き抱いてしまいそうな己を、ありったけの理性を総動員して押さえつけなければいけないほどに。

「ダメ?」
「……ダメ、だな」
「……」
「嬉しいよ。心底嬉しい。だけど心底困る。困ってる」
「……」
「このままじゃ本当にブレーキが外れるぞ」
「いい。それで」
「いいって……」
「ブレーキなんて……いらない」

呟くように言葉を吐き出した牧野は、ますますぎゅっと抱きついてきた。
俺はもうどうにかなりそうだった。いや、もうどうにでもなれと思った。
けれどそれでも高ぶる気持ちを必死に抑えながら言葉を紡ぐ。
多分これが最後の理性――ほんの、ひとかけら。

「ブレーキを外すってことは、牧野を抱くってことだよ?」
「……うん」
「さっき……痛かっただろ?」
「うん」
「きっと今やったらまた痛いと思うぞ? 癒えてないのわかってて、さらに痛みを与えることに――」
「わかってる。でも、」

俺の言葉をさえぎって、牧野は言った。

「それでも、こうしたい」

胸に直接響く小さくくぐもったその声に、俺の理性は粉々に砕け散った。もうかけらも残らないほどに。
牧野の顎に指をかけ上を向かせると貪るように唇を重ねた。

「んっ……」

牧野の口から小さく声が漏れて、条件反射的にその手が俺の服を掴んだ。唇を合わせたままその手をやんわり解くと、俺の首に回させて、そしてそのままゆっくりベッドに沈み込む。角度を変えながら深い口づけを繰り返してようやく唇を離すと、ゆっくり目を開ける牧野を見つめ続けた。

――なんか……

ふと脳裏に過ったデジャブ感。
思わずクスリと笑う。

「何時間か前にも同じようなことしたよな、俺達」
「うん、した」

抱く前に、何度も何度も牧野の気持ちを確かめて、すべての欲をぶつけてキスをした。
また同じことを繰り返してる俺達……いやこの場合、そうしているのは俺だ。

「俺が慎重すぎるのか?」
「……うん、多分」
「そっか」
「うん。……でも、」

言葉を止めた牧野は、俺をじっと見て笑みを浮かべた。

「あたしにはちょうどいい」
「……」
「見失わないでいられるから」

その笑顔がひどく柔らかで、胸の奥がぎゅっと痛くなる。
俺は牧野の頬を撫でると、囁くように言った。

「置いていったりしないって、俺言っただろ?」
「うん」
「さっき、おまえを取り残しちゃった?」
「ううん」
「良かった。なら今度も大丈夫だよ。次も、その次も。ずーっとずーっと」
「うん」
「つらかったら言って。身体でも、心でも。遠慮しないでいいから」
「うん」
「どんなに中途半端なところでも、止めるように努力する。出来る限り」
「……なにそれ」
「言ったろ? 俺は男で、しかも我慢強いほうじゃないって。だから盛り上がってる真っ最中に止めるのはつらいし耐えられる自信もあんまりない」

牧野がクスリと笑う。

「でも止める努力は全力でする。俺はおまえが大事だから」
「……」

クスリと笑った牧野の顔に、今度は涙が伝った。

「なーに泣いてんだよ」
「だって……」
「だってなんだよ」
「……よかった、嫌われたんじゃなくて」
「……」
「よかったぁ……」

涙を流しながら、でも笑顔を見せる牧野。
ガツンと頭を殴られたような衝撃が俺の中を駆け抜ける。
やっぱり牧野は気づいていた。俺が不自然な態度をとっていることに。
そして、何もわからずされるがままで何も出来ない自分に愛想を尽かしたんじゃないかと考えていたのだ。
俺の身勝手な態度が、牧野にそう思わせた。

――なにやってたんだ、俺は。

たまらず牧野を抱きしめる。
ぎゅっと、ぎゅっと。

「ごめん、俺が悪かった」
「ううん、いいの。大丈夫」
「だって――」
「安心したら涙が出てきちゃっただけ。それに……」
「……それに?」
「こんなに大切にされてるんだってわかったから」
「……」
「だから……幸せだなって、そう思って……」

胸が痛い。痛くて痛くて張り裂けそうだ。

「大切だよ。誰よりも何よりも――この世で一番」

俺は牧野にキスを落とす。
額に、瞼に、唇に。
頬に、耳に、首筋に。
優しくそっと――でも、すべての想いが届くように。

服を脱ぎ捨て肌を重ねれば、互いの体温が溶け合う。一度目よりもずっと早く、ずっとしっかり。
俺と牧野、二人分の吐息と熱で部屋がいっぱいになる頃、愛しい声が耳に届いた。

「好き。――みまさかさん……あいしてる」

小さな小さな囁きが、俺を世界一幸せにした。





 **





あの日のことはいつ思い返しても、口元を隠したくなるような笑みが浮かんでしまう。
情けなくもあり恥ずかしくもあり、でもとんでもなく幸せ。
紛れもなく「特別な日」。
きっとこれから先も、どんなに長い年月が過ぎようとも色褪せることはないだろう。

「おーい美作、おはよう」

ふと我に返ると、休憩スペースの入口から同僚の小野がニコニコと手をあげてこちらに向かって近づいてきていた。

「おはよう。早いな」
「いんや、そうでもないぜ?」

言われて時計を見ると、思ったよりもずっと時間が経っていた。どうやら思いのほか長い時間物思いに耽っていたようだ。

「あー、なるほど」

テーブルのすぐ脇まで来た小野は、開いたままの資料を眺めながら何度も頷く。

「これなら納得」
「ん?」
「いや、人の気配に敏感なおまえが、俺に気付かなかったからさ」

実は俺が気づく前にも一度「おはよう」と声をかけたのだと小野は言った。

「そうなのか。悪い、全然気づかなかった」
「みたいだな。いやーでもこれじゃあ頭もいっぱいになるよ。これ、昨日中止になった会議の資料?」
「そう。追加資料だけでこれだぜ? どうなってんだか」
「ひえー、おまえも大変だなあ……で、読み終えたのか?」
「ああ、読み終えた」

頷く俺に「さすが!」と小野は笑みを浮かべる。

「じゃあもう戻るか?」
「ああ、そのつもり。でもその前に紅茶をもう一杯飲もうかな」
「ちょうどいい、俺も珈琲を飲もうと思ってきたんだ。いつものでいいか? たまには奢るよ」
「お、サンキュー」

小野は手をひらひらと振って、自販機へと歩いて行った。
まもなく紙コップを手に戻ってきた小野と、窓際の――さっきまで一人で資料を広げていた席に向かい合って座り、紙コップを口に運ぶ。
何を話すでもなく、ぼんやりと窓の外に視線を漂わせながら。

「いい天気だな」
「ああ」
「仕事なんて放り出して遊びに行きてえなあ」
「あはは。本当だな」

抜けるような青い空は、牧野を強く思い出させる。
つい数時間前まで一緒だった牧野を。

「ちょっと一件メールさせてくれ」
「どうぞどうぞ」

携帯電話を取り出す俺ににこやかな笑みを浮かべて珈琲をすすり、そのまま窓の外に視線を移した小野を視界の端に捉えながら、俺はメールを打ち込む。

「……よし、と」

送信を終えた俺は携帯電話を胸元にしまい込み、紙コップに残っていた紅茶を飲み干した。

「さて行きますか」
「そうしますか。今日も忙しい一日になりそうだなあ」
「間違いなく忙しいだろうな」

まとめた資料を手に立ち上がり、もう一度窓の外を見る。
次にこうして空の色を気にできるのは何時間後だろうか。
今は青いこの空も、経過とともにもっともっと色を濃くして、そしてやがて茜色に染まる。もしかしたらそこまでノンストップかもしれない。
でもきっと――きっと今日は、夕焼けも綺麗に違いない。

「さーて、今日も頑張りますか」
「お、美作クン気合が入ってますねえ」
「まあな」
「さては、何かイイコトあったな?」
「うーん……まあ正解かな」
「もしかして、昨日久々に彼女に会えたとか?」
「……相変わらずなかなか鋭いな、小野」
「羨ましい話だなあ」
「おまえも彼女作ればいいだろ?」
「そう簡単に言ってくれるなよ。なかなか難しいんだぜ?」

大袈裟に嘆く小野と笑い合って歩き出す。

――『仕事を終えたら行くよ。早く終わればバイト先に。遅くなったら家に。連絡するから、今日も会おう』

きっと俺が牧野に会いに行く頃には、夜の闇が広がっているだろう。
でも牧野が一緒なら、闇夜だって輝く気がする。
牧野がそこにいてくれたら、それだけで。
Fin.
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2013.01.20 茜色が沈んでも
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