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星屑色の降る夜
COLORFUL LOVE view of AKIRA
2

「美作さん、英徳内で噂が流れてるの……知ってる?」
「噂? どんな?」
「美作さんが、あたしと付き合ってるって……」
「へえ。初耳」
「……そっか」

 牧野がそう話し出したのは、一杯目のカモミールティーを飲み終えて、二杯目をカップに注いだ直後だった。ついさっきまで、「やっぱり美味しいなあ。美作さんのおうちで飲むハーブティー」と穏やかな声で穏やかな表情で言っていたのに、そう話し出した牧野の顔は、すでに暗く沈んでいた。


   *


 牧野を連れて邸に戻ると、俺が飛び出していったことに気付いていた使用人がすぐに出てきた。牧野の姿を見て驚いた表情を浮かべ、「部屋に行くから」と言った俺にさらに驚きの表情を浮かべ、でもすぐに「温かい飲み物を用意いたします」とにこやかに頭を下げたので、「頼む」とだけ告げて、俺は牧野を自分の部屋へと連れて行った。
 大人しく俺の後についてきた牧野は、部屋の中へ足を踏み入れて一歩二歩と進んだところで立ち止まり、どこか居心地悪そうに視線を泳がせた。どうしたのだろうと思ってすぐに、この部屋に牧野を招き入れたのは初めてだったと気付いた。
 ――いや、牧野どころか、この部屋に女を入れるのが初めてだよな。
 だから使用人があんなに驚いた顔をしたんだ、とここでようやく合点がいった。余計なことを勘ぐられていそうだと思ったら、面倒なような照れくさいような、何とも言えない感情が浮かんだ。
 牧野はまださっきと同じ場所に立ち尽くして遠慮気味に、でもどこか興味深げに部屋を見回している。
 ――俺に警戒してる……わけじゃねえよな。
 わかり切ったことながら、どこか微妙に残念な気もするその現実にそっと息を吐いて、脅かさないように静かに声をかけた。

「リビングのほうが良かったか?」
「え?」
「初めてだろ、この部屋。おちつかないかなあと思って」
「あ……うん。でも、ここで、大丈夫」

 牧野のその返事からは、リビングがいいなんて言ってはまた迷惑をかける、という思考がはっきりと読み取れた。
 ――そんな気遣い無用だっていつも言ってるのに。
 でも俺はそれを言葉にしなかった。なんとなく――本当になんとなくだけれど、ここがいいと思った。だだっ広いリビングで、でかいソファで、離れて座ってお茶を飲むなんて嫌だった。
 ――……この感情は、なんだろう……?
 頭の片隅に疑問符が浮かぶ。けれど答えが見つかるよりも先に、使用人が温かい飲み物――シナモン入りのカモミールティーを運んできた。
 ソファに座った牧野がそれを一口飲んで「わあ、美味しい」と嬉しそうに笑う。泣き腫らした顔に戻った笑顔が嬉しくて、俺の顔にも自然と笑みが浮かんだ。牧野がようやく笑った――ただそれだけのことが俺の心を満たして、とりあえず今は他のことはどうでもいいと思う俺がいて、そんな自分にやっぱり疑問符が浮かんだが、もう深く考えるのはやめた。ただ、美味しそうにカップを口に運ぶ牧野を視界に留めながら、俺も紅茶を飲んだ。



   *



「その噂、学園中に?」

 訊くと牧野は、「そうみたい」と小さく頷いた。

「友達に訊かれたの。美作さんとつきあってるのかって。普段そんな噂話には興味を抱かない友達なんだけど」

 だからよっぽど広がっているんだと思う。と話す牧野に、ふうん、と返事をしながら、俺はティーカップを口に運ぶ。
 その噂は全く俺の耳に届いていなかった。でもそんなふうに噂されても仕方がないかもしれないとは思えた。この一週間はともかく、ここ数ヶ月、俺と牧野は毎日のように一緒にいたのだから。俺自身、総二郎や類との時間よりも牧野との時間のほうが多かったと自覚があるくらいだから、周囲の人間が俺達の仲を疑っても、なんら不思議はない気がした。それじゃなくてもあそこは常に何かしらの噂が蔓延している。そういう場所だから。
 ただ牧野がそれを自覚していたか否か――多分していなかっただろうなあと、それも至極当然に思う。牧野は常々そういうことを考えて動くタイプの人間ではない。どちらかと言えば、ある時ふと気づいて大慌てするタイプだから。
 でも何にせよ、それは所詮単なる噂。噂されること自体、けっして気持ち良くはないだろうし、牧野がそれを素知らぬ顔で右から左へ流せる人間でないことも知っている。ため息を吐きたいくらいの気分ではあるだろう。
――でも、ここまで落ち込むことじゃないよな。
 泣き腫らした痛々しげな横顔を見つめれば、その理由がこれだけとは到底思えなかった。
 とはいうものの、女の涙には多くのワケがありすぎる。さらに言えば、ワケなんて何もない時もある。涙を武器にする女だっていっぱいいる。良くも悪くも、過去の経験から俺はそれを知っている。ただ、牧野はそういう女じゃない。少なくとも俺の知る牧野は、女であること自体を武器にしたりしない。人の気を引くために泣くなんてことはしない。むしろ必死に我慢をするようなやつだ。
 そういう意味で、牧野は俺の知る多くの女とは異なる。俺がここまで培ってきたノウハウが、牧野にはまるで通用しない。
 だからだろうか。気づけば真剣に牧野と向き合う俺がいる。手抜きなし、驕りもなし。いや、単純にそれだけの余裕が生まれてこないから、結果的に真剣勝負しかないのだ。

 俺は牧野をじっと見つめる。俯き加減にティーカップを見つめるその横顔は、なにか思い詰めているようで、でもそれについて積極的に語ろうと思っているようには見えなかった。
そんな牧野に「他に何が?」と問い詰める気にもなれなくて、しばし考えて、結局シンプルな言葉を落とした。

「気にすんなよ。そのうち消えるだろ」

 あくまで自然に、出来るだけ軽い口調で。牧野はその俺の言葉に顔を上げて、ほんの少し困ったような顔をした。

「ごめんね、美作さん」
「ん?」
「噂……ごめんね」

 まるで想像しなかった謝罪の言葉に、頭がついていかなかった。自分の眉間に皺が寄るのがわかる。

「なんで牧野が謝るんだよ」
「だって、あたしのせいだから」
「なにが」
「あたしが、いつまでも甘えすぎてるから」
「……」

 自分で言うのもなんだが、俺は勘の働くほうだと思う。僅かな情報から相手の考えやその先に続く言葉を読み取ることも、多分得意なほうだ。でも今は、牧野が何を言わんとしてるのか、うまく理解できずにいた。
 ますます眉間に皺が寄る。

「どういうことだよ」

 問い詰めるようなことはしたくなかった。自発的に話すのをゆっくり待つつもりでいた。でも、考えるよりも先に言葉が零れ落ちてしまっていた。威圧的に感じただろうか、と気になったその矢先、牧野が口を開いた。

「道明寺と別れたあたしが、美作さんやみんなのそばに居て助けてもらうって、なんかおかしいことだったんだよね。本当なら、きっぱり関係が切れてもおかしくないのに。……むしろ、そうするべきなのに……」

 その言葉が、俺を真相へと導いてくれた。

「ああ、そういうことか」

 思わず漏れた言葉に牧野がチラリと俺を見て、「美作さんて、勘がいいよね」と力ない笑みを浮かべた。
 牧野の思考回路は、一見単純で、でも実は複雑で繊細だ。いつだって必要以上に考え込んで思い詰めて、自分で自分を雁字搦めにしてしまう。今回もまさにそれ。牧野は自分で自分を追い詰めている。そう感じた。
 ――となれば俺に出来るのは、ひとつずつ紐解いてシンプルにすることか。
 冷めたカモミールティを一口飲み、それからゆるりと口を開いた。

「それって端的に言うとさ」
「うん」
「今までは司との関係があったから一緒にいたけど、それがなくなったんだから俺達とはもう一緒にいるべきじゃない。――そう思ったってことだよな?」

 牧野は少し間をおいて、こくんと頷いた。

「でもそれは、自発的に浮かんだ想いではない。何かきっかけがあって、そこへ至った。……ちがう?」
「美作さんてやっぱりエスパーなの?」
「残念ながらエスパーではない。だから俺は訊かなきゃならない」
「何を?」
「そのきっかけがなんなのか」

 俺は手にしていたカップを静かにテーブルに置き、そっと囁くように訊いた。

「誰かに言われた。――違うか?」

 牧野は顔を上げて、俺をじっと見つめる。ああ、図星だ、と思った。となれば一体誰に、ということになるが、それを急かすのは多分逆効果。「そっか」とだけ呟いて、俺は牧野が口を開くのをじっと待った。
 沈黙が流れる。やがて、牧野がぽつりぽつりと話し出した。

「今日、大学終わってから友達とご飯食べに行ったの。そしたら、一緒に行った友達の、そのまた友達と偶然会って」
「それは、英徳の人間? その、友達の友達ってのも?」

 うん、と牧野は頷く。

「あたしは、知らなかったんだけど、その人はあたしのこと知ってて」
「ああ、まあ、牧野はそれなりに有名だからな」
「有名? あたしが?」

 牧野は首を傾げる。相変わらずわかっていない。司の元彼女で、日頃から俺達と一緒にいる自分がどれほど学園内で有名か。でもそれを切々と語ったところで何が変わるとも思えないのでやめておく。

「で? その友達の友達が、なんか言ったのか?」

 その言葉に、牧野は途端に顔を曇らせて俯いた。何か言われたんだと一発でわかる。

「なんて言われた?」

 問うた俺の言葉を受けて、しばしの沈黙の後。

「甘えすぎてるんじゃないか――って」

 牧野はぽつりと言った。

「甘えすぎてる? 牧野が?」

 牧野は頷いた。

「自分から彼氏と別れたのに、別れた彼氏の親友に頼ったり助けてもらったりするのは変だって。なんだか、いつまでも寄生して優しさを利用してるように見えるって」
「……」
「どうして今も一緒にいられるの? 自分だったらとても一緒になんていられない――って」

 そう言って、牧野は唇を噛んだ。
 牧野が一緒に食事に行った友達は、今日見かけたあの連中の誰かなのだろう。そしてそのまた友達というのはあの中にはいない。となると、それが一体誰なのか、俺には全く見当がつかない。けれど今までの経験上、そんなことを言うやつは、こちら側――つまり一目置かれる存在である俺達になんらかの強い意識を持っている。
 おそらく他にもいろんな言葉を重ねて、牧野の中で迷いが生じるように誘導したのだろう。でもそれは親切心からくる助言ではない。
 そもそも牧野のことを知る人間なら、牧野が俺達を利用しているなんて発想には行き着かない。牧野は決してそういう人間ではないから。知っていて尚そんな言葉を吐いているのなら、完全なる馬鹿だ。
 つまり、単なる嫉妬――牧野に対する醜いジェラシーなのだろう。
 牧野は金持ちでもなんでもない普通の庶民なのに、俺達と良好な関係を築いている。司と繋がりが切れた今も。
 それが悔しいのだ。だから牧野は嫉妬された。

 俺は思わず舌打ちをする。
 癪に障った。顔も名前もわからない完全なる部外者に物知り顔で語られたことが。それによって牧野が傷つけられたことが。
 無性に腹が立った。正直に言えば、どこのどいつだと問い詰めたかった。相手を特定して何らかの制裁を加えてやりたいと思う俺がいた。そんなやつ放っておいたらロクなことがないから。
 でも、牧野が決して言わないだろうということもわかっている。問い詰めれば問い詰めるほどただ困らせる。牧野はそういうやつだ。よく知ってる。だからこそ抱えてしまった感情のぶつけどころが見つからない。
 俯く牧野の横顔を見ながら、俺は堪え切れないため息をこぼした。

「牧野、それさ――」
「噛みつかれたんだよね、あたし」

 嫉妬にまみれた言葉だから気にすることはない。――そう伝えるよりも先に、牧野は言った。

「なんだ、わかってたのか」
「だって、敵意むき出しだったもん。さすがにわかったよ」
「なら――」
「でも、その通りかもしれないって、思ったの」
「え?」
「言われて初めて気づいたの。そんなふうに考えたこと、なかった」

 牧野は一つゆっくりと息を吐いて、そして再び言葉を紡いだ。

「最初は、なんでそんなこと言われなきゃいけないんだろうと思った。友達が言い過ぎだよってその人に言って、でもその人は本当のこと言っただけだって譲らなくて、その場の雰囲気もすごく悪くなっちゃって……すごく嫌だった。そのことすべてが。せっかく楽しかったのに、あたしのせいでそんな空気になっちゃって」
「別に牧野のせいじゃないだろ」
「でも、あたしがいなければ、そんなふうにはならなかったんだから」

 居た堪れなくて、申し訳なくて、牧野は一人で先に店を出たのだと言った。

「帰り道、ずっとずっと悔しかった。今日初めて知った人になんでそんなこと、って。何も知らないくせに、って。なんかすごく悔しかった」
「その通りだと思うぞ」
「だけど、ハッとしたのも事実だったの」
「……なんで」
「考えたこともなかったから。道明寺は道明寺。みんなはみんな。あたしの中で、もうずっと全く別に存在してた。だから、道明寺と別れたからってみんなとの関係性を変えることなんて考えもしなかった」
「いいじゃん、それで」
「でも周りで見てる人にはそうじゃなかったんだよ。あたしはあくまで元彼女というだけの存在。だから、いつまでも別れた彼氏の繋がりに寄生してるって思われるし、また似たような関係を手に入れようとしてるって勘ぐられる」

 牧野は宙を見つめる。その時のその場の空気を思い出したのだろうか、一瞬言葉を止め、そしてふっと笑って呟くように言葉を吐き出した。

「場違いなやつって思われてる自覚はあったけど、寄生してるなんて……そんなふうに思われてたなんてね」

 それは痛みの伴う笑顔だった。見ている俺にまでその痛みが伝染する。それを紛らわすように俺は口を開いた。

「気にすることないさ。勝手に言わせとけよ、そんなわけのわかんねえ部外者」
「うん」
「何にも知らねえくせに、憶測で好き勝手言ってるだけだろ」
「うん」
「相手にするだけ時間の無駄」
「……だけど、結局そういうことなんだよ」

 牧野はまた頭の中でたくさんのことをぐるぐると考えている。表情からそれがわかった。

「どういうことだよ?」
「あたしが、甘えてるってこと」

 そして吐き出された言葉は、ぐるぐると考えたその先で出た答えだ。

「ショックだったけど、でも図星なんだよね」
「図星?」
「あたしが考えなしだった。だからそんなふうに言われる。だから、変な噂が流れる」

 極論だった。頭の中で複雑に変換されまくったその先の。でも、目の前の牧野は真剣で、だからこそ、牧野の笑顔にも言葉にも痛みが滲んでいる。

「だから、あたしのせいなの。全部。自業自得。だから」
「だから?」
「だから……もう、一緒にいないほうが、いいかなって……」

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