「ふうう……」
一人になった自室で、ベッドに寝転がり、大きく息を吐く。
掛け時計の示す時間は、午前二時三十分。もう完全なる真夜中なのに、まるで眠気がやってこない。
「はああ。どうするかあ」
明日は――正確には今日だが――土曜日。学校も休みだしこれと言った予定もないから、寝坊しても支障はないが……たぶんそうもいかないことは、ぼんやりとだが確定している。
どうせ寝るなら今すぐ寝ないと起きられなくなりそうなのだが、どうにも寝れる気がしない。
「もうこのまま徹夜でもするかな」
独り言が宙に溶けて、部屋は再び静寂に包まれた。
あのあと、他愛もない話をするうちに少しずつ元の調子を取り戻した牧野は、結局うちに泊まることになった。
「もうこんな時間だし、泊っていけば?」
「えー、いやでも……」
「別に遠慮する必要がないだろ。何度も言うけど、もうこんな時間だし」
「……うん、まあそうだよね。帰るにしても送ってもらうことになっちゃうしね」
「そういうこと」
「じゃあ……お言葉に甘えさせていただきます」
相変わらず遠慮を色濃く滲ませてはいたが、最後はどこか晴れやかな顔で頷いた。
準備の整えられた客室に牧野が移っていったのは一時間以上前。おやすみなさい、と笑顔で出て行った牧野は、きっともうシャワーも浴び終えて、ベッドに入っているだろう。もしかしたら、もう眠っているかもしれない。
まるで眠れない俺とは正反対に。
胸にもやもやと巣食う感情は、時間を追うごとにその輪郭がはっきりとしていく。
自分で言った言葉が突き刺さる。
「大切なのは、牧野自身や俺自身の気持ちで、噂でもなければ他人の評価でもない」
全くその通りだ。向き合うべきは自分の気持ち。目を逸らしてる場合じゃない。
けれど……。
牧野が部屋を出ていく寸前、俺はその背中に声をかけた。
「なあ、牧野」
「何?」
振り返った牧野に、自分で声をかけたにも関わらず俺は数秒考えて、他愛もない言葉を投げかけた。
「明日、朝食っていけよ。おまえが来てることシェフに伝わってるから、きっといつもの倍くらい作ると思うし」
「ちょっ、人を大食いキャラに位置づけるのやめてよ」
本当にどうでもいいことだ。
でも牧野は、俺の言葉に目を瞠って、それからキャンキャン言い返してきて、それに俺は声をあげて笑った。
本当に言いたかったのは、そんなことじゃない。喉まで出かかった言葉はきちんと別にあった。
「本気になってもいいか?」
――言わなくてよかった。
情けなくも、それが本音だ。今思い出しても安堵のため息が零れる程に。
言葉にしてしまったら、もう立ち止まることなど出来ないだろうから。
胸の奥から沸き溢れ俺を揺さぶるこの感情には得体の知れない怖さがある。けれどそれは全体が把握できないから感じる怖さであって、形も色も温度も、そのすべてを感じることができる。
その感情に名前を付けることだって出来る。なぜなら俺はその感情が何であるかを知っている。直視せずとも、どんなに見て見ぬふりをしようとも、俺にだってわかっている。
この感情がなんであるか。
これは、恋で……たぶん、愛だ。
しっかり向き合ったその時には、全てを認めるしかない。そしてきっともう、消すことも留めることも出来ない。
――でも。
「それはちょっと怖いんだよなあ。……まだ」
自信がない。今の俺にはまだ。
この想いの着地点。認めた先に待ち受けている現実。そしてさらにその先に続く、未来。
その、すべてのことに。
中途半端な気持ちで動き出すことは出来ない。気まぐれに振り回すことも。
相手が、あいつだと思えば、余計に。
そして。
この想いはきっと、一度認めてしまったら、もう絶対に後戻りできないとわかる。掴みたいと望んでしまったら、掴んだその先では、絶対に手放すことをしたくない。
だから、怖い。
だから、今はまだ。
――今はまだ、ここに留まってるしかないか。
見て見ぬふりのまま、気付かないふりのまま、ふわふわと浮いた宙を彷徨って。
今はまだ……。
ふう、と大きく息を吐いて、目を閉じる。
瞼の裏に、牧野の泣き顔が浮かんだ。
瞼の裏に、牧野の笑顔が浮かんだ。
瞼の裏で、何か小さな光が輝きを放った気がした。
そのすべてが俺を刺激する。
小さな――頼りなげな小さな光。目を凝らしても、それ以上大きくならない、そんな小さな光さえも。
――これはなんだろうなあ。これだって、集まればきっと眩しく思えるんだろうなあ。
つまらないことをぼんやり思う。でも多分、それはつまらないことなんかじゃないんだとも、思う。
感情が湧き溢れるのを感じる今だからこそ、俺にとっては大切なこと。
きっとこの光は――きっと大切な……すごくすごく大切な……。
目を瞑り、瞼の裏の残像を漠然と追ううちに睡魔が俺を支配し始めた。
よかった、眠れる――ぼんやり思った。
やがて重く深く落ちていく意識の片隅で、過去の自分が蘇った。
「多分、俺に合うのはこういう女だ。満月にさせる力を持ってる」
何年も前のあの夜が鮮明に浮かぶ。
途端に、胸の奥にいくつも小さな光を感じた。
瞼の裏に浮かんだそれよりも、もっと小さな、でもたしかに輝く無数の光。
それはまるで、夜空に散らばる星屑のよう。
月までは届かない。ひとつひとつは小さく頼りなげで、でも決して消えない光。
これはきっと。
きっといつか、俺を導く光となる。
温かく、優しく――時に、鋭く。