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春よ、来い
CLAP STORY (COLORFUL LOVE -Extra Story- view of MOE)
1
 各役員室を回り、それぞれの給湯スペースの準備をする。それが役員フロアの受付に座る社員の朝一の仕事。

「失礼いたします。おはようございます」
「おはよう」
「給湯スペースの準備をさせていただいてもよろしいですか?」
「ありがとう、お願いします」

 その返事に一礼して、私は部屋の中程へと歩を進める。
 給湯スペースなどと仰々しい言い方をしているが、役員が好きな時に好きなものを飲めるようにと各部屋に備え付けられている電気ポットにお湯を入れてセットする。ついでにスペースの簡単な掃除とカップ等の整理整頓をするというごくシンプルな仕事内容。
 飲み物は秘書課に依頼してくる役員が大半だ。そんな時には秘書が使っているフロアの給湯室で用意して持っていく。それこそどんなリクエストにも応えられるように準備してある。なので、ほぼ使わない役員も多い。
 でも、中には毎日使う役員もいる。コーヒーメーカーのセットを忘れてはいけない役員、とか。冷たい麦茶が欠かせない役員、とか。
 そして今私のいるここ、美作専務の執務室。朝一のお茶以外はほとんど自分で用意する美作専務の給湯スペースの準備は、常に念入りにしなければならない。
 でも、これがこの仕事一番の楽しみ。趣味の良い給湯スペースにお洒落な電気ケトル、これまたお洒落なキャビネットに綺麗に並んだ数々の茶葉に色とりどりのカップ。何もかもが素敵で眺めるだけで幸せな気分になる。
 そして……

「失礼いたします、おはようございます」
「おはよう。松本、昨日は悪かったな。夜中に電話して」
「いえ、まだ起きてましたから」
「そうか。で、書類は?」
「まもなく揃いますので、揃い次第お持ちします」
「よろしく」
「はい。では、スケジュールの確認をさせていただきます。本日九時三十分より……――」

 そして、この部屋の主である美作専務が秘書の松本さんと打ち合わせをするその姿を見つめることのできる、至福の時間。



 私の名前は白川萌(しらかわもえ)。二十四歳。秘書への憧れを胸に、ここ美作商事に入社してもうすぐ二年。秘書課は新卒採用はしないとのことで、配属希望を出しながら総務部総務課に所属して丸一年、入社二年目の四月に念願かなって秘書課へと配属になった。つまり私は、秘書課一年目の新米秘書。
 ちなみに美作本社では、部長以上には必ず一人以上の秘書がつくので、「秘書」という肩書を持つ社員は大勢いる。ただ秘書課に所属する秘書は、役員付秘書と役員フロアにある秘書室に所属の秘書のみ。その他の秘書はそれぞれの上司と同じ部署内で選任されてそのままその部署に所属という形態になっている。そして私は秘書課所属――つまり、秘書室への配属を希望していて、それが叶った形だ。
 配属が決まった時、周囲にもの凄く驚かれた。毎年希望を出す社員はそれなりにいるのだけれど、採用人数が少ない上に試験や面接のレベルが高くてなかなか通らないと定評があったから。

「秘書室と言えば社内でもトップクラスの才色兼備な方々が集まるところでしょ!? 萌すごいじゃない!」

 大興奮で私の肩を揺すったのは同期入社で一番仲良しの有田小春。自分のことのように喜んでくれて、そしてお祝いだといって飲み会まで計画してくれた。小春の呼びかけで集まったのは、同期入社で研修中に同じグループだった十人。みんな、自分のことのように喜んでくれて、心から祝福して激励してくれた。
 一年近く前のことだけれど、今でもはっきり思い出せる。
 真向かいに座っていた小野くんが「ということは、白川と美作はいずれ同じフロアで仕事することになるのか」と笑顔で言ったこと。「そういうことだな。よろしくな、白川」と、その隣に座った美作くんが微笑んでくれたこと。
 ――多分、一生忘れられないよ。

 美作商事の御曹司で現在は専務取締役の美作あきら。間違いなく社内一有名で社内一モテる若き専務は、私の同期で、同じグループで研修を受けた仲間で。そしてそして――私の想い人、なのだ。

 彼を初めて見たのは入社式だった。
 ざわめく会場が一際どよめいて、何事かと振り返ったその先に、多くの視線を浴びながらもまるで気にする風なく颯爽と歩いてくる彼がいた。
 入社前研修では見なかった顔。何百人もいる新入社員の中でも決して埋もれることのない圧倒的な存在感。彼が、研修中に噂になっていた「今年入社する美作商事の御曹司、美作あきら」であることはすぐにわかった。
 でも、あの時の私にとって、その事実は冷静になってからの付け足しで、それとは関係なく一瞬で目を奪われた。立っていても座っていても気になる、とはああいうのを言うのだろうと思うほどに、彼の一挙手一投足が気になった。一度視界に入ってしまったらもう視線を外すことなどできない。
 とにもかくにも、素敵だったのだ。容姿はもちろん、スーツの着こなし、身のこなし、纏うオーラ……そのすべてが。ドキドキして頬が熱くなって――そんな女性社員は大勢いたのではないかと思う。
 いつか話をするチャンスは訪れるだろうか、顔見知りになれたりするだろうか、そんな淡い想いを抱き、そこで彼が御曹司であるという現実が降ってくる。
 彼は同じ新入社員であって、でも決してそうではない存在。
 想いは自由なれど現実は厳しくほろ苦い。
 間もなく始まった入社式は、浮き足立った私の心を否が応でも引き締めてくれた。

 しかし――現実は厳しくほろ苦く、そのくせ時々思わぬ出来事が転がり込んでくる。私の浮き足立った想いは呆気なく現実となった。
 なんと私は午後からの新人研修で彼と同じグループに振り分けられたのだ。
 これには本当に驚いた。宝くじの当たりを引いたようなこの偶然に、そして、彼が私達と同じ研修を受けるという事実に。
 最初はただただ驚いて、どう捉えればいいのかどう接すればいいのかオタオタと考えてしまった。けれどいざ研修が始まって、それが無駄な心配だったことを知った。
 美作専務――いや、ここではあえてその当時からの個人的な呼び方をさせてもらう――、美作くんは周りが驚くほど普通の、私達となんら変わらない新入社員だった。
 入社前研修こそ別メニューだったけれど――御曹司だから免除されてるのかと思いきや、ロンドンでさらに厳しい研修を受けてたことを後から知った。私達はほんの数日、主に会社の規則とビジネスマナーを学んだだけ――入社式の後からは最後まで同じメニュー。同じように学んで、同じように取り組んで、同じように悩んだり喜んだり……当たり前なのかもしれないけれど、本当に本当に普通の「同期社員の一人」だった。
 でもその一方で、やっぱりこの人は特別なんだと痛感させられることも多くあった。

 入社式の時から――厳密には彼が入社するという話が広まったその時から――彼に対する周囲の感情が必ずしも好意的なものばかりでないことは、漂う空気で感じ取れた。
自分たちとは異なる世界、異なる立場に立つ人間に対する好奇心やあえての無関心。それに留まらない明白な敵対心。必要以上に距離を縮めようとする人間もいれば、これみよがしに嫌味を放つ人間もいた。
 わからなくはない。わからなくはないけれど、後味の悪い感情が胸に広がる。まったく関係ない外野から眺めているだけの私がこうなのだから当の本人はさぞかし嫌な気分だろうと、半ば同情的に彼を見やる。けれど目に映ったのは予想外の光景で、そして私の感情は置き去りにされた。
 美作くんは、まるで動じることなくただ静かにそこにいた。周囲の喧騒など、微塵も届いていないかのごとく。何も聞こえてないわけはないし、何も感じないわけもない。けれどいかなる感情も露わにせず、だからといって押し殺している風でもなく、たくさんの視線の中を颯爽と歩いてきたその時とまるで変わることなく、心の中を何一つ悟らせない穏やかな表情で静かに座っていたのだ。ゾクリとするほど美しく柔らかなオーラだけを纏って。
 どうしてそんなふうにしていられるのだろうと不思議に思う一方で、これが御曹司なのかと思い知らされた。
 そしてその日の午後から始まった新人研修は丸々三週間続き、そこで彼はみんなの信頼を勝ち得ていった。
 一言で言えば、美作くんは私達と何もかもが同じなのに、何もかもが違っていた。仕事に対する姿勢、意欲、知識、能力……姿勢と意欲はまあ脇に置いたとしても、知識と能力に関しては、とてもじゃないけれど同期入社だなんて言うのが躊躇われるくらいに差があった。
 ただ彼は、偉ぶることも見下すこともしなかった。多分もう余裕でわかっているだろうことや、時間の無駄に思えるくらい簡単なこともあっただろう。そこでさえ手こずっている私達同期に呆れたり、溜息をつきたくなることだってあっただろう。でも彼は、すべてに真剣に取り組んで決して手を抜いたりはしなかった。そして自分だけが理解して前へ進むのではなく、周りもきちんと導き高めようとしてくれた。
 そんな彼の態度が周りを変えたといっても過言ではないと思う。同じグループになった人間はもちろんのこと、それ以外の人間も、それこそ敵対心をむき出しにしていた人たちでさえ、少しずつ彼を認めて受け入れて、いつしか自然と魅了されていく。
 これが「美作あきら」という人間なのかと、私は感動すら覚えていた。

 そして私は――私も、という言い方が正しいかもしれない――、知れば知るほど彼に惹かれて夢中になった。彼と学べる毎日が楽しくて楽しくて、幸せだった。
 私は美作くんに恋をしている。
 改めて自分の心に問うまでもなく、私は彼に夢中だった。

「萌、美作くんに本気で惚れちゃってるでしょ」

 研修第一週目の金曜日の夜、一週間の反省会と親睦会を兼ねて行われたグループの飲み会の席で、グループ内で一番仲良くなった小春が私の耳元でそう言った。
 あまりにも突然のことで、そして思い切り図星をつかれて、耳まで赤くなるくらい熱くなったことを今でも覚えている。そんな私の反応に「やっぱりねー」と小春は楽しそうに笑った。

「小春は?」
「素敵だと思うよ。でも萌を見てると私のはただの憧れなんだなーって感じちゃう。つまりその程度」
「……」
「きっとライバルは星の数ほどよ。相当頑張らないとね」

 小春の言葉が私の中に深く響いて、それが現実なんだと痛感させられた。そしてそれから数分後、もっともっと厳しい現実が突きつけられた。
 出会って五日目、頑張らなければと現実を見つめ始めて数分で――私は失恋した。

 その声は、私達が座る席からほんの数席離れたところに固まっていた美作くん含む男性達の元から聞こえてきた。

「美作商事に入社出来て、同期にも恵まれて研修も順調で、今毎日がすげえ楽しいよ。あとは希望通り営業部に配属されることと、かわいい彼女をつくること!」
「小野、最後のがだいぶ生々しいな」
「生々しくたっていいだろ? 一番大事なことじゃないか。な、美作?」
「そうだな。頑張れよ、小野」
「なんだよ、その他人事な励まし方は」
「よせよせ。美作を自分と同じに考えるなよ」
「言えてる。美作と同じに考えるのは間違ってる」
「うるさいうるさい。俺と美作と何が違うってんだよ。同じ男だろうが」
「何がって、男だってことが同じくらいであとは全部違う気が」
「黙れ黙れ。なあなあ美作、おまえ彼女いる?」
「いるよ」
「……あっさり認めた」
「完敗だな、小野」
「美作、彼女は何人いるんだ? あっちこっちにいるんなら俺にも――」
「何人もいるわけないだろ。一人だよ」
「なーんだ。いっぱいいるなら一人回してもらいたかったのに……――」

 恋心はその会話で傷心に。
 同じようにその会話を聞いていた小春の「学生時代の彼女なんて社会人になったらどうなるかわかんないよね」という言葉にあの時の私は救われて、そんなに深く落ち込んだりせずに済んだ。それでも失恋は失恋、やっぱりとてもせつなかった。
 ただ私には落ち込んでいる暇などなかった。研修で与えられる課題は常に容易ではなく、土日もぼんやり休んでなんていられなかったし、とにかく毎日必死だったから。
 もちろん美作くんとも顔を合わせるわけで、最初はそれなりに心が痛んだけれど、会えることや一緒に課題を進めていく楽しみや喜びのほうが大きかった。
 そして未だに色褪せないあの日がやってくる。
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