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白き優しき世界
COLORFUL LOVE
2
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鞄の中で携帯電話が音を立てた。
つくしはその音で、ハッと我に返った。
一瞬、ここがどこで自分は何をしているのかが思い出せないくらい、昨夜の記憶へ完全にトリップしていた。
ふう、とひとつ大きく息を吐くと、軽く頭を振る。
時計を見ると、講義の始まる十五分前になっていて、ずいぶん時間が経っていたことに驚いた。

( あ、メール来たよね、今 )

鞄の中から携帯電話を取り出すと、それはあきらからのメールだった。
携帯を開いて内容を確認する。
きっと教室に着いたことを知らせてきたのだろうと思ったが、そうではなかった。


―――

件名:
本文:悪い。講義は欠席。また連絡する。

―――


つくしは画面をじっと見つめる。
短い文面を何度も何度も読み直した。
意味はすぐに理解できた。けれどどこか不自然で、釈然としなかった。
講義を欠席する理由はもちろん気になった。
でも、それよりも。

( なんか、美作さんらしくないのよね )

シンプルでわかりやすいのだけれど、いつものあきらのメールとは何か違った。
小さな疑問を抱きながら、ひとまず返信をする。


―――

件名:
本文:
おはよう。講義は美作さんの分もきちんと受けておくよ。その後カフェテリアでのんびりしてます。これといって用事は何もないので、都合着いたら連絡下さい。

―――


何かあったの?と訊きたかったが、踏み込み過ぎる気がして打てなかった。
それに、後で会えばわかるだろうとも思った。
あきらはきちんと連絡をしてくれる人だから、何かあったのならあったなりに連絡が来るだろう。
今はそれを待つ方がいい。

ほんの少し沈んだ気分は見て見ぬふりをして、パタンと携帯電話を閉じると、講義に行こうと立ち上がった。




クリスマス・イヴの講義は、出席する生徒も少なく、いつも以上に静かなものだった。
それでも淡々と話し続ける教授に半ば呆れながらもノートを取った。
あとニ十分もすれば講義が終わるところで、携帯電話が振動してメールの着信を知らせた。
あきらかもしれないと慌てて見ると、総二郎からだった。
「なんだ」と小さく呟いてから、この場に総二郎が居なくてよかったと、ひとり苦笑する。
メールには、カフェテリアにいる旨が記されていて、宛先にはつくしの他にあきらのアドレスがあった。
あきらから総二郎へは何の連絡もいっていないのだろうかと思いながら、講義が終わったら行くとだけ返信した。
つくしは携帯電話を閉じる。
再び教壇に視線を移したものの、頭の中はあきらのことでいっぱいだった。

早くあきらに会いたかった。
早く、昨夜のことを話したかった。
朝起きて支度をしている時も、大学へ向かっている時も、カフェテリアにいる時も。
そればかり思っていた。
あきらに話したところで、どうなることでもどう変わることでもない。
わかっていても、話したかった。話すまではスッキリ出来ない気がした。
講義の前に話せたらいいと思ったから、いつもより早く家を出た。

なかなか思うようにはいかないものだ。
果たしてこの後、二人きりになれる時間があるのだろうか。

( パーティーだもんねえ。……無理よね )

会ったら真っ先に、話したいことがあると打ち明けてみようか。
それともメールでそれらしきことを知らせておこうか。

( ……早く連絡くれないかなぁ。 )

つくしは携帯電話を握りしめて、ぼんやりと教壇を見つめ続けた。




講義を終えたその足でカフェテリアに向かう。
F4専用スペースの階段をあがっていくと、電話をしている総二郎がいた。
気付いて軽く手をあげた総二郎に、つくしも同じように返す。
目の前に着いた時には、電話を終えていた。

「よお」
「西門さん、一人?」
「ああ。牧野こそ一人?」
「うん」
「あきらは?」
「講義を休むってメールが来た」
「……ふーん」

僅かに眉を顰めたその表情から、総二郎も何も知らないことが窺えた。
つくしは小さくため息を吐いて、総二郎が座るソファからほど近い一人掛けのソファに腰を下ろす。

「あきら、他になんて?」
「また連絡するって」
「それだけ?」
「それだけ」
「で、連絡は来たのか?」
「まだ来てない」

ますます眉を顰めた総二郎は、携帯電話を取り出すとどこかへ電話をし始めた。
しばらく耳に当てていたが、何も話さずにピッとボタンを押してパタリと閉める。

「ダメだ。やっぱり出ねえ」
「美作さんにかけたの?」
「そう。俺、昨日の夜からメールも電話もしてるんだけど、全然返事がねえんだよ」
「そうなの?」
「うん」

腕を組んだ総二郎は、そのまま黙り込んだ。
さっきのメールの文面と言い、総二郎と連絡が取れない事と言い、やっぱり何かおかしいと感じた。
つくしは、もう一度メールしてみようかと携帯電話を取り出す。
どう打とうかと考えていると、総二郎が話しかけてきた。

「牧野さ。昨日、あれからどうした?」
「え? 美作さんに送ってもらって家に帰ったけど」
「それだけ?」
「それだけ、って……ああ、途中でスーパー寄ったけど」
「じゃなくて。あきらとはそれきり?」
「……家に上がってもらってお茶飲んで……」

つくしは曖昧に言葉を濁して視線を逸らした。
総二郎はつくしの気持ちを知っている。
ただお茶を飲んだというだけのことを話すのも、そこにあきらと二人きりの空間が存在したという事実が、ちょっと照れ臭かった。
その空間にはつくしの淡い幸せがあるから。
けれど総二郎は気にする風もなく――普段なら、からかいのひとつも言われそうだけれど――真顔でつくしを見ていた。

「それで、あきらは帰ったの?」
「帰ったよ。当たり前でしょ。帰らないでどうするのよ」
「……ま、そうだよな。あきらが彼女でもない牧野の家に泊るわけないよな」
「ちょ、ちょっと! 何言ってんのよ?」

「もうっ」と顔を赤くするつくしを見て総二郎は不敵な笑みを零す。
けれどすぐに真顔に戻り言葉を続けた。

「で。訊きたいのはその後なんだけど」
「その後?」
「あきらが帰った後のこと」

ドキリとした。
あきらが帰った後のことを訊きたいとは、一体どういうことだろう。
思わずじっと総二郎を見る。

( ああ、そっか )

けれど、それはそんなに難しいことではなかった。
この人達の情報網は侮れない、ということだ。
司が日本に帰ってきたことは、すでに彼らの耳に届いていて――いや、むしろ彼らが知っているのは当然で、つくしだけが知らなかったことなのかもしれない。

「なんだ、西門さん、道明寺が帰ってくるって知ってたの?」

だったら早く教えてよ――言い募ろうとしたつくしだけれど、その言葉よりも早く総二郎は首を横に振った。

「いや、知らなかったよ。ついさっき、類から電話もらって知った」
「そうなの?」
「そう。てことは、完全にプライベートで帰ってきたってことだ。仕事絡みなら、間違いなく俺らの耳にも事前に入って来るだろうから」
「そっか」
「で。プライベートだったら……」

総二郎はつくしをじっと見る。

「間違いなくおまえ絡みだ」
「……」
「会ったんだな、司と」
「……うん」
「そのこと、あきらには?」
「まだ。今日、会ったら話そうと思ってたの」
「そっか」

でもそのあきらは来ていない。

総二郎は気になって仕方なかった。
司がつくしに会いに行って、ただの世間話で終わらせているわけがない。
司はつくしを未だに想っている。そして司は、あきらの想いにもおそらく気付いている。
つくしと何をどう話したかは訊かなければわからないが、話しの内容によっては、その後にあきらに会いに行ってる可能性は十分にある。

( とんでもない事になっていないといいんだけど…… )

総二郎の中で警告音がピーピー鳴り響いて、煩いほどだった。
視線の先のつくしは、携帯電話を見つめていた。
あきらからの連絡を待っているのか、それとも、時折指先が動くから、何かを打とうと考えているのかもしれない。
つくしは多分、総二郎が感じている危機感みたいなものは、まだ感じていない。
その方がいい。多分感じてしまったら、居ても経っても居られなくなってしまうだろうから。

( 昨日の事、訊いてみるか…… )

場合によっては、連絡を待たずにあきらのところに行った方が良いかもしれないと思った。

「なあ、牧野」
「ん?」
「昨日のことなんだけど――」

総二郎の言葉を遮るように、つくしの手に握られていた携帯電話が鳴り出した。
ディスプレイを見たつくしは、僅かに眉を寄せる。

「あきらか?」
「ううん。違う」

そこに表示された名前は、道明寺だった。
昨夜会ってるからそれほどの驚きはないのだが、すごく意外に思えた。
なんだろう、とあれこれ考えながら通話ボタンを押す。

「もしもし」
『牧野、今どこだ?』
「え、大学だけど……?」
『誰か一緒か? 類とか、総二郎とか』
「西門さんが一緒だけど……何?」

自分の名前が出たことに反応して、総二郎はつくしをじっと見た。

『総二郎、車か?』
「車? さあ……」
『目の前にいるなら、さっさと訊け』

その声には有無を言わせない鋭さがあった。

「西門さん、車?」
「俺? そうだけど……誰?」
「道明寺」
「司?」
「うん」
「で、俺が車だと何なの?」
「わかんない」

首を振りながら、つくしは電話を再び耳にあてた。

「もしもし、車だって」
『そうか。良かった』
「ねえ、どうしたの?」
『牧野。落ち着いて聞けよ』
「何?」

ほんの短い沈黙の後、司の声が響いた。

『あきらが倒れた』

その言葉がつくしの中に浸透するまで、数秒の時間を要したと思う。
それでも上手く飲み込めなくて、心の中で小さく繰り返す。

( あきらが倒れた――……美作さんが、倒れた? )

「え、どういうこと?」
『話をしていたら目の前であきらが倒れたんだ』
「……道明寺、今どこに居るの?」
『あきらの家だ。今医者が来てる』
「……」

一体何があったというのだろう。なぜあきらは倒れたのだろう。
つくしの中がたくさんの疑問と不安で満ちていく。
心臓の鼓動がバクバクと煩い。

『医者は風邪だって言ってる。抗生剤の点滴して、あとは寝てれば大丈夫だって』
「風邪? でも昨日は風邪なんて――」
『昨日のことは知らねえけど、少なくとも今日会った時にはすでにキツそうだったんだよ。で、熱が相当高い』
「……」
『でもまあ医者は大丈夫だって言ってるから、そんなに心配するな』
「心配するなって言ったって……」
『とにかく今すぐ総二郎の車でこっちへ来い』
「行っていいの?」
『良いも悪いも、来たいだろ?』

たしかに司の言う通りだった。
すぐにでも傍に行きたいと思った。
あきらを見るまでは安心できないし、どうやっても落ち着けそうにない。
「行っていいの?」なんて、どうしてそんな事を言ったのか、つくしにだってわからない。

『牧野、心配しすぎてパニくるなよ。大丈夫なんだから。わかったな?』
「……うん」

司の声は、力強くて頼もしかった。

『総二郎に代わってくれ。おまえはすぐにそこを出る準備をしろ』
「わかった。待って」

つくしは携帯電話を総二郎に渡すと、一つ深呼吸をした。

司は何を話すためにあきらを訪ねて行ったのか。
昨日は風邪をひいている様子などなかったあきらが、どうして倒れたのか。
わからない事が多すぎる。
けれど今は、司の大丈夫だという言葉を信じているしかない。

( 大丈夫。大丈夫。 )

自分に言い聞かせながら、つくしはコートを羽織るとボタンを留めていった。
間もなく総二郎は話を終えて携帯電話を閉じた。
コートを掴んで立ち上がると、つくしに携帯電話を差し出した。

「話は聞いた。急ごう」
「うん」

二人は足早にカフェテリアを後にした。




クリスマス・イヴのせいか、ちらちらと降り出した雪のせいか、道路は思った以上に混んでいた。
思うように進まない状況にジリジリした気持ちを抱えながら、それを紛らわせるように二人は話をした。

「昨日、あきらって風邪ひいてたっけ?」
「わかんない。でもあたしは気付かなかった」
「だよな」

「咳もしてなかったよな」と続けた総二郎に、つくしは頷いた。
気付かなかっただけかもしれないし、あきらがうまく隠していたのかもしれない。
そうじゃなくて、朝になったら突然具合が悪かったのかもしれない。
こればかりは本人に訊いてみないとわからないけれど、もし昨日から具合が悪かったのだとしたら、気付いてあげられなかったことが悔やまれる。

「……にしてもあいつ、そんな具合悪くて、パーティーやるつもりだったのか?」
「ギリギリまで、何とかしようって思ってたのかな」
「あー、あり得るな」

あきらはとても優しい人だ。その優しさや細やかさは、おそらく誰にも真似できない。
夕方までに具合が良くなるかもしれないと考えていてもおかしくない。
「今日は無理」なんて言うのは、最後の最後だと思っていたのだろう。

( そんな無理しないで早く言ってくれていいのに )

あきらの優しさは、時々つくしの胸を苦しくする。
みんなが楽しみにしているから、と笑うあきらが浮かんでしまうから。
どこか根本で似ている部分のあるあきらが、次にどんな行動を取ろうとするか、わかってしまうことがあるから。

「なあ牧野」
「ん?」
「昨日、司と何話したんだ?」
「え?」
「司があきらに会いに行ったってことは……おまえが関係してるんだろ?」

つくしが総二郎を見ると、総二郎もつくしを見た。

「別に無理に話せとは言わないけど、あの超多忙な司が完全なプライベートで帰って来るって、よっぽどだなと思ってさ」

総二郎は小さく微笑んで、視線を前へ戻すと車を進めた。
少し進んで、車はまた止まる。
つくしは窓の外を見た。
走っている時よりも止まっている時の方が、雪が降っている事をより実感する。
はらはらと舞う雪が、ガラス越しにつくしの目の前を落ちていった。
窓の外を見たまま、つくしは言葉を紡いだ。

「昨日ね。あたし、道明寺にプロポーズされたの」
「……は?」

見なくても、総二郎の驚く様子が脳裏に浮かんだ。
思わずふっと笑みを零す。

「笑っちゃうでしょ? 付き合ってもいないのに。あたしと道明寺はきちんと別れたはずなのに。それなのに、開口一番『結婚してくれ』だもん。あたし驚いて、本気かって訊いちゃった」
「……もちろん、本気だよな?」
「うん。大真面目」

くすっと笑ったつくしの声が止むと、車中はしんと静まりかえった。

「全然変わってなかった。真っ直ぐ自分の気持ちを伝えてくるところも、言われたあたしが恥ずかしいくらいの言葉をさらっと言うところも。――でも大人になってた」
「大人?」
「昔みたいに財閥を捨てるなんて言えないって。責任があるんだって言い切る道明寺は、正直ちょっとカッコ良かった」
「……」
「しかも、今すぐ返事は要らないから考えて欲しい、なんて言うんだよ。相変わらず強引なところもあるし言葉はどこまでも強気なんだけど、待つことも覚えたんだ、って……なんだか嬉しかったよ」

総二郎は、つくしの話を黙って聞いていた。
司とつくしの間には、二人だけの温度がきちんとあったのだと実感する。
そこには、おそらくあきらとて入ってはいけないだろうと思った。
類とつくしが作る空間があるのと同じように、司とつくしにもきちんと空間が存在する。
しかも、元々恋人同士だった二人が作る空間は、どこか特別な気がした。
つくしはその空間やその温度をどう思ったのだろう。この先の未来をどう感じただろう。
総二郎はつくしの気持ちを知っている。
きちんと確認をして、どれほど深いものかも感じ取っている。
だから今ここで何があっても、つくしの想いや選ぶ道はぶれないだろうという自信がある。
それでも、もしかしたら、と言う気持ちが湧いてくるのを止めることが出来ずにいた。
司との事を話すつくしが、あまりにも穏やかだったから。
その時初めて、話の続きを聞くのが――つくしの出した結論を訊くのが怖いと思った。

総二郎の脳裏に、司とあきらの顔が浮かぶ。
いつでも真っ直ぐつくしを見つめる司の強い眼差しが、ずっと傍で見守ってきたあきらの優しい眼差しが、総二郎の胸を締め付けた。
どちらも大切な親友。
総二郎には、どちらの味方をすることも出来ない。
それでも、結論はひとつしかない。

「牧野、どうするんだ?」
「どうするって?」
「おまえが自分で進む道を選ぶしかねえだろ。どう転んだってそれは――」
「もう、ちゃんと返事したよ」
「――え?」

驚いたのだろう。目を見開いてつくしを見た総二郎に、つくしはコクリと頷いた。

「だって、司は考えてほしいって――」
「どんなに時間をかけたところで結論は変わらないし、同じ返事をすることになるから。だからすぐに返事したの」
「……なんて?」
「あたしは道明寺とは結婚しない、って」

つくしは、きっぱりと言い切った。
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2010.2.8 白き優しき世界
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