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白き優しき世界
COLORFUL LOVE
5
「あー……牧野、悪い」
「え?」
「携帯、取ってくれる?」
「うん、待ってね」

つくしは、あきらが指し示した窓際の机に携帯電話を取りに行き、ベッドの脇に戻るとあきらに渡す。
「サンキュー」と受け取ったあきらはすぐに開いて、「うわっ」と声をあげた。

「どうかした?」
「いや、総二郎にも類にも全然連絡入れてないなって思ってさ。さすがにメールくらいは出しておかないとって思ったんだけど……」
「けど?」
「総二郎からの不在着信とメールの数が半端じゃねえ……」

ほら。と見せてくれたディスプレイには、総二郎の名前がずらりと並んでいた。
あきらが携帯電話をチェックしたのはつくしにメールをした朝が最後。
「とにかくメールをすることしか考えてなくて、その時はあまりよく見てなかった」と顔を引き攣らせたあきらに、つくしは笑った。

「あいつ、いったい何の用事だったんだ?」
「メールに書いてないの?」
「連絡くれ、それだけ。書いてくれたらいいのに」
「あはは。そういえばカフェテリアからも電話してたよ。それは美作さんのことを心配して、だけどね。……ていうか、私がここに居る間も、何度か鳴ってたよ」
「うん。なんかわかんねえけど、応援メールが来てる」
「応援メール?」

訝しげに眉を顰めるつくし。
あきらはメールにさっと目を通し、苦笑した。

「……いや、内容はやめておこう。絶対あとで総二郎が怒られるし」
「……西門さんが、怒られるの? 誰に? 意味がわからないんだけど」
「わからないほうがいい」
「何よそれ」
「まあまあ」

なんとなく誤魔化されてしまったつくしは、頬を小さく膨らませたけれど、あきらはまるで気にしていないようで、小さく笑うだけだった。

「牧野は総二郎の車でここへ来たのか?」
「え? ああそうなの。書いてある?」
「あとは牧野に任せて俺は帰るから、って」
「うん。連絡もらった時、西門さんが一緒だったから車で連れてきてもらったの」
「連絡? うちから牧野に連絡行ったの?」
「ううん。……道明寺から」
「……」

一瞬、あきらの動きを止まり、瞳だけが小さく動いた。

「美作さん、覚えてる? 道明寺と話してる時に倒れたって」
「……ああ、覚えてる。……俺、勝手に、俺が連絡しないから牧野が心配して来たんだと思ってた。そっか。司が連絡してくれたんだ」
「うん。直接は会ってないんだけどね」
「来た時、もう居なかったのか?」
「車はあったの。西門さんが、車の中に居るだろうけど会わないで行けって言うから……だから会ってないの。西門さんは会ったと思う」
「……そっか」

あきらは小さく数度頷いて、目を伏せた。

( やっぱり、何かあったのかな。 )

つくしはずっと、使用人が話してくれたことが気になっていた。
けれどそれは、ものすごく繊細な事が潜んでいるような気がして、あきらが話すまでは何も訊かずにいようと思っていた。

( でも……、 )

常に自然体で、あまり心の揺れを感じ取らせないあきらなのに、今は少しだけ違った。
今はどこか頼りなげで、心のどこかが傷ついているように見える。
つくしは手を伸ばして、そっとあきらの手に触れた。
はっとしたように、あきらはその手をみつめ、そしてぎゅっと握った。
その手から、つくしにあきらの痛みや不安が流れ込んでくるようだった。
なぜかはわからない。
けれど、一言も言葉を交わしていない状態でも、それがはっきりと感じ取れた。
つくしは、それに気付かぬフリをすることは出来なかった。

「美作さん。訊きたいことがあるの。……言いたくなかったら、そう言ってね」
「何?」
「昨日、何かあったの? ずぶ濡れで帰って来たって……」

あきらがつくしを見る。
一瞬、空気がピンと張りつめた気がした。
繋がれた手にもう片方の手も添えて、あきらの手を包み込む。

「……聞いたんだ」
「うん。様子がおかしかった……って。心配だったって言ってたよ?」

あきらはつくしから視線を外して、俯いた。
空いている手で髪をぐしゃぐしゃと掻きまぜるあきらの顔に笑みは見えず、余計な事を言ってしまっただろうかと不安になった。
けれどやがて顔をあげると、どこかバツの悪そうな笑みを浮かべた。

「これから話すこと、最高に恰好悪いけど、いい?」
「もちろん」
「それ聞いて、好きって言ったのはやっぱりなし、とか言うなよ?」
「言わないよ。話して」
「……うん」

あきらはひとつ大きく息を吐くと、真っ直ぐ前を見てぽつりぽつりと話し出した。

「昨日、牧野の家を出て駐車場まで歩いてる途中、ストールを忘れたことに気付いたんだ」
「ああ、うん」
「別になくても良かったんだけど、なんとなく、牧野がすぐに気付いて持ってくるような気がして。もの凄く寒かったから、薄着で飛び出してきたら大変だと思って、取りに戻った」
「え、そうなの? ……でも――」
「途中まで戻ったら、案の定、階段を駆け下りてくる音がして。飛び出して来た牧野はやっぱり薄着だった。……でも、司がいた」

あの時、通りにあきらがいた事実を、つくしはその時初めて知った。
つくしは突然現れた司に気を取られて、そのまま部屋へ入ったけれど、あの時少しでも通りを見渡していたら、あきらの存在に気付いていたかもしれない。
もしそうなっていたら。

( あたし、どうしただろう。 )

司を部屋へ入れて話をしただろうか。
あきらの元へストールを届けるために走っただろうか。

( 道明寺は、どうしたかな。 )

牧野と話したいと、真っ直ぐあきらに告げたのだろうか。
そうしたら、あきらは……――。

そこまで考えて、ある可能性が頭をよぎった。
それはにわかに信じられないことで。あってはならないことで。
でも、もしそうだったらなら、すべて説明がつくことだった。

( でも、まさか。 )

そんなわけはない、そうであってほしくない。
そう思いながら、つくしは恐る恐る口を開く。

「美作さん、まさかと思うけど……」
「ん?」
「まさか、そこに、そのまま――……」

あきらはつくしを見て、ふっと自嘲気味に笑った。

「うん。ずっといた。そのまま、ずっと」

つくしの頭をよぎった可能性が、現実になった瞬間だった。
一瞬言葉を失い、それでも絞り出すように言った。

「……嘘でしょ。だって、凄く寒かったよ?」
「ああ。雨が降り出して、途中で雪に変わったよ」
「その中、ずっと? あの、コート羽織っただけの格好で?」
「うん」
「そんな……」
「俺はいったい何をしてるんだって、何回も思った。……でも動けなかった。気になって、たまらなかった」

寒くて何度もやめようと思ったこと。
電話をしよう、部屋を訪ねようと、何度も何度も思ったこと。
でも、どちらも出来なかったこと。
立ち続けるしかなかったこと。

淡々とその時の事を語るあきらに、つくしは言葉が出なくて、ただ、あきらの手を握りしめていた。

「そのうち司が出てきて、帰っていった。俺は、アパートの前まで歩いて行った」
「そうなの? あたし、ずっと部屋に――」
「でも、そのまま帰った。……なんか、部屋まで行けなくて」

「バカだろ?」と情けない笑みを浮かべるあきらに、つくしは何も言えなかった。

何をやっているんだろう、と思った。
あの寒空の下、傘もささずに雨や雪に濡れて、アパートの下から部屋を見上げて。
会いに来ることもせずにそのまま帰ったなんて。
いったいこの人は何をやっているんだろう、と思った。
そんな状況では、風邪をひいて当然だ。熱を出して倒れても、少しも不思議ではない。
下手したら、その場で倒れていてもおかしくなかった。

( どうして電話してくれないのよ )

切なかった。

( どうして部屋に来てくれないのよ )

悲しかった。

( どうして、そんな無茶するのよ )

やるせなさばかりがつくしを支配した。
けれどその一方で、つくしにはあきらの心情が理解できた。
逆の立場でも、やっぱりあきらと同じ事をするしかなかったと思うから。
昔つきあっていた――しかも婚約までしていた二人が久しぶりに顔を合わせているところへ、たとえ友人であっても親友であっても、割り込むことなど出来るわけがない。
でも好きだから、気になって仕方がないから、あきらはどうしようもない気持ちを抱えて立ち続けた。
そうするしかなかったのだ。

つくしの中に、怒りにも似た感情が込み上げる。
あきらにではない、自分自身に対して。

あの時どうして通りを見渡さなかったのだろう。
ほんの一瞬でも歩いて行った先を見つめたら、戻ってきているあきらを見つけることが出来たのに。
司が帰った後、どうして窓の外を見なかったのだろう。
きっとそこには、あきらがいたのに。
そうしたら、すぐにでも声をかけたのに。家の中に招き入れたのに。
ずぶ濡れのまま、凍えたまま帰らせたりしなかったのに。

( もっと考えるべきだった。ストールを忘れて、美作さんが気付かないわけないのに。 )

アパートの前に立ち尽くすあきらの姿が、窓を見上げるあきらの姿が、ずぶ濡れで帰っていくあきらの姿が、まるでこの目で見たように脳裏に浮かぶ。

たまらなかった。

司が帰った後の部屋で、恋の終わりの涙を拭いながら、きちんと話せたことにどこか晴れやかな気分でいた。

( 会いたいな、なんて。あたし…… )

外にあきらがいたとも知らずに。

ここへ訪ねてきて、熱に浮かされてベッドで眠るあきらを見ながら、心配と同時に安堵感も広がっていた。

( やっと会えた、なんて。あたし…… )

あきらの抱えた苦しみを知らずに。

――たまらなかった。
胸の奥がぎゅっと締め付けられて、痛くて苦しくて。
気付けば、つくしはあきらに抱きついていた。

「……え。まき――」
「ごめんね、美作さん。……ごめんなさい。」

パジャマ越しでも、あきらの身体の熱が伝わって、余計に胸が締め付けられる。
それ以上は何も言えずに、ただぎゅっとまわした腕に力を込めるしかなかった。
驚いたあきらに何度も名前を呼ばれたけれど、返事は出来なかった。
すれば涙が零れそうだった。
ぎゅっと口を結んでいると、やがてあきらの身体から強張りが消えて、それと同時にそっと頭を撫でられた。

「どうした? 牧野。何謝ってんだよ」
「……」
「こんなことしてると、マジで風邪移るぞ?」

言葉なくフルフルと首だけを振るつくし。
あきらは、ふっと笑みを零して、つくしの腕に触れた。

「……なら、もっとこっちおいで。ちゃんと抱きしめたい」

あまりにも優しいその声と腕に導かれて、つくしはベッドに腰を下ろすと、深くあきらに抱き寄せられた。
あきらの腕は力強くて、自然と鼓動が早まった。
でもそれ以上に、言葉にならない安堵感が広がった。

「良かった。抱きしめられた」
「……え?」
「さっき泣いた時、抱きしめてやれなかったから。なんだ、出来るじゃん俺って感じ。今ならいくら泣いてもいいぞ?」

ぎゅっと抱き寄せられて聞くあきらの声は、いつもより優しさを増している気がした。
つくしの気持ちを少しでも浮上させようとしているのか、その口調は二人で居る時には珍しく軽快で、その優しさを感じただけで、それだけで何かが込み上げてきそうだった。

( あー、ダメ。あたし、この人といたら泣き虫になってしまう。 )

「……バカ。」

つくしは唇を噛みしめる。
あきらは小さく笑って、つくしの髪を梳くように頭を撫でた。
もう一度ごめんねと言い募ろうとした時、つくしの心を読んだようにあきらが口を開いた。

「謝るなよ、もう。何も悪くないから」
「……」
「俺が勝手にしたことだ。カッコ悪いって笑ってくれていいんだから。な?」

言葉に出来なかったつくしの想いを、あきらはきちんと受け止めていてくれた。
つくしの心を軽くしようとするあきらの言葉は、いつだって優しい。

「……笑えないよ、そんなの」
「そうか? 総二郎に言ったら、相当笑われると思うんだけどな」
「笑ったら、殴ってやる」
「あはは。頼もしい彼女だ」
「……」

まだ慣れない「彼女」の響きが、どこかくすぐったい。
けれど照れよりも喜びが上回るつくしがいて、何とも不思議な気分だった。
回した腕にぎゅっと力を込めると、あきらもぎゅっと抱きしめ返してくれる。

「こういう日が来るなんて、感無量だよ」
「……美作さんって、案外バカね」
「今頃気付いたのか? 過去を振り返ったら、バカな行動ばかりだぞ、俺は」
「……たしかに、そうかも」
「コラ。否定しろよ。これでも精一杯カッコつけてたんだから」

笑ったら、涙が零れた。
あきらはそんなつくしに気付いて、それでも一緒に笑ってくれた。

ぽろぽろ零れる涙は拭ってくれなくていい。
切なくて悲しくて泣いてるわけじゃないから。

つくしは心から、幸せを噛みしめた。










美作邸の外へ出ると、雪はすっかり止んでいた。
かなり降り続いたのだろう。広い庭は銀世界と呼ぶにふさわしい程真っ白だった。
吐いた息は白く霞んで、冬の空へと溶けて消えた。

振り返った邸の二階、あきらの部屋から漏れる灯りに、つくしの頬は自然と緩む。
寒さに身を竦めるつくしだけれど、心はほわりと温かかった。



 *



あれからいろんな話をして、ようやく心がすっきりした頃、夕食が運ばれてきた。
当たり前につくしの分まで用意されていて――あきらにはパンプキンリゾット、そしてつくしには、パンプキンドリアをメインに、スープにサラダにデザートと、盛りだくさんだった――、全部食べきれるかなあ、なんて言いながらあっという間に平らげて、あきらに笑われた。
あきらが薬を飲むのを確認して、つくしは帰る事を告げた。
本当はそのまま居たかったけれど、やっぱり自分がいてはゆっくり休めないだろうと思ったから。――現に、一度起き上がってから、何時間も横になっていなかった。
「また明日来るね」とつくしが言うと、あきらは何も言わずに頷いた。

帰り際、ドアを開けたところで呼び止められて振り返ると、あきらは優しい顔で、真っ直ぐにつくしを見て言った。

「遅くなったけど。メリークリスマス」
「……うん、メリークリスマス」

微笑み合ったらホワンと幸せが広がった。
そのまま部屋を出ようとしたら、もう一度呼びとめられた。

「夜中、目が覚めて声が聞きたくなったら、電話してもいいか?」

先程感じた幸せの上に、愛しさが広がる。
つくしがうんと頷くと、あきらは目を細めて微笑んだ。



 *





思い出すだけで、自然と唇が緩やかに弧を描いてしまう。
あきらとつくしの間には、温かくて優しい空気が流れ続けていた。



見上げた空はすっかり晴れ上がり、三日月が浮かんでいる。
その淡き光に照らされて、つくしは一歩、また一歩と踏み出す。

まだすべては始まったばかり。
つくしが進む世界はまだ真っ白で、優しさだけが満ちている。
Fin.
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