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曖昧色の夜の向こう
COLORFUL LOVE
2

「はあああ」

 用を済ませ化粧室を出たつくしは、ロビーのソファに腰を下ろした。
 今まで経験したどれよりも規模が大きく人数も多い今夜のパーティーに、つくしはいつも以上の疲労を感じていた。
 入れ替わり立ち替わり目の前に立つ人々に笑顔を絶やさずいるのはとても大変なことで、顔の筋肉が今にも攣りそうだった。

 ――別に大した話もしないのに、こんなに大変だなんて。

 相手に応じた会話をし、スマートに対応するF3を改めて尊敬してしまう。これが、この世界で生きることを宿命として育ってきた者と、そうでない者の違いなのか。
 昔ほど卑屈な考えは持たないようになったつくしだが、こんな時ばかりは「所詮あたしは」とその違いを痛感せざるを得なかった。

「はああああ」

 ソファの背もたれに身体を預けて大きく息を吐くと、溜まっていた緊張感や疲労感が外に抜けていく気がして、少しだけ楽になる。楽になったら、誰にも言わずに出てきたことを思い出した。
 きっと中であきらが心配しているだろう。つくしを探してキョロキョロと会場を見渡すあきらの姿が脳裏に浮かぶと、唇の端が自然と上がる。

 ――そろそろ戻ろう。

 つくしは気合いを入れてソファから立ち上がると、一歩足を踏み出した。
 ふいに声をかけられたのは、その直後だった。

「あら? もしかして、牧野さん?」
「え?」

 基本的に上流階級の人間ばかりで構成されているこのような場所に、つくしの知り合いはいない。当然、声を掛けられることなどほとんど皆無。
 一体誰が自分を呼んだのだろう、いや、自分ではなかったかもしれない、とつくしは半信半疑で声のした方を振り返る。
 するとそこには、綺麗に着飾った女性が数人立ち、つくしを見ていた。

「やっぱり牧野さん」
「うわぁ、お久しぶり」

 笑顔で親しげに話しかけてくる女性達をよくよく見れば、それは英徳時代の同級生だった。しかも、つくしにとってはあまり良い印象のない顔ばかりが並んでいる。

「ずいぶん着飾ってるから、全然気付かなかった」
「ホント。学園にいた頃とは全然印象が違うわねえ」
「本当に」
「おきれいよ、牧野さん」

 言葉も表情も、やけに愛想がいい。けれど、いかにも今気付きましたと言わんばかりの甲高い声は、胡散臭さが全面に出ていて、本当はずっと前から気付いていただろうことが察せられた。
 大体にして、F3と行動を共にしているつくしに気付かないはずはない。望む望まないは別にして、彼らといることによっておのずと自分も目立ってしまっていることは、つくし自身理解している。彼女達の言葉をそのまま鵜呑みにするほど、無知ではないのだ。
 大人な女性として対応するならば、「久しぶりね」と笑顔を向ければいいのだろう。けれど過去の印象が悪いだけに、必要以上に警戒してしまっているつくしは、無意識のうちに無言で後ずさっていた。
 そんなつくしのことなどお構いなしにグイグイ近づいてきた彼女達は、ついにつくしを囲むように立ち塞がった。

「ずいぶん素敵なドレスね。一体どなたが用意してくださったの? まさか、牧野さんご自身でってことはないわよね」
「それは無理よぉ。庶民の牧野さんがそう簡単に用意出来るものではないわ」
「たしか、道明寺さんの次は美作さんとお付き合いしてたわよね。しかも未だに続いてるって噂で聞いたわよ。卒業しても続いてるなんて、凄いわねえ」
「ほーんと、びっくりよね。庶民の根性って凄いのね。どんな手を使って繋ぎ止めているのかしら」
「いいわよねえ。こーんな素敵なドレスまで仕立てていただけるんですもの」

 次から次へと放たれる言葉は、どこもかしこもトゲだらけ。嫉妬心剥き出しで悔し紛れに感情をぶつけられていることは百も承知のつくしだが、容赦ない攻撃はガードしきれるものでもない。胸の奥にチクチクとした痛みを感じて、思わず小さなため息を吐いた。

 ――あたしにだってあたしなりの事情があるのよ。何にもしらないくせに。

 ドレスを用意してくれているのは、あきらとあきらの母親だった。
 特に大張り切りなのは母親で、パーティーのたびにドレスを新調しようとする。つくしは恐縮することしきりで、一着あれば充分だと何度も言っているのだが、それを聞き入れてくれることはほぼ皆無。それどころか「これは同行しているあきらくんのためでもあるのよ」と諭されてしまい、それ以上は何も言えず、ならばせめてものお礼にと、時間がある時にはあきらの妹達の遊び相手を申し出た。もちろん、そんなことでチャラになるはずもないことは、わかり過ぎるほどわかった上で。
 けれど、母親も妹達もその申し出をとても喜んでくれて、そのお礼にとランチやディナーに度々招待してくれる。お礼にお礼されてはどうしようもないというのに。
 困り果ててあきらに相談したら、「暴走し過ぎだと思ったらきちんと止めるから、好きにさせてやってくれよ」と苦笑いで返された。
 あきらにしてみたら、つくしの気持ちもわかるが、母親の気持ちも理解出来るのだろう。つくし的には既に暴走気味に思えるのだが、あきらがそういうのだから、とひとまず自分を納得させた。
 美しいドレスや高価な装飾品を身につけて綺麗に着飾ることは、女性として楽しいことであるし幸せなことでもある。つくしだって例外ではなく、人並みの高揚感は感じる。けれど、自分の出来る範囲でいいという極々庶民的な考えのつくしにとって、今の状態は心の底から晴れやかに胸を張れるものでもない。
 それでも甘んじて受けているのは、あきらやあきらの母親の優しさに応えたいからで、今のつくしではこうしたパーティーに見合う装いをすることが不可能だから。
 けれどそんなつくしの想いは、上流階級に生まれて何不自由なく育っただろう彼女達には到底分かってもらえないだろう。

 ――この人達にわかってほしいとも思わないけど。

 ニッコリ笑顔で「こんな庶民のことなんて放っておけば?」と言い放って颯爽と去ることが出来たなら、どれだけスッキリするだろうか。でもそんなことを言ったら最後、もっとえげつない言葉を吐かれて、それはだんだんヒートアップして、ちょっとした騒ぎになってしまうだろう。
 場所が場所だけに、それは避けたかった。
 となれば、そうならないための対処方法はたった一つ。
 相手にしないこと。
 これしかないと、つくしは、何一つ言葉を発しなかった。
 けれどそれは間違いだったのだろうか。彼女達の言葉がエスカレートし出した。

「まさか、セレブな方々と一緒にいるからって、自分もそうだなんて思っていないわよね? あなたはただの貧乏人よ。それが現実だってこと忘れないで」
「そうそう。どんなに着飾っても、貧乏臭さは消えないわよ」
「不思議ね。こんなに綺麗なドレス着てるのに、貧乏臭いって」
「美作さんも、他の方にどう思われているのか、もう少し考えたらいいのに」

 聞き捨てならない言葉に、心臓がドクンと跳ねた。
 それは、つくし自身がわかりすぎるくらいわかっていることで、一番気にしていて一番不安に思っていること。
 相手にするまいと決めている心が揺れ動く。
 最近、そんな言葉を直接ぶつけられることがなかったので、油断していた。
 つくしは、俯いて唇を噛む。

 自分を連れていることであきらに恥ずかしい想いをさせたくない。
 自分のことで迷惑をかけたくない。
 つくしはいつだって、当たり前にそう思っている。そうならないように努力もしているつもりだ。
 けれど、それはやっぱり無駄なことなのだろうか。
 努力ですべてを変えられるわけではない。けれど努力した分くらいは認めてもらいたいのに。それでもなお、あきらに迷惑をかけてしまっているのだろうか。
 つくしの中で常に存在する不安がダイレクトに反応して、騒ぎ出した。
 ――あたしが庶民なのは今さらどうしようもないこと。そんなこと美作さんだって承知の上よ。
 強気な心が必死になって自分を鼓舞する。
 けれどなかなか上手くはいかない。わかっていても、やりきれない。
 こんな時に言い返す言葉を、つくしは持ち合わせていなかった。
 これが学校でだったら、街で偶然出会ったなら、開き直ることも出来る。関係ないと切り捨てることも。けれど、こういう場でのつくしには、まだまだ自信がなくて、外には出さないようにしてはいるものの、怯えてオドオドする自分が確実にいた。
 それが全面に出て、余計に言葉が出てこない。もういっそのこと帰りたいとさえ思う。

 ――ああ、もう嫌だよ。

 深い深い溜め息を吐きそうになった時、また別の言葉が降ってきた。

「そういえば牧野さん、美作商事の子会社に就職したのよね?」
「……へ?」

 集中して聞いていなかったせいで何を言われたのかきちんと理解出来ずにいると、もう一度同じ言葉が投げかけられる。きちんと一度で聞き取りなさいよと言わんばかりに。

「牧野さんて、美作商事の子会社に就職したのよね?」
「ああ。うん。そうだけど」
「それも美作さんに頼み込んだの?」
「え、違うけど」
「やだ、隠すことないのよ? 別にいけないことではないんだから」
「隠してるわけじゃなくて本当に違うの。あたし、美作さんとこの子会社だって知らずに受けたから」
「えー。それは嘘よ。知らないわけないわ。自分で受ける会社のことはそれなりに調べるのが常識でしょう?」
「そうなんだけど、でも知らなかったのよ、本当に」
「それで受かったっていうの? あり得ないわよ。だってあの会社、採用基準が結構厳しかったはずよ? 私の知り合いで不採用だった子がいるわ。家柄も性格も良い子なのに」
「やだ、それってもしかして、牧野さんが採用されたから枠がなくなったんじゃないの?」
「え、だからあたしは――」
「あり得るわよね。だって、親会社がどこかを調べてないような人が受かるわけないもの。やっぱり美作さんという絶大なコネがある人は圧倒的に有利よ」
「美作さんに言われてしまったら、採用担当者だって無視できないわよね」

 女性達は完全につくしがあきらのコネで入ったと決めつけていた。
 つくしは、ぎゅっと拳を握る。
 やはりこの日が来た。――それは、つくしがずっと危惧していたことだった。


 つくしは就職先を探す時、F4に関係する会社を徹底的に避けた。
 日本でも有数の大企業なだけあって、関連会社が異常に多くて、そこを避けていくのは本当に大変なことだった。
 けれど、どうしても譲れなかった。
 そこに入れば、必ずコネだなんだと言われるし、仕事で失敗した時に彼らに迷惑がかかってしまう可能性もある。
 そういうのは絶対に嫌だったから。
 そんなことを気にする必要はないのだろうし、どんな形であれ採用されたら堂々と胸を張っていればいいことなのだろうけれど、つくしはつくしなりに考えた上で自分にそのハードルを課したのだ。
 それはもしかしたら、彼らと少しだけ対等になりたいという意識だったのかもしれない。
 けれど結果的に、つくしが就職を決めた会社は、美作商事の子会社だった。
 つくしはその事実を、内定をもらえたことをあきらに報告して初めて知った。
 何にも知らなかったつくしは本当に驚いた。
 たくさん調べてから受けたはずなのになんで見落としたんだろう、とあまりの間抜けさに落ち込んだつくしに、「気付かなくても不思議はないよ」と言ったのはあきらだった。
 募集要項や採用試験で親会社の名前を出すことをしていない子会社だから、知ってて受ける人間は、それこそコネでもない限りほとんどいないはずだ、と。
 その場に一緒にいた類が「そういう子会社はうちにもあるよ」と言って、「あきらのところを引き当てるとは、さすが牧野」と総二郎が笑った。
 けれどつくしには笑い事ではなく、とんでもないところを選んでしまったと思った。
 きっといつか、望まない形の情報が流れていくだろうと、そのことで面倒なことを言われる日がくるだろうという思いが過ぎった。
 もう一度他の会社を探そうかとも考えた。
 けれどつくしは、その会社をとても気に入っていて、そこで働きたかった。
 コネでもなんでもなく、自分自身を評価してもらえたことが嬉しかった。
 そして何より、あきらが心から喜んでくれたことが嬉しかった。
 就職が決まったらそれがどんな会社でも喜んでくれるだろうし、応援してくれるだろうことは予想していた。でもそれが偶然にも自分のところの子会社だったという事実は、想像以上の喜びをあきらにもたらし、本当に本当に心から喜んでくれて、見てるだけでつくしの喜びが増した。

 だから、つくしは自分に誓ったのだ。
 誰に何を言われる日が来ようとも、胸を張っていよう。誰よりも努力して、誰よりも真面目に取り組んで、採用して良かったと思ってもらえるように頑張ろう。
 つくしはその誓いを胸に、ずっと真摯に仕事と向き合ってきた。
 何を言われても堂々と胸を張っていればいい。真実はきちんとここにあるのだし、心構えだってしてあるのだから、と。

 けれど、いざその瞬間がくると、やっぱり心穏やかではいられなかった。
 胸の奥がざわつく。先程からのことが蓄積されているせいか、そのざわつきは必要以上に大きくなっていく。
 それでも、なんとか冷静さを保って口を開いた。

「採用されなかったその人は残念だったと思うし、なんで不採用だったのかはあたしにはわからない。けど、あたしは本当にコネで入ったわけじゃないの」
「まだ隠すの? そういうところがムカつくのよ」
「ムカつくと言われても、これは本当だから」
「言い切れる? あなたが知らないだけかもしれないでしょう?」
「……どういうこと?」
「あなたが知らないだけで、美作さんがあれこれ手を回してくれた可能性もあるってことよ」

 胸のざわつきは、大きなうねりへと変わりつつあった。
 つくしの中で、何かがぷつりとキレそうだった。

「そんなこと――」
「それはないな」

 突然、少し離れた所から声が割り込んで来た。
 全員の視線が一気にそちらへ向けられる。
 そこに立っていたのは、あきらだった。

「み、美作さん!」

 驚いて声を上げたつくしに、あきらは小さく微笑むと、颯爽と歩み寄ってくる。

「牧野の採用に俺は何の関与もしてないよ。受かるまで秘密だって言って、どんなに聞いても教えてくれなかったから、俺は知る術もなかったんだ」
「え……、そう、なんですか?」
「そうだよ。それに、あの会社の社長は、チャンスは誰にでも平等だって考えの人だから、コネ採用はしないんだ。裏から手を回したらその時点でアウトだよ。キミの友人が不採用だったのは、その会社に向かないと判断されたからだろう? それは誰のせいでもない」
「……」
「俺は会社の採用不採用は、能力だけがすべてじゃないと思ってる。一番大切なのは相性だから。どんなに能力があっても、社風に合わないとか周囲と波長が合わないだろうと判断されたら採用されない。ダメだった時は、縁がなかったんだと諦めて、自分に見合う会社を見つければいいだけだ」

 あきらの口調は実に穏やかで、女性達を惚けさせる。
 そのうちの一人が、鼻にかかった甘ったるい声をあげた。

「さすが美作さん。そんな風に考えたこと、ありませんでした。そのお話、友人に伝えておきます。きっと傷ついた心も癒えると思います」
「伝えるのはご自由に」
「美作さんは、本当にお優しいですね」
「そんなことないさ」

 あきらはつくしの横に立つと、そっと彼女の肩に手を回した。
 そして、その様子に目を見開く女性達に言い放った。

「要するには、そんなくだらない事で牧野に因縁つけないでほしいってこと」
「……」
「もう学生じゃないんだ。バカなことばかり言ってると人間性を疑われる。こういうパーティーで、自分に見合うパートナーを探してるヤツが大勢いることは知ってるよな? 社交界の男達は世間の評判を気にするヤツが多いから、案外よく観察してるってこと、忘れないほうがいい。今のこの状況、中で噂の的だぞ? 一秒単位で自分達の評価が落ちていくことを考えたほうが身のためなんじゃないか?」

 あきらの言葉に、女性達の顔から一気に血の気が引いていくのがわかった。
 その口調はとても優しいけれど、その内容は相当キツい。
 女性達は、蜘蛛の子散らす勢いで会場内へと戻っていく。
 つくしはそれを、ただ茫然と見つめていた。

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