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曖昧色の夜の向こう
COLORFUL LOVE
4
 部屋の前へ着いた時、ようやくあきらが振り向いた。
 その瞳はつくしの顔を捉えてすぐに、色を変えた。

「牧野、どうした?」
「え?」
「ここに泊るの、嫌だったか?」

 なぜ突然そんなことを言われるのか、つくしにはわからなかった。
 もやもやと曖昧な想いを抱えてはいたものの、あきらと一緒にいられることはとても嬉しかったし、一緒にいたいと思っていたから。

「ううん。なんで?」
「……あんまり嬉しそうな顔してないし」
「え、そんなこと――」
「不安そうっていうか……元気もないし」

 おそらくつくしは、自分で思ってる以上に不安を露わにしてあきらの背中を見つめていたのだろう。
 そしてあきらは、そんなつくしの表情にひどく驚いた。
 まさか、そんな顔をしてついてきているとは思っていなかったから。

「勝手に泊ることにしてたけど、なんか用事とかあった? 持ち帰りの仕事があったとか。それとも、そんな気分じゃない? 嫌なら無理することない。家まで送るぞ?」

 気遣わしそうに言葉を投げかけてくるあきらに、つくしはフルフルと首を横に振る。

「じゃあ、具合悪い? あ、おまえその格好だもんな。寒かったか?」

 ごめん気づかなくて、と仕立てのいいタキシードの上着を脱ごうとするあきらの手を、つくしはそっと掴んだ。

「平気、寒くないし、具合悪くもない」
「じゃあ……」
「美作さん」
「うん?」
「疲れてるの?」
「……ああ、まあ多少は。でも俺は大丈夫だよ。なんで?」
「部屋、どうして取ってたの?」
「え?」
「それに、さっきの言葉の意味もよくわかんない。だから余計に心配、って……あれ、どういうこと?」
「ああ……あれは――」
「ごめんね、あたし」

 答えようとするあきらの言葉を遮って、つくしは言葉を重ねた。

「あたし、頭がよく回らないっていうか。なんか、どれもこれも上手く理解出来てなくて」

 膨れた不安が制御不能となってどくどくと流れ出ていた。
 どこか冷静でない自分を感じる。でもどうにもできない。
 あきらはそんなつくしをじっと見つめて、そして頷いた。

「わかった。とにかく部屋に入って、中でちゃんと話そう。――あ、でもその前に」
「その前に?」
「思いっきり抱きしめさせて」

 え、と固まるつくしに、あきらは目を細めて微笑むと、スッとカードキーを差し込んだ。
 小さな音と共に鍵が開く。
 素早く部屋の中へと導かれたつくしは、あっという間に抱きすくめられて、その腕の中でパタンとドアが閉まる音を聞いた。

「あっ……」

 予想以上の勢いと腕の強さに、つくしは思わず小さな声を漏らした。
 きつくきつく抱きしめられたつくしの耳元に、あきらの深い吐息が吐き出される。

「あー、やっとホッとした」
「え?」
「今日のおまえのドレス。それやばい」
「え、なんか変?」
「違う、逆。似合い過ぎ」
「な、何それ?」
「何って、思ったことそのまんま。家でも言っただろ? すっげえ似合うって」

 たしかに言った。
 美作邸で支度を整えてもらったつくしを見たあきらは、一瞬目を見開いてじっと見つめると、すっげえ似合ってる、と微笑んでいた。
 つくしは「ありがとう」とは言ったものの、いつでもそうやって褒めてくれるあきらだから、いつもと同じつもりで捉えただけだった。

「色もシルエットも、牧野にぴったり。会場に居る間中、気が気じゃなかったよ」

 髪に小さなキスを落としながら囁くように話すあきら。
 心地良いくすぐったさがつくしの心をゆるゆると解く。
 なぜか鼻の奥がツンとして、涙が出そうになった。
 それと同時に、未だ痛むトゲの痕が剥き出しになった気がした。
 卑屈なつくしが顔を出す。

「いいよ、気を遣ってくれなくても」
「気なんて遣ってないよ。本当にそう思ったから言っただけ」
「いいんだってば。あたし、自分で自分のことわかってる」
「自分のこと?」
「どんなに綺麗に着飾ったところで、結局あたしは庶民だもん。お金持ちの家で生まれ育った人達のようには振舞えないし、やっぱりその違いは見た目にだって出るよ」
「なんだよそれ」

 あきらはそんなことは何一つ言っていない。
 でもつくしの中で刺さったトゲの痕がじくじくと痛んで、そこから逃れることが出来ない。
 ガラス窓に映った自分の姿が思い浮かぶ。シンデレラとは程遠い、魔法がかからない普通の自分。
 ドレスが似合うなんて、そんなこと以前の問題だった。

「これでも努力はしてるの。もちろんこれからだって努力する。せっかく美作さんが連れてきてくれるんだもん。出来るだけ胸を張って自信を持って隣に立っていられるように、美作さんがあたしを気にすることなく仕事の話とかに集中出来るように、あたしはあたしなりにいろいろ勉強して身につけていきたいって思ってる。……でも、やっぱり生粋のお嬢様のようには振る舞えない」
「……牧野?」

 ――何を言ってるんだろう、あたし。

 きっとあきらは戸惑っているだろう。
 つくしだってこんなことを話したいわけではない。
 けれど、言葉が止まらない。

「いつかあたしのせいで、美作さんに恥をかかせるかもしれない。あたし、どこかで絶対ボロが出ちゃう。でも、自分じゃどうしようもない。そのことで迷惑かけたりしたら本当に申し訳ないけど、あたしはあたし以外にはなれないから。だから、もしそれが嫌なら、あたし、きっと無理だから、だから、えっと……」

 着地点などどこにもない。
 あきらに不釣り合いだと思ったところで、彼の隣に居ることをやめられるのかと言われたら、そんなことはきっと出来るはずもない。
 じゃあどこまで頑張るんだと問われたら、それもよくわからない。
 つくし自身、何を言いたいのか、何をどうしたいのか、よくわからない感情に包まれている。
 勝手なことを勝手に言い出した上に着地点もないというお粗末な状態に、つくしは続ける言葉を見失い、口ごもった。
 どう言葉を続ければいいのか、考えたところでなにも出てこない。
 思わず黙り込むと、つくしをきつく抱きしめていたあきらの腕が、ついに緩んだ。

 ――あ、呆れられた。

 咄嗟にそう思った。
 このままあきらの身体が離れていって、「何言ってんの?」と冷ややかな目を向けられるだろう。
 溜め息を吐かれて、「そんなこと思ってるならもういい」と冷たく突き放す声で言われるだろう。
 もうすぐ襲い来る喪失感に構えるように、つくしは身を固くした。
 けれど――。

「なあ、牧野」

 それは単なるつくしの思い込みで、あきらの声は優しく響いた。
 つくしを抱きしめていた腕は、離れていくのではなく、両肩を優しく支えられた。
 そしてつくしの顔を覗き込んだあきらの瞳は、冷ややかとは程遠く、心配の色が滲んでいる。綺麗な眉間が顰められ、真剣な眼差しでまっすぐつくしを見つめてきた。

「何があった? さっき、何を言われた?」
「……」

 じっと見つめられ、つくしは思わず目を逸らした。
 言われた内容を話せば、すべて理解してくれるだろうことはわかっていた。
 あきらはきっと優しく抱きしめて、彼が思う事を彼なりの言葉で優しく伝えてくれる。そんなことはない、気にするな、そう言って頭を撫でてくれる。
 つくしは、あきらの温もりに掬いあげられる。

 ――わかっていた。
 わかっていたけれど、今はどうしても言われたことを口にするのが嫌だった。
 口に出した途端、その言葉は威力と真実味を増す。
 それは言われた時よりも何十倍も鋭く尖ってつくしを襲い、それによって傷ついてしまう事を知っているから。
 言われた直後よりもどんどん自分の中に沁み渡って、前を向き切れない臆病で卑屈で曖昧な感情を広げているその言葉を、今ここで口にする勇気はない。

 つくしは黙って、ただ首を横に振った。
 それをあきらが、何でもない、と捉えたか、言いたくない、と捉えたか。
 あきらはそれ以上訊こうとはせず、暫く黙ってつくしを見つめていた。
 やがて、あきらは小さく息を吐き、つくしの肩に置いていた手をゆっくりと頬に滑らせると、柔らかに包み込んだ。
 長い指が優しくつくしの頬を撫で、それから俯く顔を上へと向けさせる。
 二人の目がしっかりと合うと、あきらはゆっくりと言葉を紡いだ。

「俺が、牧野にいてほしいんだ」
「……」
「誰がどう見るとか、どう感じるとか、そんなこと全然関係なくて、ただ俺が牧野を望んでいて欲している。牧野は俺に心底望まれて、ここにいる」
「……」
「……それだけじゃ、ダメかな?」

 見つめたつくしの瞳が、ゆらりと揺れた。

 あきらは何も訊かなかった。
 首を振ったつくしが、何かを抱えていることは明白で、その上で口を噤んでいることがわかっても、無理に訊き出そうとはしなかった。
 けれど、ならいいや、と投げ出したりもしなかった。
 俯き黙るつくしからは、言葉として紡がれるよりもずっとずっと深い感情が読み取れるから。
 不安に飲み込まれそうなつくしが、そこにはっきり見えるから。
 ゆらゆら揺れるその瞳が、いつでもそのすべてを語ってくれることを、あきらは誰よりもよく知っている。
 あきらは小さく微笑むと、言葉を続けた。

「俺は牧野に、社交辞令の褒め言葉は言ってないつもりだよ。綺麗だって思うから綺麗だって言う。似合ってるって思うから似合ってるって言う。今日のドレスは、牧野に凄くよく似合う。みんながじろじろ見るんだろうなって心配してたら、案の定、類と総二郎が俺に言ったよ。あれは誰の見立てだ?凄くよく似合ってるな、って」
「……」
「やっぱりそう思うよなって、ますます心配になった。見せびらかしたいのに、隠したくて、自慢したいのに、誰にも知られたくなくて。早く連れ出して、独り占めしたいって思った。それくらい、本当に綺麗で、ドキドキした」

 あきらはつくしの全身を確かめるように見つめて、もちろん今もドキドキしてる、と笑った。
 つくしはその笑顔がとても嬉しかったけれど、なんだか恥ずかしくて、思わず俯いた。

「それは、美作さんや美作さんのお母さんのセンスがいいからだよ。いつも素敵なドレスを用意してくれるもん」
「でも、それを着こなしてるのは牧野だろ?」
「着こなせてるかどうか――」
「こんなに似合ってるのに着こなせてないなんて言ったら、このドレスは誰にも着こなせないよ」
「そんなことないよ」
「あるさ。人によって合うドレス合わないドレスってやっぱりあるから。このドレスは牧野にぴったり。俺の想像以上だった」
「でもいつも美作さんは、似合うって言うじゃない」
「だって、いつも似合ってるから。俺は、牧野に似合う物しか揃えないし、そこは自信があるんだよな」
「……何よ、それ」

 口を尖らせたつくしに、あきらはアハハと笑った。
 でも、本当にそうなんだろうと思うと、それ以上何も言えない。
 つくしのために用意しているドレスは、自分のところで扱っている商品なのだと言っていた。
 その中から、つくしに似合うものを選んで、つくしにフィットするように仕立て直してくれている。
 ふわふわの砂糖菓子のようなあの母親が取り仕切っている割に、いつでもデザインはシンプルで動きやすく、色も形もつくし好み。
 あきらくんがなかなかオッケーしてくれないのよね、と母親が愚痴を零した時、そこにあきらが深く関わっていることを知った。

「美作さんは、あたしよりもあたしに似合うものを知ってるんだよね」
「そうか? でも、そんなもんだよ。自分じゃわからないことってあるだろ?」
「そうかもしれないけど」
「自分に似合うものを身につけていると、自然とそれが普通になって、だんだん自分でもわかってくるよ」
「そうかな」
「そうだよ」

 あきらは頷いて、優しく微笑んだ。
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