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曖昧色の夜の向こう
COLORFUL LOVE
3

「大丈夫か?」

 労わるようなあきらの声がして、ふと隣を見上げると、そこにはつくしを見下ろす瞳があった。

「いないから心配したよ」
「あ、ごめん」
「探しにきて正解だったな」
「ごめんね、黙って出てきて」
「それはいいけど。大丈夫? 何かひどいこと言われなかった?」

 つくしはほんの一瞬考えて、首を横に振った。

「大丈夫。でも助かった。あたし基本がお淑やかじゃないから、危うくキレて大騒ぎにしちゃうところだった」

「それこそ中にいる人達に人間性疑われちゃうよね」と笑ったつくしをあきらはじっと見つめ、それから優しく微笑んで、ソファに腰を下ろした。
 長い脚をさりげなく組み、髪を掻きあげるあきら。端正なルックス、表情や話し方から伝わる柔らかさや穏やかさ。
 こういう場でのあきらは、見慣れているはずのつくしでも思わず見惚れてしまう程、いつも以上にその魅力が引き立つように思えた。

 ふと、窓ガラスに映る自分が視界に入る。
 ――「どんなに着飾っても、貧乏臭さは消えないわよ」
 ぶつけられた言葉がつくしの中に木霊する。
 それを言葉通りに受け取るのもどうかと思うが、まったくの出鱈目とも言えない、とつくしは思う。
 育ちの違いは些細な仕草ひとつとっても明白で、どんなに着飾ったところで素材までが変わるわけではない。窓ガラスに映る自分は、綺麗なドレスを身に纏った自分でしかない。決して、魔法にかかったシンデレラではないのだ。

 ――釣り合わないことくらい、よくわかってるわよ。あたしが一番信じられないんだから。

 つくしは、どこからどう見ても完璧なあきらの隣に自分がいることが、時々ふと信じられない気持ちになる。
 司と付き合っていた時にももちろん同じように感じたことはあるのだけれど、司との時間は、いつだってジェットコースターに乗っているように激しくて、そういうことをゆっくりと考えている暇もなかった。
 それに比べると、あきらとの時間はいつだって春の野を歩いているように穏やかで、ほんの少し風が吹いて数枚の葉が舞っただけでも、その景色の違いに心を揺すられる。
 ゆっくりと考えながら前へ進めると同時に、余計なことを考えてしまう面もある。
 そしてまさに今が、その時だった。

 ――あたしがこの人の隣にいて、大丈夫なのかな。

 それはバカげた考えなのだと思う。そんなことを思うことは、あきらに対しても失礼なのだと思う。
 けれどそれでも考えずにいられないつくしがいて、そんな自分が小さくて惨めな存在に思えた。
 知らず知らずのうちに溜め息が零れる。

「どうした?」
「え?」

 ハッと我に返ると、ソファに座ったあきらがじっとつくしを見つめていた。
 隣に座るわけでもなく何か話すでもなく、ただ立ち尽くして溜め息を吐くつくしを、あきらが不審に思わないわけがない。
 今更どんなに何でもないと取り繕ったところで、それをそのまま信じてもらえるはずがなかった。
 でも、つくしは知っている。

「なんでもないよ。ちょっとぼうっとしちゃった」
「……そっか。疲れたよな。いつにも増して人が多いし」

 なんでもない、というつくしの言葉を、あきらが頭から否定したりしないことを。その言葉がどんなに矛盾していると思っても、何かを隠していると察したとしても、その言葉を口にしたつくしの気持ちを尊重してくれることを。
 そうだね、と笑みを浮かべたつくしに、あきらは優しく微笑んだ。

 ――本当に優しい人。いつだって。

 あきらが優しいから、つくしは言いたくない事を無理に口にせずにいられる。
 あきらが優しいから、つくしはバカな考えを自分の奥深くに押し込めることが出来る。
 あきらが優しいから、いつも胸の奥がじりじりと痛い。

「牧野だけじゃなくて、俺もどっぷり疲れたよ」
「そうなの?」
「なんだか今日はやたらと挨拶が多くてさ」
「あー、専務になったからじゃない?」
「それはあるかもな。たかが肩書、されど肩書だ。……てことで、パーティーはもうおしまい」
「え?」
「牧野、抜け出すぞ」
「……ええ?」

 あきらはにっこり笑って立ち上がると、つくしの手を取り歩き出した。

「え、ちょっと美作さん! クロークに預けた荷物――」
「そんなの後でどうにでもなる」
「え、どうにでもなるって」
「いいからいいから」

 あまりにも突然のことで、手を引かれるままついて行くしかないつくしだが、目の前を歩くその背中と繋がれた手の温もりに、大きな安心感を覚えていた。
 胸の奥がじりじりと痛い時は、この優しい人だけを信じて、この温もりだけを感じていればいい。
 それだけで、いつしか痛みが消えていくことを、つくしはきちんと知っている。
 繋がれた手をそっと握り返すと、あきらは振り向いて、柔らかに笑った。




 エレベーターホールに着いてすぐに乗り込んだエレベーターは、つくしの予想に反して、上の階へと向かっていた。

「ねえ、美作さん。これ、上に向かってる?」
「ああ」
「帰るんじゃないの?」
「今日は帰らない」
「え?」

 今の現状も言葉の意味もまったく把握できないつくしが訝しげな表情を浮かべると、あきらは胸元から一枚のカードを取り出した。

「それって――」
「カードキー。上に部屋を取ってるんだ」
「へ、部屋?」

 あきらは頷き、カードキーを指先で器用にくるりと回した。

「ほら、これから年末はますます忙しくなるだろ?」
「年末? あー……うん、そうだね」

 たしかに去年のこの時期、あきらはひどく忙しい毎日を送っていた。
 連日連夜、仕事だパーティーだと慌ただしいあきらに、二人が会う時間は極端に減った。
 去年のつくしはまだ学生で時間に余裕のある身だったから、どうしようもないとわかっていても、会いたくて一緒にいたくて、寂しさを抱える瞬間が多かった。
 膨れすぎた寂しさがつくしの心を蝕み、最後にはあきらに暴言を吐いた。
 しかも最悪なことに、その翌日からあきらは海外出張に行ってしまい、謝ることも気まずさを解消することも出来ずに、あきらの帰国を待つ数日間を過ごすこととなってしまったのだ。

 あれはつくしにとって相当苦い経験だった。
 来年は絶対にこうならないようにしようと心に誓ったことを、あきらの一言で思い出した。

「去年のあたし、最低だったもんね。ずいぶん美作さんを困らせた」
「そんなことないさ」
「あるよ。美作さん、忙しくて大変だったのに……。でも今年はきっと大丈夫だよ。ほら、あたしも仕事が忙しいだろうし。あっという間に過ぎてるよ」

 もう絶対に同じことは繰り返さない、と気合いを込めた瞳であきらを見上げて頷くと、あきらはふっと苦笑いを浮かべた。

「だから余計に心配なんだけどな」
「え、どういうこと?」

 あきらは笑みを浮かべるだけで答えない。
 もう一度訊こうと口を開きかけたところで、エレベータが目的の階に到着した。
 促されるままエレベーターを降りて、あきらの後をついて行く。
 廊下はしんと静まり返っていて、もはや完全に答えをもらうチャンスを逸したつくしは、もやもやとした想いを抱えながら歩くしかない。
 どうして部屋を取ったのか、余計に心配だと言うあきらの言葉は何を意味するのか、どれもこれも、つくしの中では曖昧だった。

 パーティー会場を離れる時に、あきらは自分もどっぷり疲れたと言っていた。
 たしかにここ数日、あきらは深夜まで会議が入っていると言って、つくしのアパートに顔を出すことはなかった。
 メールは来ていたけれど、「会議が終わった」「これから帰る」と届くメールの送信時刻は真夜中の二時や三時。つくしがそれに気付くのは、翌日起きてから、という日々だった。
 今日の朝届いたメールには、「ようやく一段落ついたよ」と書いてあったけれど、超多忙が多忙になった程度に違いない。
 今日の仕事もいつも通りハードだったのだろうし、立場上、こういう場所では常に注目されて、何気ない会話にも気を抜くことは出来ない。
 何をするわけでもないつくしでさえ大変だと思ったのだから、あきらの大変さは計り知れない。
 実はつくしが思ってる以上にあきらは疲れていて、心身ともにキツくてたまらないのかもしれない。
 最初から、途中で抜け出して休むつもりで部屋を取っていたのだろうか。だとしたら、一人で休んだほうがいいのではないだろうか。
 そして「余計に心配だ」と言ったのは、去年以上に関係がギクシャクするかもしれないと危惧しているからだろうか。今年はきっと大丈夫、というつくしの言葉をそのまま受け止めることは出来ないということだろうか。本当に大丈夫だと、去年の二の舞にはなるまいと、つくしはつくしなりに覚悟をきちんとしているのだけれど、あきらにとってそれは意味のないことなのだろうか。
 つくしの中で、もやもやと根拠のない考えばかりがどんどん増殖していた。

 きちんとした答えが知りたいと思うつくしの気持ちとは裏腹に、あきらは黙って部屋へと歩いていく。
 繋いでいた手は、エレベーターに乗る時に離されたまま。温もりも会話もないまま、あきらとつくしはただ歩く。
 あきらの歩調は、ドレス姿のつくしを気遣ってとてもゆっくりだったが、疑問ばかりを膨らませるつくしは、その事実に気付くこともなく、話すことも振り返ることもなく歩き続けるあきらの背中を、不安な気持ちでただ見つめていた。

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