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マンダリンオレンジの夢を見る
COLORFUL LOVE
2

「じゃ、いってきます」
「どうもお邪魔しました」
「いってらっしゃい、あきらくん。つくしちゃん、またいつでもいらしてね」
「お兄ちゃま、いってらっしゃい」
「お姉ちゃま、今度は絵夢と芽夢と遊んでねえ」
「いってらっしゃいませ」


朝食を終えたあきらとつくしは、あきらの母親と双子の妹、使用人に見送られて美作邸を出た。

外は快晴。五月のそよ風が気持ちいい。
つくしは思い切り空気を吸い込んだ。

 
「良かったのか? こんな早い時間で」
「ん? ああ、もちろんもちろん」
「ゆっくりしてても良かったんだぞ?」
「だから言ったでしょ? それは出来ないって」
「だけど、今日の講義は午後だろ?」
「うん。でもその前にキャリアセンターに行きたいからちょうどいいよ」
「キャリアセンター?」
「うん。ほら、就職活動支援の……」

「それ英徳の中? そんなところあったっけ?」と言うあきらは美作商事の御曹司。
当たり前に利用したことなどないのだ。

「あるわよ。まあ美作さんのように就職先の心配をしなくていい人には縁のないところだけど、でもあたしのような庶民は――、」

そこまで言ってふと思う。
あきらだけではない。英徳ではキャリアセンターなど縁のない人間のほうが多くて、むしろ、つくしのように利用している人間のほうが少数派なのだ。

( どうりでいつだってガラガラのはずよ )

そこまでたどり着いたらこれ以上力説するのも馬鹿らしい気がして、「ま、いいや」とつくしは笑った。

「とにかくそこに行こうと思ってたの。だからちょうどいい」
「そっか」
「うん」
「来週だっけ? 面接」
「そう。ようやく巡り会えた会社だからね。頑張らないと」

つくしと同じように就職活動をしている人間、しなくても最初から決まっている人間、状況は違えど卒業後の進路が決まる人間が増えていく中、それなりの焦燥感を抱えながらも、つくしはこれまでひたすら慎重に会社選びを繰り返してきた。
誰にも言っていないけれど、つくしの中には「F4に関係する会社には就職しない」という自分で決めた条件があったから。
言えば「なんでそんなことにこだわるんだ」と疑問に思われるだろうけれど、それはつくし的に絶対譲れないものだった。
そしてようやく出会ったのだ。その条件にぴったりで尚且つ「ここで働きたい!」と思える会社に。

「で、どこを受けてるんだ? そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
「だーめ。受かってから」
「ふーん」
「……ごめんね」
「まあ別にいいけどさ」

自分で課した条件も、就職先も、すべて決まるまで誰にも言わないと決めている。
それはもちろん、あきらにも。

「困ったら言えよ。就職先ならいくらでも――」
「ありがとう。どうしても困ったらその時は相談させてもらうわ。でもまだ自分で頑張れそうだから」

笑顔でさらりと言うつくしに、あきらも笑顔で頷いた。
でもあきらは気付いている。
つくしが自分を頼るつもりがないことを。自分だけではない、いくらでも手を差し伸べる友人達の誰をも頼るつもりがないことを。
彼女なりの理由があるだろうことはわかっているけれど、それさえも話そうとはしないから、あきらはただ、日々頑張っているその姿を見守ることしかでない。
別にそれがしんどいとは思わない。でも当たり前に心配ではあった。
ただそのことを切々と語ったところでつくしはその姿勢を崩したりはしないだろう。
それも、わかっている。
あきらは気づかれないように小さく息を吐き、そして話題を変えた。

「いい天気だな」
「え? あーほんとねえ」

突然発せられたあきらの言葉にハッとしながらも、つくしは空を見上げた。
突き抜けるような青が広がる五月晴れの空。
気持ちのいい朝だった。

「いいよね。こんな青空が頭上に広がってると思うだけで気分がいいわ」
「そうだな」
「それに、」
「それに?」
「お屋敷の庭の薔薇、すっごく綺麗」
「ああ。ちょうど見頃だからな」

ゆっくりと愛でる時間はなかったけれど、支度を整えながら、朝食をとりながら、つくしは常に薔薇の香りを感じていた。
そうしたことに決して敏感ではない――どちらかといえば疎いつくしでも意識せずにはいられないほど、美作邸の薔薇はその存在を主張していた。
それは、前夜、邸を訪れたその時から。

「昨日の夜、車を降りた瞬間からずーっと薔薇に囲まれている気分よ。部屋の中も香ってたもん」
「そうかな?」
「うん。美作さんはずっとここにいるからもう慣れちゃってるのよ」

「あたしは久しぶりにお邪魔したから……」と言葉を続けようと思った時、つくしの脳裏にぶわっと昨夜のことが甦った。
ふわんと漂う薔薇の香りと、肌を重ねるあきらの匂い。
唯々甘く唯々優しく、愛し愛された恋しい時間。
思い出した途端、ばばばば、と顔が熱くなった。

( わわわわ! ストップストップ! )

つくしは慌てて自分自身に思考停止を命じる。
けれどそれはなかなかすぐには止まらなくて、その間も顔はどんどん火照ってきて、つくしは思わず手でパタパタと顔を扇いだ。
そんなつくしの不審な行動に気付いているのかいないのか、あきらがふわんと言葉を落とす。

「また来いよ。薔薇が綺麗なうちに」
「あ、うん。……そうだね」

薔薇そのものに強い興味はない。
じっくり見たところで何がわかるわけでもないだろう。
でもこの香りに包まれる時間は悪くない。
昨夜のことも含め、いろんな感情が相まって余計にそう思えた。

薔薇の香りとの別れを惜しむように、はてまた少々籠った熱を外に逃がすように、すうっと空気を吸い込んで、そしてつくしはあきらの車に乗り込んだ。
シートベルトを締めるつくしの耳に、車のエンジン音が届く。
そしてつづけて、あきらの声。

「牧野」
「ん?」
「身体、きつくないか?」
「え? あ……うん」

ふいをつかれて思わず見上げたあきらの顔。
少しだけ心配そうにつくしを見つめる瞳が、その返事で柔らかに細められた。
それはあきらの優しさ以外の何物でもない。
その気遣いがくすぐったくて、やけに照れくさい。
こんな時のあきらは、本当に本当に優しい表情で優しい声を出すから。
だから余計に照れてしまう。
先程脳裏に浮かんでようやく抑え込んだ昨夜の記憶が、その熱が、再びよみがえってしまうから。

( もうっ。 そんなこと聞かないでよ。もう全然平気なんだから )

心の中で呟くつくし。
そう、もう平気。でも、たしかにあったのだ。平気じゃない日々が。

( そういえば、最初はきつかったっけ…… )



――初めてあきらと肌を重ねたのは、つくしの部屋の、高級でも大きくもない普通のベッドの上だった。
それは突然やってきた。
いや、決して突然ではないのかもしれない。
けれど、つくしには突然だったのだ。あきらの求める気持ちと、自分の求める気持ちの一致が。
ともすれば、ベッドまでも待ちきれない程に。

 


三月三十一日
十日間のイギリス研修を終えたあきらは、空港に降り立ったその足でつくしの元へとやってきた。
会えた喜びに心を震わせながらも、何時まで一緒にいられるのかと問うたつくしにあきらは「朝まで」と答えた。
「ダメだった?」と問うあきらに、つくしは何度も首を横に振った。ほんのりと頬を染めて。
ずっと待ち侘びていたあきらの帰国が嬉しくて、朝まで一緒にいられるという事実が嬉しくて、幸せだった。
でもつくしは忘れていたのだ。小さな……でもとても大切なことを。

思い出したのは、そのあと二人で「花見」と銘打った散歩に出かけて、満開の桜の木を見上げている時だった。
「きれいだな」「きれいだね」と極々普通のやりとりをぼんやりと交わしている時に、ふと思い出したのだ。
イギリスからの電話で、あきらが発した一言を。

「決めた。帰ったら思い切り抱き締める。朝までずーっと。……もう、抑えが利きそうにない」

「イヤとは言わせないぞ?」と続いたあきらの声に、「そ、そんなこと言わないもん」とつくしは強気に返した。
あきらは小さく笑って、「そりゃありがたい」と軽く弾む言葉を放ち、その時はそれで終わった。
けれどそれは、多分とても大切なやりとりだったのだ。
冗談や勢いではない。重要な意思確認。
きちんとした想いのこもった大切な「約束」。

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2012.04.14 マンダリンオレンジの夢を見る
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