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ミルクティー色に、そっと
COLORFUL LOVE view of AKIRA
1
「……――の予定です。以上になります」
「明日もぎっしりだな。アポも多いし」
「出来るだけスムーズに運ぶように調整をしておきます」
「頼む」

 いつものことながら、今日も朝から慌ただしかった。
 積み上げられた決済待ちの書類をひとつずつ捌き、なかなか結論の出ない会議に付き合い、企画開発部の新規プロジェクトの相談に乗る。
 急な来客もあって、なかなか思うように捗らない部分もあったが、今日やるべきことをどうにか片付けて、たった今、松本に明日のスケジュールを確認し終えた。

「じゃあ、ひとまず今日はこれで大丈夫そうだな」
「はい。お疲れ様でした」

 松本が頷くのを確認して、仕事モードを解こうとした――まさにその時。
 電話が鳴った。

「……出たくないな」

 思わずポロッと漏らしてしまうほど嫌な予感がした。
 そしてそれは見事に当たった。

『専務、ロンドン支社でトラブル発生のようです』

 繋がれた先――ロンドン支社長と話し出してわずか一分で、現地入りが免れないことを悟った。
 一通り話を聞いて、今後の対策を検討して折り返すと電話を切る。
 顔を上げると、思案顔の松本と目が合った。

「深刻そうですね」
「ああ。こっちで指示してどうにかなればと思ってはいたんだが、どうやら行くしかなさそうだ。明日発つ。松本、悪いが明日からの予定――」
「再調整いたします。それから、出張の手配もすぐに」
「ああ、頼む」
「専務は」
「ん?」
「まず牧野様に連絡を」
「……ああ、わかってる」

 一礼して去っていく松本の背が消えたと同時に、俺はひとつ溜息を吐く。椅子から立ち上がり窓際に移動して、またひとつ。
 慌ただしいのはいつものこと。それでも今日は順調なほうだったのに。
 最後にとんだ落とし穴が待っていた。

 今日はこれから予定が入っていた。
 牧野と待ち合わせて食事へ行く――平凡でありきたりな予定。
 でも、平凡でありきたりだからこそ、大切な予定だった。
 仕事にトラブルはつきものだ。立場上、その処理が回ってくるのは当然のことであり、仕事がらみでのドタキャンも初めてではない。
 よくある――なんて認めたくないが、現実それなりにある。
 そして牧野はそれをわからない相手ではない。むしろ無理してでも理解を示してくれる。
 けれど、だからといって、至極当然とばかりにキャンセルしていいわけもなく、俺自身も、楽しみにしていた予定がダメになるのを平然と受け入れられるほど人間が出来ていない。
 しかもただのドタキャンではない。
 明日からロンドンだ。

「あーあ……」

 仕方ないことはわかっている。わかっていても気が滅入る。
 ぐしゃりと髪を掻き混ぜながら盛大に溜め息を吐き、それから胸元の携帯電話を取り出した。

『もしもし、お疲れさまー!』

 数コールで繋がった電話から、牧野の明るい声がした。

「お疲れ様。仕事終わった?」
『うん。これから会社出ようかなって思ってたところだよ。美作さんはどう? 終わった?』
「いや……ごめん、今日無理になった」

 ほんの一瞬の沈黙の後、「そっか。残念だけど仕方ないね」と優しい声が響いた。

「ごめんな」
『仕方ないよ』
「そうだけど。ホント、ごめん」
『そんな謝らないでよ。また今度行こう』
「それはもちろん。ただ……」
『ただ?』
「埋め合わせは少し先になると思う。明日からロンドン行くことになったんだ」

 再び、一瞬の沈黙。

『もしかして、トラブル発生?』
「ご名答」

 言うと同時にため息が零れてしまった。
 それが聞こえただろう電話の向こうで、牧野がくすくす笑った。

『困った時の美作専務ってやつだね』
「俺が出ていかなくてもどうにかなる程度のトラブルで止めてもらいたいよ。もしくはもっと早い段階で相談してくれてたら――」
『自分達でどうにかしようって試行錯誤してたんでしょ』
「でもどうにもならなかったって?」
『そこで、困った時の美作専務』
「……ま、そうだよな。わかってるけどさ」
『こうなっちゃった以上、もう仕方ないじゃない。涼しい顔でちゃっちゃと片付けて、次はないぞーって脅してきたら?』

 無責任に思えるほど軽い調子で言い放つ牧野だけれど、日本にいる俺がわざわざロンドンまで出向くトラブルが、そう簡単に片付く類のものでないことくらい、きっとわかっているだろう。それでも――それだからこそ、同情的でも悲観的でもない牧野の言葉は、今の俺にはちょうどいい。
 簡単でなくとも、トラブルを解決する術を俺は知っている。そして牧野は、それをわかっている。
 牧野の言葉に俺への信頼がしっかり見えるから、それだけで、落ちかけた気分を浮上させるには十分だった。

「というわけで、今日はまだまだ会社を出れそうもない。ごめんな」
『いいって、いいって。次を楽しみにしておくから』
「うん。……あ、もしあれなら誰か誘って行くか? まだレストランの予約はそのままだから可能だぞ」
『え、誰かって?』
「たとえば木下さんとか」
『あー……、あいにく美穂はこれから合コンなの』
「合コン?」
『そう。二人も欠員出て困ってた先輩から頼み込まれて、人数合わせに急遽参加』
「そうなんだ」

 相槌を打ちながら、ある可能性が頭に浮かぶ。

「もしかして、おまえも誘われた?」
『え? ああ……まあ』

 ――やっぱり。

「断ったのか?」
『もちろん。だって美作さんと食事の予定だったでしょう?』
「じゃあ、食事の予定がなくなったって知れたらまた誘われ――」
『ないない。というか行かないよ、どっちにしても』

「あったりまえじゃない」と笑い飛ばす牧野に、心の奥でホッとする。
 わかっていても、こういうのは気が気じゃない。

『だから、レストランの予約はキャンセルしておいて。忙しいところ申し訳ないけど』
「わかった」

 よろしくね、と言った牧野が、「となると、今日は何を食べようかなあ」と呟いた。
 俺に言っている風ではない、多分いつもの独り言だ。けれどその声は必要以上にしっかり俺の中に響いてしまった。

「ここ、来るか?」
『……え?』

 言ってから、しまった、と思った。

『何言ってるの。だって美作さん、これから仕事するんでしょ?』
「そうだけど。でも一人で食べるんじゃ味気ないかなと思って」
『……あ、ごめん。あたし、また口に出してた? 気になる言い方しちゃったかな』
「いやそうじゃないけど」

 ――そうじゃなくて。

「埋め合わせもすぐに出来なさそうだし」
『そんなの気にしないでよ』

 電話の向こうで「美作さんは本当に律儀だなあ」と牧野が笑う。

『一人で食べるのなんて慣れてるから平気だよ。昨日今日一人暮らし始めたわけじゃないんだから。というか、あたしがそこへ行っちゃったら余計な時間使ってますます帰りが遅くなっちゃうでしょ』
「そんなことないよ」
『あるよ』
「でも――」
『とにかく、あたしは行かないから。美作さんは仕事に集中して』

 ある意味、わかり切っている返事だった。
 これ以上の押しつけは許されない。

「わかった。じゃあ、またあとで連絡入れるよ」
『うん。あんまり無理しすぎないでね』
「ああ。牧野も気をつけて帰れよ」
『ありがとう』

 じゃあねと言葉を交わし、電話を切った。

「はあああ……」

 今日一番深くて重い溜息が零れた。
 牧野の明るい声を聞けた安堵感と、でもそれを上回る罪悪感が胸を充満する。
 ドタキャンせざるを得なかったことに。そして、無神経な自分自身に。
 なんで軽々しく誘ってしまったのか。来るわけがないし、来たいと言うわけがないのに。
 少なくとも、今はまだ――。

 先週末、牧野はここへやってきた。牧野の上司である平野部長の代理で。
 それはあまりにも突然の、想定外の出来事で、来客を告げる松本の声に続いた「おじゃまします」の声が、牧野のものだと俺の脳が認識するまでに必要以上に時間がかかった。


 **


「専務、お客様がお見えになりました」

 ノックに続いてドアが開き松本の声がした。
 ちょうど分厚い書類の束の、最後の一枚に目を通していた俺は、書類に視線を落としたまま椅子から立ち上がった。
 時間的にやってくるのは、ロサードの平野部長。午前中にロサードで開かれた会議の補足資料を届けてくれることになっている。
 執務机は入口から直接見えない場所に配置されていたが、ほんの数秒で姿が見えることはわかっていたので、書類を見ながらも頭の中で交わす挨拶を用意する。

「おじゃましまーす」
「わざわ――……」

「わざわざすみません」――そう口にしようとしていた、けれど言葉が続かない。
 聞こえた声は平野部長のものではない。それどころか、男性の声ですらない。遠慮気味な、けれど耳になじんだ女性の声。
 ん?――と顔を上げた瞬間、ひょこっと顔を出したその声の主に、俺は目を見開いた。

「牧野!」

 驚く俺に牧野は照れたようにえへへと笑った。

「突然ごめんね」
「どうしたんだよ」
「平野部長の代理で来ちゃいました」
「代理?」
「うん。出掛けにちょっと面倒なトラブルが起きたみたいで」

 なるほど、と頷く視界の端に笑顔の松本が映り込んだ。

「松本、知ってたのか?」
「いいえ。総合受付から連絡が入って、平野部長ではなく牧野様だと言うので驚きましたよ」
「すみません。部長には先に連絡入れてほしいって言ったんですけど」

「トラブル処理に忙しくて忘れちゃったのかも」と肩を竦める牧野に、口元が緩む。
 俺は手にしていた書類を机に置くと、まだ入口近くに立っている牧野の元へと足を踏み出した。

「とりあえず座れよ」

 ソファを指し示せば、牧野はありがとうと頷いた。

「コート、こっちにかけようか?」
「ううん、平気。ソファに置かせてもらうね」
「どうぞ」

 牧野が動き出してすぐ、その背後にいた松本が俺を見た。

「では私は戻ります。何かありましたらお呼び下さい」
「ああ」

 松本が一礼して出ていき、パタンとドアが閉まる。
 執務室には、俺と牧野、二人きり。
 ソファにコートとバッグを置いた牧野が、「美作さん、これ」と歩み寄ってきた。

「平野部長から預かってきた資料です。念のため、中を確認していただけますか?」

 いつもよりかしこまった表情で、かしこまった言葉使いで、仰々しく両手で書類封筒を差し出す牧野。
 俺はふっと笑って「ありがとうございます」と左手で封筒を受け取ると、右手で牧野の左手を掴んで、ぐいっと引き寄せた。
 わっ、と驚いた牧野を、そのままぎゅっと抱きしめる。

「ちょっ、美作さん。ここ執務室」
「うん。俺のな」
「そうだけど」
「ちょっとだけ」
「……」

 もうっ、と小さく呟いた牧野が、腕の中で微笑む気配を感じた。

「よく来たな」
「迷惑じゃなかった?」
「迷惑どころか、すっげえ嬉しい」
「なら、よかった」

 少しだけ心配だった、と囁いた牧野が愛しくて、俺は髪に口づける。
 今日はいつもよりもちょっとだけ、牧野に会いたい気持ちが強かった。
 理由は簡単。昼間、小野に牧野のことを話したから。

「牧野、俺が前に話した同期の小野って覚えてる?」
「美作さんが一番仲良くしてる人だっけ?」
「そう。今日、あいつに話したんだ、牧野のこと」

 その話の間中、俺は牧野のことを考えていた。会いたさが募るのは必然だ。

「驚かれた?」
「まあな。でも、彼女がいるってことは前から言ってあったから」
「そうなんだ」
「いずれちゃんと時間作るよ。俺の仲良くしてる同期達を知ってほしいし、何より牧野を紹介したいから」

 髪を撫でると、腕の中から「大丈夫かな」と声がした。
 腕を緩めて見下ろすと、牧野は何か言いたげに俺を見上げる。

「紹介されるの、厭か?」
「厭じゃないけど、大丈夫?」
「なにが」
「あたしで」
「なんで」
「こんなだから」
「どんなだよ」
「知ってるくせに」
「あはは。そのままで十分だよ」
「……もうっ」

 恥かし気に頬を染めて俺を見上げる牧野に愛しさが募り、その頬に触れようと手を伸ばした、その瞬間。
 ――コンコンコン。
 ドアがノックされた。
 びくっと肩を竦めた牧野が、大慌てで俺の腕から抜け出していく。
 その慌てぶりは、物音に驚いて身を隠す小動物のようで可愛いけれど、消えた温もりがどこか寂しい。

「入室禁止って言っときゃよかった」

 思わず舌打ちした俺を、牧野が小さく睨んでくる。
 顔も耳も真っ赤な牧野はますます可愛くて、自然と笑みが零れた。

 カチャリとドアが開き「失礼いたします」と声がした。
 秘書課の佐々木さんだということはすぐにわかった。――お茶を持ってきたのだろうとの確信付きで。
 見られていませんように、バレませんように、と祈るような気持ちでいるだろう牧野のために、牧野が届けてくれた書類を封筒から出してその内容を確認しながら、できるだけさりげなく執務机に戻った。

「お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう。俺のもそっちに置いて」

 視線で応接セットを指し示して、執務机で改めて書類に目を通す。
 お茶が置かれたのだろう牧野の礼を告げる声が小さく聞こえて、まもなく佐々木さんは執務室から出て行った。

「あー、焦った」

 顔を上げると、ソファに座った牧野が胸に手を当て、大きく息を吐き出していた。

「そんなに焦らなくても」
「焦るよ。というか、美作さんこそ焦ってよ」
「なんで俺が焦らなきゃいけないんだよ」
「だって見られたら困るじゃん。むしろあたしより美作さんのほうが困るでしょ。あらぬ噂も立つだろうし」
「あらぬ噂?」
「美作専務が子会社の女子社員を呼び出して良からぬことしてるんだよー……みたいな」
「良からぬことって……しかもそれじゃあ――」
「あー、すっごくいい匂い」
「――……へ?」

 まるで俺が良からぬことをするために無理やり呼び出してるみたいじゃないか――続くはずの言葉は宙に弾け飛び、代わりにマヌケな声が出た。

「なんだよ、突然」
「ねえ、すっごくいい匂いなの、この紅茶。アールグレイかな」
「……ああ、そのようだな」
「飲んでもいい?」
「もちろん」
「やった。では、いただきます」

 一口飲んで、「あー……美味しい」と感嘆の声を漏らした牧野は、一口、二口と飲みながら、「茶葉がいいのかな。それとも淹れ方がいいのかな」とその美味しさの秘密を探ろうとしている。
 さっきまでの話はいったいどこへ消えたのか、目も耳も疑いたくなるほど、すでに目の前の紅茶に夢中な様子。

「……まったく」

 思わずため息が零れた。そして、笑みも。
 牧野の一挙一動に振り回されている自分がおかしくて。
 俺を無意識に振り回す牧野が――愛しくて。

 書類片手に牧野の元へと移動する。牧野と向かい合って座り、同じように紅茶を飲むと、たしかにとても美味かった。「美味しい?」と訊かれて頷くと、「だよね」と牧野は笑みを広げた。

「秘書課の中で、さっきの彼女が一番淹れ方が上手いんだよ」
「へー。すごいなあ。美作商事の秘書さんて、美人なだけじゃなくて紅茶まで美味しく淹れられないと務まらないんだね」
「あはは。そんなことはないけど」
「どうやったらこんなに美味しく淹れられるのかな。教えてほしいなあ」

 きっと牧野は何気なく口にしたのだろう。
 でもそれは、俺には大きなキッカケに思えた。

「佐々木さんに教えてもらう……か」
「え?」

 思考をめぐらせ決断するのに、さほど時間はかからなかった。

「教えてもらったらいいよ」
「なにを?」
「紅茶の淹れ方」
「……やだ、冗談だよ。そんなのおかしいでしょ。平野部長の代理で来たあたしがそんな――」
「これから、秘書課の社員に、牧野のこと紹介する」

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