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ミルクティー色に、そっと
COLORFUL LOVE view of AKIRA
2
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 あの時、その言葉を反芻するたっぷりの沈黙のあと、牧野は驚きに目を見開いて、そして「えーーーっ!」と叫んだ。
 あまりにも突然のことだったのだろう。「なんで。だって。そんなの聞いてない」と牧野は慌てて、「そりゃ、今決めたばっかりだからな」と俺は平然と答えた。

「なんでそんな急に――」
「前に言わなかったっけ? 近いうちに秘書課には話すって」
「言ってな――いや、言ってたような気がするけど、でも今日じゃなくても」
「じゃあ、いつならいいんだよ」
「いや、いつって言われても困るんだけど」
「紹介されるの、嫌か?」
「嫌ってわけじゃないけど……」
「けど?」
「だって……大丈夫?」
「なにが」
「あたしで」
「なんで」
「こんなだから」
「どんなだよ」
「……なんか、さっきもこんな会話を……」
「あはは。気づいた? なら答えはわかってるよな。そのままで十分だよ」
「……」
「そのまんまの牧野を紹介したい」

 笑顔の俺に、牧野は「ずるい」と呟いた。
 そんなふうに言われたら断れないよ――と。真っ赤な顔で。ほんのちょっとだけ口を尖らせて。
 それがとてもかわいかった。


 宣言通り、牧野を婚約者として秘書課の社員達に紹介した。
 牧野は傍目にもわかるほど緊張していた。顔を赤くして、表情をこわばらせて、落ち着かない様子で目を泳がせて、時々こっそり深呼吸までしていた。
 当然だろう。目の前には大勢の社員がいて、全員が牧野を注視していたのだから。
 そんな状況に慣れている俺でさえも、いつも通りの平常心とはいかず、牧野ほどではないけれど、やはり少しだけ緊張していたように思う。
 でも、それを上回る幸福感を感じていた。
 未来を共にする約束をして、周囲にその決意を知ってもらう。
 ささやかなことではあるけれど、一歩ずつ着実に進めている実感は、何にも代えがたい喜びで、幸せだった。
 社員たちの驚きに満ちた表情、祝福の笑顔と歓声、遠慮気味な――けれど抑えきれない好奇心が垣間見える質問の数々。
 すべてが俺を笑顔にした。
 そして何より――居心地悪そうに身体を小さくして俺の隣に立ち、時々俺を縋るように見上げる牧野。
 いつだって、彼女の存在が俺を幸せにするんだと、その真っ赤な顔を見ながらしみじみ思った。

 そんな幸せな気持ちは、執務室に戻ってからも続いた。
 緊張で疲れ切った牧野が、ソファに倒れ込んで「心臓がもたない」と脱力した。決して行儀がいいとは言えない恰好でヘチャリと潰れているその頭を撫でて「お疲れさん」と労うと「あたし、大丈夫だったかな。ヘマしてない?」と不安そうな瞳を向けて、「カンペキだよ」と答えた俺の言葉に安堵の笑みを浮かべた。
 その後しばらくソファでぐったりしていた牧野だけれど、ドアのノック音に、ビュンと空気を切る音が聞こえそうな勢いで姿勢を正した。入ってきたのは松本で、それがわかった途端に「よかったー……」と再び脱力するその様子に、牧野の松本への信頼が見えて、それも俺の喜びを深くした。

「すみません、驚かせてしまいましたか?」
「とっても。でも松本さんでよかったです」
「そう言っていただけて何よりです」

 二人の会話を聞きながら書類をめくる俺の口元には、自然と笑みが浮かんだ。
 穏やかで、優しい時間が流れていた。
 それが続けばいいと思ったし、続くと思っていた。

 ――けれど、そうはいかなかった。
 それはきっと俺の、詰めの甘さが原因なのだ。
 いずれどこかで立つかもしれない波風の気配を心のどこかで感じながらも、まだ大丈夫と決めつけていた――そんな俺の。


 **


「これで全部かな、急ぎの案件は」
「はい。会議の追加資料は本日中に送っておきます」
「頼む。俺ももう一度目を通しておく。何かあればまた連絡入れるから」
「よろしくお願いします」

 松本と話しながら立ち上がり、ソファで本を読んでいた牧野に声をかけた。

「おまたせ。終わったよ」
「牧野様、大変お待たせいたしました」
「いえいえ、とんでもありません。美作さんも松本さんも、今日も一日お疲れ様でした」 
「松本はまだ仕事あるんだけどな」
「えー。 今日くらい、早く帰れたらよかったのに」
「お、いつも遅いってよく知ってるな」
「だって美作さんが遅いこと多いんだから、松本さんはもっとだろうなーって」
「そのとおり。松本は俺よりずっと大変だよ」
「だよね」
「いえ、そんなことはありませんよ」

 そんな会話を交わしながら、俺は帰り支度をして牧野の元へと歩み寄る。
 同じく帰り支度を終えた牧野が、改めて俺を見た。

「美作さん、もう出ちゃう?」
「うーん。でも、まだちょっと早いよな」
「だよね」
「お二人はこれからお食事に行かれるんでしたよね」
「そうなんですけど、でもまだ約束の時間には早いんですよ」
「どなたかと待ち合わせされてるんですね」
「はい。平野部長です」
「――と、その彼女」

 今日は元々、ここからさほど遠くないレストランで食事をすることになっていた。
 俺と牧野と、平野部長とその彼女の植木香奈美さん――四人で。
 平野部長と植木さんは、付き合って丸五年になろうかという年末に別れ、そして、一週間前によりを戻した恋人同士。
 復縁のきっかけを偶然作ることとなったのが俺たちで――いや、正確には牧野であって、俺はほぼ何もしていないのだが――「お礼をさせてほしい」と平野部長から数日前に連絡が来た。牧野に話したけれど「礼なんて必要ない」と断られてしまったから、と。俺としても礼など全く必要なかったのだが、それなら四人で食事でも、と話がまとまった。
 それが、今日。

「そうだ。あたしが預かってきた書類、ちゃんと間に合った?」
「ん?」
「だってほら、夜には会うってわかってるのにわざわざここへ届けることになってたでしょ? 今日中に処理したいとか、そういうことだったのかなって」
「……ああ、うん。おかげでちゃんと間に合ったよ」

 本当は、間に合うも間に合わないもないのだけれど。なぜなら、平野部長が届けようとしたのは、書類じゃなくて「牧野」だったのだから。

 平野部長が牧野に届けさせた書類は、来週の会議で使う資料だった。
 事前に目を通しておく必要があったので、早急に届けるという平野部長の申し出はとてもありがたかったけれど、わざわざ業務時間内に届けてもらうほど急いではいなかった。食事の席で受け取っても十分間に合う。それは平野部長もわかっていたはずだ。
 にも関わらず届けると連絡をしてきたからには、何かそれなりの意図があるのだろうと思った。それが仕事のことなのか、平野部長個人のことなのかはわからなかったが。
 そして、約束の時間に現れたのは、牧野だった。
 ――そういうことか、と悟った。
 食事の日程を決める段階で、今日を指定したのは俺だ。今日ならば時間的に余裕があったから。
 平野部長はそれに気付いていて、尚かつ、さほど重要でもないアポをいれることで俺の時間を確実に押さえて、そして牧野を送り出した。
 出掛けにトラブルが起きたからではない。最初から牧野に書類を託すと決めていたのだ。
 おそらくこれは、平野部長から俺たちへの、植木さんとの復縁に対する「礼」の形。
 書類を持った牧野が現れた時、真っ先に思った。「やってくれたなー。平野部長」――と。

 目の前で「間に合ってよかった」と安堵の笑みを浮かべる牧野は、その真実を何も知らない。
 知ったらどんな反応をするだろう。頭の中で思い描けば、その答え合わせがしたくなるけれど、でもそれは「今ではない」いつかでいい。
 決して「敷居が低い」とは言えないこの場所を、牧野が気負いなく訪れるためのきっかけも理由も多いに越したことはない。
 上司の代理――これも大切な理由できっかけだ。
 この先幾度となく、牧野はその肩書を背負ってここへやってくるだろう。 
 そしていつか、きっと気付く。俺が何も話さずとも。
 あの時も、あの時も、もしかしたら……と。今ここで種明かしをしたのではなかなか伝わらない、そこに宿った優しい気遣いにも。



「さてと、そろそろ出るか?」

 平野部長の彼女――植木さんとの驚きの出会いについて松本に語って聞かせている牧野に声をかけたのは、それから間もなくのこと。

「もうそんな時間になった?」
「いや、まだ早いけど、車はやめて歩いて向かってもいいかなと思って」
「え、街をブラブラ歩いていくってこと?」
「そう。そんなに遠くないし、たまにはいいだろ」
「え、え、美作さん、そんなことしていいの?」
「なんで」
「外、寒いよ?」
「知ってるよ。コート着ればいいだろ」
「え、でも平気なの?」
「なにが」
「誰かに見られたり、カメラ向けられたり、追っかけられたり囲まれたり」
「いったい誰の話だよ。芸能人じゃあるまいし」
「いやそうだけど……でも有名人よね?」
「まさか。一般人だよ。昔から普通に街を歩いてるだろ」
「昔から車のほうが圧倒的に多いよ」
「それはまあそうだけど」
「会社周辺だよ? 平気なの?」
「だからなにが」
「誰かに見られたり、カメラ向けられたり、追っかけ――」
「だから誰の話だよ」

 ごちゃごちゃわけのわからないことを言っているが、牧野のテンションが高まっているのは明白。
 松本は話の途中から笑いを堪えているのか、肩が小さく揺れている。

「で、どうすんだよ。歩くのか歩かないのか」
「歩く!」

 抑えきれないワクワクを弾けさせたその返事に、俺と松本は盛大に笑った。
 じゃあ行こう、と俺はコートと鞄を手にソファから立ち上がり、同じように立ち上がった牧野が、松本にあいさつをする。
 それが終わるか終わらないかのタイミングでドアがノックされ、松本がドアへと向かった。

「そういえば、昨日の夜、香奈美さんから連絡来たの。すっごく楽しみーって」
「なんで連絡先知ってるんだよ」
「最初に知り合った時に交換したの。ファミレスで」
「なるほど。ということは、何かあったらすぐ連絡くるわけだな」
「何かって?」
「平野部長とケンカしたとか」
「……あー、そうなるのかな」
「平野部長、やりにくいだろうな。かわいそうに」
「かわいそうって何よ。別にそんなの会社で言わないよ」
「でも弱みを握られた気分になってるはず」
「弱み握ったつもりなんてないよ」

 他愛もない会話をしていると、入口付近から松本と訪ねてきた誰か――どうやら女らしい――のやりとりが小さく漏れ聞こえてきた。

「……ました。でしたら来週、改めて……してください」
「今……させていた……」
「今はまだ来客中です」

 あまり穏やかとは言いがたい、珍しく鋭い松本の口調に思わずそちらを見ると、険しい表情でさらに何か告げている。

「松本、どうかしたか?」

 声をかけると、松本がこちらを見た。

「いえ、なんでもありません」

 言葉とは裏腹に、その表情はとても硬い。

「誰か来たんだろ? 何かあったか?」
「いえ。専務のお耳に入れるようなことは何も――」 
「白川です。お話し中のところ申し訳ありません」

 ――白川?
 声と同時に、松本の横――最小限にしか開かれていないドアから身体を滑り込ませるように姿を現したのは、秘書課の社員で、俺にとっては気心知れた同期の一人でもある、白川萌だった。
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