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ミルクティー色に、そっと
COLORFUL LOVE view of AKIRA
5

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 キスに夢中になりすぎて、結局、平野部長達との約束には五分ほど遅刻をした。
 牧野は顔を真っ赤にして「美作さんのばかっ」と散々喚いていたけれど、レストランの入口で植木さんの姿を見つけた途端、「香奈美さーん!」と嬉しそうに手をぶんぶん振った。
 牧野に負けじと笑顔でぶんぶん手を振り返す植木さんを、隣に立つ平野部長が優しい笑顔で見つめていて、再び寄り添うことを決めた二人の順調さが窺えた。

 四人での食事はとても楽しいものだった。
 牧野は相変わらず、よく食べよく笑った。
 植木さんは、俺の存在がそうさせるのか、最初こそ緊張気味だったけれど、時間の経過と共に徐々に和んで、やっぱりこちらもよく食べよく笑っていた。
 平野部長は、今まで見たどの時よりも、優しい顔をしていた。
 途中、牧野と植木さんが「入口のショーウィンドウのケーキが見たい」と個室を出ていき、男二人で話す時間があった。
 お互いの近況報告程度でこれと言って何を話したわけでもないのだが、その中で平野部長が言っていた。

「近くに居すぎるとわからなくなったり、見えなくなったりすることがあるんですけど、意外にダメなのは男のほうで、女は案外強い。その強さに救われてる瞬間があります」

 その言葉が胸の深いところに響いて、その後すぐに戻ってきた牧野の笑顔が、いつも以上に輝いて見えた。


 あれから牧野と、あの日のことは話していない。
 レストランでの牧野はいつもの牧野だったし、そのまま土日も一緒に過ごしたけれど、その間もいつも通りだった。
 それでもどこか用心深くなっていた俺は、些細なことも見落とすまいと知らずしらずのうちに神経質になっていたようだ。
 そんな自分に気付いたのは、日曜の昼間、邸のリビングで牧野が双子の遊び相手をしてくれていた時だ。

「お兄ちゃまって、本当に牧野のお姉ちゃまが好きなのね」
「なんだよ突然」
「だって、お姉ちゃまのお顔ばっかり見てる」
「……」
「もしかして、気づいてなかったの? さっきからずっとよ」

 お膝の本がちっとも進んでいないわ、と呆れたように笑ったのは、芽夢だったか。
 小学生になって大人びたとは感じていたが――いや、ませた、というほうが正しいかもしれない――、この時ばかりは絶句した。生意気なことを、と笑って聞き流すには図星すぎて、しばし愕然としてしまった。
 たしかに俺は、牧野ばかり見ていた。ひたすらに。幼い妹に指摘されるほど。

 そこではっきり自覚した。
 自分で思っているよりずっと、牧野の表情ひとつずつに敏感になっていることに。
 そしてぼんやり意識した。
 こんなにも敏感になってしまうのは、俺自身もダメージを受けているからではないかと。
 牧野を守りたいと強く思えば思うほど守り切れていない気がして、気持ちのすべてを消化し切れずにいる。
 それがじわじわと自分へのダメージとして蓄積されているような、そんな気がした。
 ――どこかでリセットしないとパンクするな。
 今はまだ、その時機ではないけれど。

 いずれにしても、今日ここへあんな安易な誘い方をしたのは、あれだけのことがあった後の対応としては迂闊すぎた。
 牧野が「行かない」と言ったのも無理はない。
 一度口から零れ落ちた言葉をなかったことには出来ない。時間を巻き戻すことが出来たならと思うが、それは叶わぬ願いだ。
 だからせめて、ただの戯言だと笑って忘れてほしい。
 そう、願わずにはいられなかった。



 ロンドン支社との連絡の合間に、明日以降に進めるはずだった案件を出来る限り前倒しして片付ける。
 もちろん一晩で抱えてるもの全てをどうにか出来るわけではないのだが、俺の不在だけを理由に滞ることがないように段取りをつけていく。
 いくつもの案件を頭の中に並べて、優先順位をつけながら短時間のうちに進めていくのは、なかなか集中力のいる作業だけれど、慣れた作業でもある。
 このあと取り掛かるものも含め、これならどうにかなりそうだと自分の中で目処が立ったのと、ロンドン支社との連絡が一段落したのは、ほぼ同時だった。

「専務、少しお時間よろしいですか?」

 松本が執務室に入ってきたのもまた、そのタイミングだった。

「ああ。一息入れようと思ったところだ」
「でしたら、ちょうどよかったです」

 応接セットのテーブルに小ぶりのペーパーバッグをひとつ置き、松本は俺を見た。

「夕食、召し上がりませんか?」
「ん? なんか買ってきてくれたのか?」
「はい。私ではありませんが」

 含みのある物言いと、かすかに漂うフライドポテトのような匂いが気になって、俺は席を立った。

「なんだよ、じゃあ誰かからの差し入れ?」
「はい」
「誰?」
「牧野様です」
「……え?」

 応接セットへ向かっていた俺の足が、ぴたりと止まった。

「今、牧野って言ったか?」
「はい」
「牧野が、これを?」
「はい。専務が食事をとられていないだろうから、と」
「牧野が、持ってきたのか?」
「はい」
「で、牧野は?」
「仕事の邪魔をしたくないからそのまま帰ると仰って――」
「帰したのか?」
「いえ、まだ受付に」
「――それを早く言えよ」

 言うが早いか、俺は執務室を飛び出していた。
 なんで――そんな疑問が頭の中に湧いて、すぐに掻き消えた。
 なんでも何もない、牧野はここへ来た。俺に会いに。
 それがすべてだと、受付ロビーに所在なさげに立つ牧野が、走り寄る俺の姿を見つけて浮かべた笑顔を見て、そう思った。

 牧野と二人で戻った執務室では、松本がお茶の用意をしていた。
 応接セットのローテーブルには、サンドイッチとフライドポテト、それとオニオンリングが広げられている。

「これ全部、牧野が?」
「うん」
「俺一人分?」
「うん。多すぎた?」
「俺一人で食うにはな」

 でも牧野がいれば余裕だな。
 思っただけでつい口元が綻んで、そんな自分が可笑しかった。

 やがて松本が出ていき、俺と牧野は二人きりになった。
 ソファに並んで座った途端、牧野が口を開いた。

「あたし、ほんとに邪魔じゃない? 仕事まだあるんでしょ?」
「邪魔じゃないよ、ちっとも」

 同じことを受付でも、ここへ向かう廊下でも、そしてまだ松本もいるこの執務室でも言われた。
 そのたびに同じ言葉を返しているのに、それでも尚言い募る牧野は、少々疑り深くて、でもいかにも牧野らしい。

「どうせ夕飯は食べるんだから。牧野が居ても居なくてもこの時間は変わらないよ」
「でも、あたしがいなかったらサッサと食べて仕事に戻れるのに」
「いいんだよ。どうあがいたって全部なんて終わらない量抱えてるんだ、少しくらいゆっくりしても誰も文句なんて言わない。松本だって言ってただろ? 邪魔どころか大歓迎だって」
「そうだけど」
「それに」
「それに?」
「一人で食べるのは味気ない。だから俺に付き合って。な?」

 牧野は俺の顔を数秒見つめて、それからようやく頷いた。笑顔付きで。

 食べる俺の横で、牧野はここへ来た経緯を話してくれた。

「あれからすぐに会社を出たの。グズグズしてて合コンに行くみんなと一緒になると面倒だから」

 そして会社を出た牧野は、「会社近くの最近よく行くカフェ」でお茶をしていたのだという。

「ちょうど読みかけの本があってね。時間も早かったし、家に帰ったところで暖房代がかかるだけだから、カフェで読んで帰ろうかなって。最初はそれだけのつもりだったんだけど、すっかり顔なじみになった店長さんに、新作のサンドイッチを勧められたの」

 そんな予定はなかったけれど、それもありかと勧められるまま注文をした。

「そしたら、すっごく美味しくて! ほんとにほんとに美味しくて、なんか一人で食べてるのがもったいなく思えちゃって……美作さんにも食べてほしいなって」

 きっと夕飯のことなど考える余裕もなく働いているだろうと思ったら、届ける以外の選択肢がきれいさっぱり消えていたのだと、牧野は小さく笑った。

「それでこんなにたくさん?」
「たくさん買ったら店長さんがおまけしてくれたの、ポテトとオニオン」

 俺が仕事をしているということは、松本や他の秘書も働いているのだろうと思った牧野は、結構な量のサンドイッチをテイクアウトしたのだと、この話の流れで知った。
 そういえば、お茶を淹れ終えて執務室を出る松本が、牧野に礼を言っていた。

「牧野様、お気遣いありがとうございました。遠慮なくいただきます」
「あ、いえいえそんな。足りなかったらごめんなさい」
「とんでもありません」

 きっと松本の分も買ってきたのだろうと、勝手にそう思っていたけれど、「足りなかったら……」は、秘書の人数に見合うかどうかの心配だったのかと、ようやく結びついた。
 
「大変だっただろう、持ってくるの」
「あー、ちょっとだけね。でも重いものじゃないし、何十人分も買ったわけじゃないの」

 予算に限りがありまして、と牧野が笑う。

「きっと喜んでるよ。みんな空腹だっただろうから」
「そうかな」
「うん。でも一番喜んでるのは、俺。すっげー美味い」
「わーよかったー!」

 美作さんが気に入るかが一番心配だった、と安堵する牧野はかわいくて、思わず頭に手が伸びた。

「ありがとうな。嬉しいよ、差し入れ。それから、来てくれたことも」

 撫でれば、えへへ、とくすぐったそうに肩を竦めて、喜んでもらえてよかった、と独り言のような――もしかしたら本当の独り言かもしれない声が、俺をさらに嬉しくする。
 牧野がここにいる、それだけでも嬉しいのに。俺が喜ぶかを真剣に考えてくれていたのだろう、その気遣いがひどく嬉しい。

「あのね、これ、ミルクティーに合うようにって作ったんだって」
「へー。なら、ミルクティー淹れたらよかったな」
「と思ったんだけど、もう松本さんが用意してくれてたし、さすがにここに牛乳ないよね?」
「……ないな」
「でしょ? ちょっと途中で牛乳も買おうか考えたんだけど、忙しくしてるところへ乗り込むのに牛乳持ってくるってのもおかしい気がしてやめたの。だからそれはまた今度ね。また買ってくるから。ちなみにあたしはもうカフェで試しました。それはそれはもう――……」

 牧野の話を、明るく弾む声を聞きながら食べるサンドイッチは格別で、食べてきたくせにちょこちょこポテトを摘まむ牧野に笑ったり、まだ三度目の訪問なのに平然と紅茶のお代わりを自ら淹れる牧野に笑ったり……とにかく目の前の牧野を眺めて笑ってばかりいた。
 どんな食事よりも満たされた。
 腹も心も満たされて、自然と言葉が口をついて出た。
 
「実はちょっと後悔してたんだ」
「何を?」
「電話で、ここへ来るか、って言ったこと」

 あまりにも無神経な言葉だったから。
 牧野は、ああ、と頷いて、それから「忘れてたよ」と笑った。

「たしかに電話の時はちょっとだけ思った。あたしはいいの。でも、秘書課のみなさんが嫌だったり困ったりするんじゃないかなって。それこそ、まだ先週末だし、あれ」

 あれとは、秘書課へ紹介したあの日のこと。

「紹介された途端に嬉々として乗り込んで来てるよ、なんて思われたらどうしよう、とか」
「そんなこと――」
「まだあたしがウロウロしないほうがいい人もいるだろう、とか」

 名前を出さなくてもわかる、白川のことだ。
 自分はいい、けれど相手が気にするだろう。ここは彼女の仕事場だ。他の場所ならまだしも、ここに彼女が居づらくなったり、ここで不必要に不快な思いをさせたりはしたくない。遠慮すべきは自分のほうだ。
 牧野はそう言い募った。けれど最後に「でもね」と言葉を続けた。

「でも、このサンドイッチがすっごく美味しかったから。どうしてもこれを届けたいって思った瞬間に、ぜーんぶ吹き飛んじゃった」
「……」
「とにかく、美作さんに食べてほしくて。それだけだったよ」

 あたしなんてこんなもんだよ、と自嘲気味に笑ったけれど、俺は――俺にはわかった。わかってしまった。
 そのすべてが牧野の優しさで、ありったけの気遣いだと。

「だから喜んでもらえて、本当に良かった」

 今度こそ、独り言ではなくきちんと響くその声に、胸の奥が熱くなる。
 牧野は、本当は忘れたりなんてしてない。
 自分がここへ来ることで、何かを狂わせたりはしないだろうかと、きっと必死に考えた。
 白川の存在も、考えるたびに心のどこかがきっと疼いたはずだ。
 それでもここへ来た。――俺のために。俺に会うために。

「……ありがとうな」

 気まずさや疼きは、忘れたふりして。
 大半の社員が帰るだろう時間を見計らって。出来る限り誰に対する負担も最小限になるように、考えて、考えて。
 たった一人で。サンドイッチを両手いっぱいに抱えて。

「嬉しいよ。……本当に、嬉しい」

 伝わりますように。俺の気持ちが、俺の心からの悦びが。幸せが。
 
 願いながら、そっと抱き寄せた腕の中、牧野が小さな声で呟いた。
 きっといつもの独り言。
 嬉しい愛しい独り言。

「あたしも嬉しいよ。美作さんが、笑ってるから」

Fin.
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