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ミルクティー色に、そっと
COLORFUL LOVE view of AKIRA
4

 話を終えて早々、白川より先に執務室を出た。
 パタンとドアが閉まる音を背に、廊下を進む。
 この先に牧野が待っている――思えば自然と足が早まった。

 執務室を出る直前、白川が俺を呼び止めた。
 振り向いた先――ソファの横で姿勢を正し、俺を真っ直ぐ見つめて立つ白川は、このフロアの受付に座る、俺には馴染みの「秘書課 白川萌」だった。

「これからも、よろしくお願いします。美作専務」
「……こちらこそよろしく。白川さん」

 これですべてが元に戻る。俺の勝手な思いなのは百も承知だが、そう感じた。
 もちろん白川の今ある気持ちはすべてなかったことになんてならない。そんなことはわかっている。けれどそこから先は、俺が関知すべきことではないだろう。
 今まで通りの俺と白川のまま、日々を繰り返すより他にはない。
 きっとそれでいいはずだ。
 あとは俺の――俺と牧野の問題だ。ここから起こるすべてのことは、俺が招いたことで、俺がなんとかすべきこと。
 牧野は今、何を思っているだろう。
 そればかりが気になった。

 やがて受付脇ロビーのソファ前に、牧野と松本の姿が見えた。
 名前を呼ぶと、気付いた牧野が俺を視界に捉えてジワリと笑みを広げた。安堵にも似たその笑みに、俺も笑みを返して歩み寄る。
 廊下を抜けてロビーへ出たところで、牧野と松本から少し離れた――受付カウンターを挟んで反対側のスペースに、小野がいることに気付いた。そしてその隣には佐々木さんも。
 なんでここに?
 疑問が湧いて、けれどそれを問うより先に、そういうことか、とすべてを理解した。

 思いもよらぬこの展開の中で、白川があのタイミングであそこに乗り込んできたことだけが――想いを伝えたいという気持ちはともかく――どう考えても彼女らしくない気がして、今の今までどうにも釈然としなかった。けれど、それが彼女だけの意思ではなかったとしたら。そう仕向けた人間がいたのなら……。
 この二人ならやりかねない。むしろ至極当然にさえ思えた。
 まったく、無茶をしてくれたもんだ。
 ひとりごちながらも、今の最優先は牧野だと、すべてを脇へと追いやって、牧野の前で足を止めた。
 廊下を歩きながら見た腕時計は、牧野が執務室を出てから十分以上が経過していることを示していた。白川と話していた俺はともかく、ただ待つだけの牧野にはとても長く感じただろう。

「悪い。待たせたな」

 募る罪悪感に、ごめん、と小さく謝ると、牧野は笑顔で、ううん、と首を振った。

「もういいの?」
「うん。今度こそ行こう」

 背中に手を添えて歩を促すと、歩き出した牧野が数歩足を進めたところで、小さく会釈をした。
 誰への会釈かは見なくてもわかる。本音を言えば、俺自身はきれいに無視して歩き去ってしまいたいところだけれど、それはさすがに大人げないとわかっているので、敢えての無表情で視線を向けた。
 そこには、隙のない笑顔に僅かな罪悪感を滲ませた――「と周囲に見える表情を作った」と言うべきかもしれない――佐々木さんと、罪悪感より好奇心が滲んでしまっている小野。

 はっきり言って、俺の気持ちとしては最悪で、思っている以上に深刻だ。ようやくここまでたどり着いたのに。今こんなところで牧野の気持ちを無駄に乱したくなんかなかったのに。
 仕方がないことはわかっている。二人の関係を公にしたところで、そのすべてをさらけ出すわけではない。俺と牧野がどんな問題を抱えていて、どんな精神状態でいるか、他人には知る由もない。それはどこの恋人同士もそうだろう。当事者にしかわからないことは山ほどある。だからこちらが起こしたアクションに対して、周囲がどう出ようとも、時には受け止め、時には受け流し、いついかなる時も乗り越えていかなければならない。
 今回のことはまさにそれだ。そして俺は、その可能性を頭のどこかで予期していて、覚悟もしていた。
 でも、今日の今日、こうなる予定じゃなかったんだ。……思えば思うほど、自分の甘さが恨めしい。考えれば考えるほど、己の思慮の浅さに嫌気がさす。

 上司としても友人としても言いたいことはゼロではない。でも今ここで口を開けば、苛立ちついでに恨みがましい嫌味をぶつけてしまうだろう。そしてまた自己嫌悪に陥ることは目に見えている。
 だから今は口を噤もう。
 二人がしたことは、可愛がっている後輩を、想い続ける愛しい人を、大切に思うからこその「無茶」なのだから。立場が変われば見方も正義も変わる。ただそれだけのこと。
 それ以上の感情は、今ここでは不要だ。
 わざとらしく嘆息して微笑めば、佐々木さんは小さく頭を下げ、小野は小さく手を挙げた。



「専務、牧野様、本当に申し訳ありませんでした」

 一足早くエレベーターの前で俺たちを待っていた松本が、突然頭を下げた。
 この事態への謝罪だろうことはすぐにわかった。決して松本のせいなんかではないのだが、こうして頭を下げるのも、その立場を考えれば当然のこと。でも牧野は大いに慌てふためいた。

「謝ったりしないでください。松本さんは何も悪くありませんし、そもそも謝られるようなこと、全然ありませんから。むしろ感謝してます。いつもいつもこっちの都合で振り回してるのに、こんなに良くしてもらって……ありがとうございました。だから……あー、美作さんからもちゃんと言って」
「……ということだ、松本」
「なによその、以下同文みたいな言い方」
「松本にはこれで伝わるから」
「ほんとに?」

 顔を上げた松本が、ふっと小さく笑みを零して「はい、伝わりました」と今度は笑顔で一礼した。「ほら」と視線を投げると、少しだけ不満そうに、けれどどこかほっとしたように、「松本さんは甘いなあ」と牧野が笑った。
 そんな牧野に俺のほうがほっとして、でも尚その笑顔の奥に潜む何かを探してしまう。なにひとつ見落としたくないと、強く思ってしまう自分を、もうどうすることも出来なかった。
 
「牧野様!」

 不意に、牧野の名を呼ぶ声が響いた。
 反射的に振り向くと、廊下の奥から走ってくる白川の姿が飛び込んできて、その速度は徐々に落ち、そして俺たちにたどり着くより前に完全に足が止まった。 
 きちんと話はついたはずだと思っていたのに、まだ何かあるのだろうか。
 とっさの防御本能で、牧野を引き寄せようと腕を伸ばしかけたその時。

「牧野様、申し訳ありませんでした。貴重なお時間を頂戴して、本当にありがとうございました」

 白川が口にしたのは、謝罪と感謝の言葉。そして――。
 
「ご婚約おめでとうございます。美作専務の選ばれた方が牧野様であることを、美作商事の社員として、それから――美作くんの同期として、とても嬉しく思います。誇りに思います。本当に……本当におめでとうございます」

 ――真摯な、祝福。
 これは白川の、今の素直な気持ちなのだろう。話が出来たことも、今の気持ちになれたことも、すべては牧野のおかげだから。
 けれど牧野の中に、それはどう響くのだろう。秘書課の社員らしい礼儀正しく美しいお辞儀をした白川に、そのまま頭を上げようとしない白川に、牧野は何を思うのだろう。
 それが気になって、隣に立つ牧野をそっと窺い見た。
 その横顔は、泣いても笑ってもいなかった。
 驚きや戸惑い、そして嬉しいとも悲しいともとれる、読み取ることが難しい複雑な表情を浮かべた牧野は、目をそらすことなく白川を見つめている。
 背後でエレベーターの扉が開いても微動だにしないその様子に俺のほうが苦しくなって、思わず牧野の腕を引いた。はっとしたように白川から視線を外して俺を見た牧野に「行こう」と囁くと、小さく頷き従った。
 エレベーターに乗り込んでから、牧野は何かを考え込むように俯いていた。
 それをじっと見つめる俺の視界の端で、扉が閉まり始める。
 その瞬間、牧野が顔を上げた。

「ありがとうございました、白川さん」

 はっきりとした声で告げ、そして――笑った。弾けるような笑顔で。
 扉が閉まり、ゆっくりとエレベーターが動き出す。その動きに同調するかのように、牧野の顔からゆっくりと笑みが消えていった。
 言葉にし尽せない複雑な感情が渦巻いたのは、俺だろうか、それとも目の前の牧野だろうか。
 たまらなくなって、気付けば牧野を後ろから抱きすくめていた。

「美作さん、ダメだよ。ここエレベーター」
「知ってる」
「なら、離して」
「誰も乗ってこない」
「そういう問題じゃない」

 口では窘めても腕を振りほどこうとも抜け出そうともしない牧野に、俺はさらに腕に力を込めた。

「ごめん」
「……」
「ごめん……」

 牧野は小さく息を吐いて、俺の腕にそっと手を置いた。

「なんで謝るの?」
「待たせたし、嫌な想いもさせた」
「話があるって言ってる社員の話を聞くのは当然のことで、部外者のあたしが席外すのも当然だから――」
「わかってただろ? 何の話か」
「……」
「だから、先に出たんだろ?」
「……」
「……ごめんな」

 エレベーターが止まり、扉が開く。
 牧野の手が俺の腕を小さくぽんぽんと叩いて「降りよう」と、それだけを言った。



「あ、そっか。もう歩いてたら間に合わないもんね」

 エレベーターを降りて間もなく、進む出口の先が地下駐車場だということに気付いた牧野はそう言いながら、腕時計を見た。

「悪いな。楽しみにしてたのに」
「ううん。平野部長と香奈美さんを待たせたらいけないもん」
「また今度、ゆっくり歩こう」
「うん。楽しみにしておくね」

 それきり牧野は口を噤んだ。
 エレベーター内での話を宙に浮かせたまま、ただ黙って俺の隣を歩く。前を見つめて、寒さにほんの少し肩を竦めて、いつもと変わらない足取りで。
 二人分の靴音が駐車場内に響いていた。

 車に乗り込んで一息ついたところで、俺は牧野に切り出した。

「牧野」
「ん?」
「さっきの話の続きだけど」
「さっき?」
「エレベーターでした話」
「……」

 車に乗ったら、もう一度話をしようと決めていた。
 そのまま終わったことには出来ないし、きちんとしておきたいと思っていたから。

「牧野、俺は――」
「謝ったりしないでね。美作さんは何も悪くないんだから」

 俺の目を見てきっぱり言い切ると、牧野は小さく微笑んで、それから視線を車の外へと移した。

「美作さんがモテるのは前から知ってる。英徳にいた頃だってそうだったし、社会人ともなればもっとだよ。ひそかに想いを寄せてる人は社内にも社外にもたくさんいると思う。……大木さんもそうだった」
「まき――」
「わかってるから。そういう人がたくさんいること。白川さんも、その中の一人」

 大木百合の名前を出した牧野の横顔がほんの一瞬傷ついて見えて、思わず掛けかけた俺の声は、牧野によってかき消された。

「同期なんだよね?」
「え? ああ、うん」
「小野さんとかと一緒ってことだよね」
「うん、そうだな」
「なら尚更だよ。好きになってもちっとも不思議じゃない。改めて言うのもなんだけど、美作さん、素敵だもん。モテて当然」

 だから気にしてないよ、と牧野は再び俺を見た。
 牧野の気持ちが突き刺さる。それは牧野の素直な気持ちで、でもたくさん考えて整理し尽した上の気持ちだということもわかるから。

「牧野、無理してない?」
「無理?」
「嫌だとか、傷ついたとか、不安になったとか、そういうの言ったら俺が困るだろうとか、そんなふうに思ってない?」
「……」
「どう?」

 探るように瞳を覗き込むと、牧野は視線をわずかに揺らし、「それは……」と小さく呟いた。

「それは何も感じないって言ったら嘘になるよ。当たり前にモヤモヤするし。傷ついたりはしてないけど、ほんのちょっとは不安になったよ。素敵な人だなって思ったから」
「だったら――」
「だからって、いちいちぶつけてたらキリがないし、こればかりはどこまでいっても消えないもん」

 牧野は力なく笑った。
 自分の意思とは別のところで心にわだかまりが生じるのは、相手が自分の特別だから。――俺にもよくわかる。コントロールしたくても、どうにもできない想いがあったり、抱えたくもない感情ばかりが湧き上がって身動きが取れなくなることがあることも。
 わかるからこそ、心配だった。牧野の心が。
 牧野の手をそっと握る。ゆるりと指を撫でると、牧野の指が俺の指を撫で返した。

「でも大丈夫だから、あたし」
「本当に?」
「うん。帰り際に白川さんがあんなふうに言ってくれて、それ見てたら、ちゃんと終わったんだなってわかったの」
「終わった?」
「美作さんを想うこと」
「……」
「まだきっと無理してるに違いないけど、彼女なりにけじめがついたんだなってそう思ったの。それと、」

 牧野の指が、再び俺の指を撫でる。

「白川さんは、これからもあそこでの毎日が続くんだなって思った」
「……それは」
「当たり前だよね、白川さんは秘書課の社員だもん。当たり前なんだけどさ。でも、フラれた相手に毎日会うって結構しんどいよね。それでも白川さんは毎日あそこで働くんだよ。美作さんの姿を見て、胸が痛くなったり、辛くなったりしても。それでも会社のために、美作さんのために、毎日過ごすんだよ」
「……」
「なんかそんなこと考えたら、思わず、ありがとうって言っちゃった。あたしの声なんて、聞きたくなかったかもしれないのに」
「牧野……」

 エレベーター前で白川をじっと見つめていた牧野は、エレベーターの中で俯いていた牧野は、そんなことを考えていたのかと、今初めて知った。
 傷ついたとか、そんな感情よりももっとずっと先のところに牧野は立っていた。
 それを知って、何も言えずにいる俺の手を、牧野の手がぎゅっと握った。

「だからね、あたしは大丈夫。白川さんがけじめをつけたってことは、美作さんがピリオドを打ったってことでしょ?」

 だから謝ったりしないで、と牧野は笑った。
 愛しさがこみ上げる。目の前で笑う牧野に。俺の手を、ぎゅっと握る牧野に。
 俺が牧野を守らなきゃならないのに、守りたいのは俺なのに、俺が牧野に守られている。繋いだ手から牧野の温かい心が流れ込んでくるようで、胸の奥が熱くなる。
 愛しくて、たまらなくて、もっと近づきたいと思った矢先、牧野の瞳がくるんと動いた。

「それとも、謝ってもらったほうがいいようなこと、なんかあった?」
「ん?」
「実は少しだけ絆されたとか」
「は?」
「あたしがいなくなった執務室で、抱きしめたとか」
「まさか」
「じゃあ、思わずキスしちゃったとか」
「するわけないだろ」

 悪戯めいた笑みを浮かべて「頭撫でるくらいは、まあ許してもいいよ?」と言った牧野に俺はふっと口元を緩めて、「してないよ」とその身体ごと抱き寄せた。
 バランスを欠いた牧野が「うわっ」と小さく声を放ち、俺の腕にしがみつく。
 ぎゅうっと抱きしめると、牧野の腕が俺の背に回り、ゆっくりと撫でるように動いた。
 
「おまえだけだよ。抱きしめるのも、キスするのも」
「ほんと?」
「ほんと」
「頭撫でるのは?」
「それも」
「えーうそ。双子ちゃんの頭は撫でるでしょ?」
「……なんで双子が出てくるんだよ。あいつらは妹だろ」
「あはは」

 牧野の笑い声が心地良く耳元に響く。
 
「おまえだけだよ。こんなに愛しいと思うのは」
「……うん」
「今までも、今も、これからもずっと」
「……うん」

 柔らかに頷いた牧野の頬に触れ、そっと唇にキスを落とす。
 ここ駐車場、と吐息交じりにされた抗議は、聞こえないフリをした。

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