「牧野さんもお願いするでしょう? 靴のサイズとか教えてもらっていいかな?」
平野に頼まれたらしい社員が衣装の手配の有無を確認に来た時には、つくしの中の迷いは消えていた。
「すみません。あたしはいいです」
「え、いいの? ドレスある? 正装か準正装よ?」
「はい。知り合いに借りれると思うので」
本当は、借りるわけではなくて、美作邸に用意されている自分のドレスを着るだけ。
自分でお金を出したわけではないので、自分のものという意識は薄いのだが、あそこに揃えられているものは紛れもなくつくしのためのもの。
けれど、それを言うわけにはいかないので、借りると伝えた。
でも、やはり半信半疑なのか心配なのか、訝しげな表情で再度確認をされた。
「本当に大丈夫? 美作本社のパーティーだから、失礼がないようにしないといけないんだけど……」
それは当然ともいえる反応だったかもしれない。
普段のつくしからは、到底そんなフォーマルなドレスを持つ知り合いがいるとは想像しにくいのだろうから。
「あの、じゃあ、今すぐ連絡して確認します」
「そうしてくれる? 全員に訊いて、最後にもう一度来るから」
「はい。わかりました」
つくしはすぐに席を立ち、廊下の小さな休憩スペースで美作邸に電話をした。
いつもの調子で「あら、つくしちゃん」と電話に出たあきらの母親に事情を話す。
予想通り二つ返事で快諾してくれて、「美味しいお菓子を用意するから早めにいらっしゃい」と声を弾ませた。
本当に思った通りの反応で思わず笑みがこぼれた。
電話を切って何気なく見た窓の外はすでに真っ暗で、クリスマスに合わせてライトアップされた通りの樹木が光り輝いて見えた。
つくしはソファに腰を下ろしてしばらくぼんやりとしていたが、やがて小さく息を吐くと、携帯電話を開いてメールを打ち始めた。
あきらにパーティーのことを話しておかなければならない。今の時点では断ることなど出来そうにもないが、あきらの意見を訊く必要がある。そう思った。
業務連絡に近いメールはあっという間に打ち終えて、つくしは指を止めた。
――――
お疲れさま。仕事はどうですか? こっちはようやく一段落しました。連休明けからは通常に戻れそうです。
突然なんだけど、明日二十三日に、美作商事主催のパーティーに出席することになりました。部署全員で出席してほしいっていう社長命令のようで、私も行くんだけど……まずいかな? もし行かない方がいいならメールください。出席して大丈夫なら、特にメールは要らないからね。
――――
自分で書いておきながら、なんて表面的な心のこもらないメールだろうと呆れた。
本当に伝えたいことはもっと別にある。しかも、自分に誠実かどうかで判断するならば、このメールはあまりにも不誠実。
でも、本音を書くには、あとほんの少し勇気が足りない。
――あたしって、ダメだなあ。
弱腰な自分が悲しくてため息が零れる。けれどどうしようもない。今すぐ勇気が出るようには到底思えなかった。
つくしは迷いを立ち切るように、送信ボタンに指をかけた。
つくし、と呼ぶ声が聞こえたのは、その時だった。
顔を上げると、そこには美穂の姿があった。
「ドレス、どうだった?」
「あ、ごめん。先輩、探してた?」
「ううん。まだみんなに訊いてる。どうしたかなって思って来てみただけ。で、どうだった?」
「うん。大丈夫。借りれたよ」
「髪のセットとかは? それもしてもらえるの?」
「うん」
「さっすが良い知り合いがいるね」
美穂はクスリと笑った。
「先輩、やたら心配してたよ」
「だよね」
「まあ、そんなドレス持ってる知り合いなんて普通はいないもん。あたしは、つくしが英徳出身だってことを知ってるから納得なんだけど」
彼女は、つくしが英徳時代の知り合いからドレスを借りると思っている。それは真実とは違うのだけれど、ここはそのまま話を合わせることにした。
「美穂、言ってないよね?」
「もちろん。つくしが自分で言うまでは私も知らんふりを通すから安心して」
「うん。ありがとう」
「でも、いいなあ。私もそんな知り合いが欲しかった」
すっごく羨ましい、と美穂は笑った。
つくしもそれに応えるように笑ったのだが、もしかしたら、あまりうまく笑えなかったかもしれない。
美穂はつくしをじっと見つめて、それから隣に座った。
「なんかあった?」
「え?」
「来た時、真剣な顔で携帯握りしめていたからさ」
つくしは苦笑いを浮かべた。
「メール送ろうとしてたの」
「彼氏?」
「うん」
「そっか。もう送った?」
まだ、と首を振ると、「送らないの?」と訊かれた。
つくしは曖昧に微笑んで、それから携帯電話を見つめながら小さな声で言った。
「ねえ、美穂」
「ん?」
「……寂しい、って言ったら、困らせるかな?」
その言葉は、自然と口から零れ落ちていた。
言ってからハッとして、何を言っているんだろうと途端に恥ずかしくなった。
つくしは慌てて立ちあがると、言ったことを否定するように顔の前で手を振った。
「ごめん、何でもない。まったく、何言ってんだろうね。忘れて」
照れ笑いを浮かべるつくしを、美穂は笑うどころか、真剣な面持ちで見つめていた。
そして、静かに言葉を紡いだ。
「言ったらいいと思うよ。むしろ、言ったほうがいいと思う」
「……美穂」
「思ったことを言わなきゃいけない瞬間って絶対あると思うんだ。相手を困らせるかもしれないって思う時でも。相手のためにも、自分のためにも、言った方がいい時って絶対あるよ」
美穂は立ちあがると窓際に歩み寄り、街並みを見つめた。
「お昼に話した時に思ったんだ。つくしは我慢しすぎなんじゃないかなって。彼の仕事が大変なことも、彼が自分の思うように時間が使えない事も理解出来てて、だからそんな彼を気遣ってそのペースを乱すような無理な要求をしないつくしは偉いと思うし、出来た彼女だなって思う。だけど自分のことももっと大切にしなきゃ。自分の気持ちを伝えることだって、我慢するのと同じくらい、すごく大切なことだと思うよ?」
つくしは涙が出そうで、言葉を発することが出来なかった。
あきらが海外出張に行った時はいつも、つくしは毎日、必ず一通はメールを送っていた。いつでも、何らかの形で返事が来た。電話だったり、メールだったり、すぐにだったり、時間を置いてだったり、それはいろいろだったけれど、必ず返事が来た。
今回も、いつもと同じようにつくしは毎日一通メールを送っていた。
音信不通になってからも、それは変わらず続けていた。
内容は、他愛もないことだった。寂しいとか会いたいとか、連絡がほしいとか、そんなことは書けなかった。
あきらの負担になりたくなかった。
そんな気持ちは書かなくてもきっとわかってくれるだろうから、だから敢えて書くことはしたくなかった。
でも、限界に近かった。
返事が来ない状態が数日続くと、想いは一方通行に思えてくる。自分ばかりが寂しくて、自分ばかりが会いたい気持ちを抱えているのではないかと、そんな想いが湧いてきて、せつなくて悲しくて息苦しくてたまらなかった。
それはつくしの勝手な思い込みなのかもしれない。けれど、それほどつくしは追いつめられてきていた。
「連絡がないことなんて、今までなかったの」
つくしの声は、僅かに震えていた。
「今までだって海外出張はあった。でも、どんな時でも必ず毎日連絡があったの。きっとすごく気を使わせてるって思ったから、毎日なんていらないよって言ったこともあったんだけど、『すぐに会いに行けない距離だから余計に連絡は大切だろ?』って。だから……連絡がないのは、たった数日なんだけど、」
「その数日が、ものすごく長いんだね」
つくしはこくりと頷いた。
「頭ではわかってるの。本当に大変な時ってあるし、そのことでいっぱいいっぱいで他のことに気が廻らないことだってある。あたしだってそうだから。彼はもっともっと責任ある立場にいる人だし、あたしなんかより何十倍も大変だから、連絡出来ないことだって仕方ないんだ、って。でも……」
わかっていても、寂しくてたまらなかった。
「でも、なんか苦しくて。寂しいって気持ちはいつも同じように抱えるのに、連絡がないとすべてが一方通行になったような気がして」
「うん、そうだよね」
「でも、困らせたくないし、負担に思われたくないし……あたし、去年のこの時期も、やっぱり同じように寂しくって、我儘言って困らせちゃったから」
「そうだったんだ」
つくしは小さく頷いて、それから窓の外を見つめた。
やがて、 はああと大きく息を吐いた。
「今年は絶対大丈夫って思ってたのにな。あたしも忙しいから大丈夫って」
「そんな簡単じゃなかったね」
「ホント。うまくいかない。それどころか、あまりにもいろいろ考え過ぎて、余計なことばっかり思っちゃう」
「余計なこと?」
「忙しいところにあたしの気持ちぶつけて困らせたりしたら、今度こそ嫌われちゃうかもしれない、とか」
きっと考え過ぎなんだけど、と小さく笑ったつくしに、美穂も笑った。
「それは考え過ぎね。そんなこと絶対ないと思うもん。私、つくしの彼のこと全然知らないけど、それはないって断言出来る気がする」
「そう?」
「だってつくし、すごくすごく大切にされてる気がする」
美穂は、真っ直ぐにつくしを見つめた。
「忙しくなる前、午前中にお休み取った日があったでしょう?」
「あ、うん」
「あの時って、彼と会ってたよね?」
「うん。空港に見送りに行ってた」
「やっぱり」
美穂はにこりと笑った。
「出勤してきたつくし、すっごく幸せそうな顔してた」
「……え?」
「これは彼と会ってたんだなあって、……言わなかったけど思ってた。つくしはすごく大切にされてるんだなあって思ったの」
「……」
その通りだった。つくしはたしかに、いつでもあきらに大切にされていた。いつでもその優しさに包まれていた。
「だからどんなこと言ったって、それがつくしの本当の気持ちなら、彼はきちんと受け止めてくれる気がする。っていうか、言ってほしいって思ってるんじゃない?」
「言ってほしい?」
美穂は頷く。
「寂しい時は寂しい、会いたい時は会いたい、例えそれが現実的に無理だとしても、すぐに叶えてあげられなくても、つくしの気持ちをきちんと受け止めたいって彼は思うんじゃないかな。一人で抱えてたら、余計に心配しちゃうよ、きっと。だって彼が大切にしてるのは、つくしでしょう?」
美穂のその言葉が、つくしの中に響き渡る。
「きちんと伝えるべきだと思う。今の彼とつき合い続ける限りは付き纏ってくることでしょ? いっつも我慢するんじゃ、どこかで疲れちゃうよ。……まあ、仮にそれを受け止めてくれないんだったら、別れた方がいいよ。そんなことで嫌うような人、つくしにふさわしくないもん。――でも、受け止めてくれる人でしょう? だから、今まで信じて待っていられたんでしょう?」
「……」
ふいに、あきらに言われたその言葉が浮かんだ。
「会いたかったら会いたいって、寂しかったら寂しいって、ちゃんと言えよ。言われたら、すごく嬉しいんだから」
あきらはたしかにそう言っていた。
あきらにつくしの想いが届かないわけがない。寂しいことも会いたくてたまらないことも、早く帰ってきてほしいと願っていることも、連絡がなくて不安に思ってることも。
そのまま話せば、そのまま想いのすべてを受け止めて包んでくれるに違いない。そんなことを負担に思うような、小さな男(ひと)ではないのだから。
もやもやした胸の奥が、すっと晴れていく気がした。
「ありがとう、美穂」
「ん?」
「あたし、寂しい寂しいって思うだけで、彼の気持ちを信じることを忘れてたかも。あたし、言ってみる。寂しい気持ちも、会いたい気持ちも、ぶつけてみる」
「うん。そうだよ」
「うん」
美穂は満面の笑みを浮かべて、つくしの肩をぽんっと叩いた。
「さっ! そうと決めたならすぐにメールしたほうがいい。ぐずぐず後回しにすると、また余計なこと考えちゃったりするかもしれないでしょ?」
「そうだね」
「先輩には、ドレス借りられたって私が伝えておいてあげるね」
がんばってー、と美穂は小さく手を振り、先に戻って行った。
つくしはその背を見送って、再び携帯電話を開くと、先程のメールに続きを書いて、そして今度こそ送信ボタンを押した。
――よしっ。……さて、もうひと頑張りしますか。
ほんの些細な事で落ち込んで、ほんの些細なことで立ち直れる。
相変わらずな自分に呆れる。
けれど今は、それでよしとする。そんな自分も悪くないと思う事にする。そんな自分でいたほうが、笑顔であきらを待てる気がするから。
つくしは、幾分スッキリとした気分で、オフィス内へと戻った。
――――
……嘘。本当はどっちでもメールしてほしい。美作さんの声が聞きたい。寂しくて、どうしていいかわかんないよ。いつでもかまわないから、時間が取れたら連絡ください。忙しいのに我儘言ってごめんなさい。でも、待ってます。
――――