*
「それにしても緊張するなあ。私、こんなパーティー出たことないからさ。マナーとか全然わかんないんだけど」
「大丈夫だよ。主催者側だって、何も知らない人間が来てることくらいわかってるだろうし、普通にしてたら何も言われないよ」
「そうかな」
「うん。そうだよ」
他の社員達とロビーで合流したつくしは、美穂と並んでソファーに座ると、何気ない会話をしながら、まだ来ていない社員を待っていた。
美穂は、慣れない場所と慣れない格好に緊張気味で、キョロキョロと周囲も見渡しては深呼吸を繰り返していた。それは他の社員も然程変わらず、部長の平野ですら、落ち着かない様子で立ったり座ったりを繰り返している。
そんな中、つくしは一人ぼんやりとしていた。
結局、あきらからの連絡は未だ来ていない。
昨晩は、連絡が来るかもしれないから起きて待っていようと意気込んでいたのだが、ここ数日の疲労が溜まっていたのか、携帯電話を握りしめたままいつの間にか眠ってしまったようで、気付いたら朝だった。
慌てて電話のディスプレイを確認したが、着信はなかった。眠ってしまったことへの後悔の上で、連絡が来ていなかったことに対する安堵と落胆が交差して、複雑な気持ちを抱いた。
ただ、元気で、相当忙しくしているらしいことだけはわかった。
それを知ったのは、午後から訪れた美作邸。あきらの母親からだった。
*
仕事を終えてそのまま美作邸を訪れると、昼食とお菓子がたっぷりと用意されていた。
まるで何日も待っていたと言わんばかりの勢いで飛び出してきた絵夢と芽夢にべったりと甘えられながら、楽しいひと時を過ごした。
お菓子を頬張った絵夢が、じっとつくしを見つめて訊いた。
「お姉ちゃま、お兄ちゃまがいなくてさみしい?」
向けられた真っ直ぐな瞳とその問いかけに、つくしはドキリとした。
そうね、とっても寂しい。
彼女にならば真っ直ぐに答えられる気がして口を開きかけた時、反対隣りから再び声がした。
「寂しいに決まってるじゃないの。ね? お姉ちゃま」
問われた瞳や声と限りなく似た瞳と声を持つ芽夢だった。
やはり真っ直ぐつくしを見て言葉を続けた。
「絵夢も芽夢もすごーくすごーく寂しいの。でもね、ママが教えてくれたの。おりこうにしていたらすぐに帰ってくるわよ、って」
「そう。芽夢の言う通りよ。だから絵夢も芽夢も、おりこうにしているの」
二人は顔を見合わせて、「ねええ」と微笑んだ。
つくしも笑顔で小さく頷く。
「そうね、二人の言う通りね」
「お姉ちゃまもおりこうにしててね?」
「そしたらすぐに帰ってくるから!」
「うん、おりこうにしてる」
つくしの言葉を訊いて、二人は嬉しそうに笑った。
それを見ていたあきらの母親がニコニコと笑いながら、絵夢と芽夢に話しかけた。
「絵夢、芽夢。つくしちゃんとママはこれから少しご用があるからね。二人はおりこうに遊んでなさい」
二人が「はあい」と返事をするのを確認して、あきらの母親はつくしをリビングから連れ出した。
「ごめんなさいね、つくしちゃん」
「え?」
「絵夢も芽夢もあきらくんがいなくて寂しいの。だからいつも以上につくしちゃんにべったりだったわね」
「ああ、いいえ、全然」
大丈夫です、と答えたつくしに、あきらの母親はにっこりと笑い、それから小さなため息を漏らした。
「あきらくんも、もっと連絡してきてくれたらいいんだけど」
つくしは、このチャンスを逃してはいけないと思った。
「あの、あんまり連絡こないんですか?」
「え? ああ、あきらくん? そうねえ。ここ数日は全然」
「そうですか……」
律儀なあきらは、面倒だ面倒だと言いながらも家にも毎日のように連絡をしていることをつくしは知っていた。「連絡しないと煩いから」なんて言いながら、本当は母親と小さな妹達を残していることを気にかけて気遣っていることは明白だった。
けれどやはりここ数日は連絡をしてきていない。
つくしのところばかりでなく家にもとなると、さすがに何かあったのかと心配になった。けれどその心配は、ずらりと並んだドレスを物色しながら呟いた母親の一言であっさりと払拭された。
「ものすごーく忙しく働いてもらってる、ってパパが言うの。近くにいるなら電話を代わって、って言ったら『そんな暇ない、元気だって伝えろよ』って不機嫌そうな声だけ聞こえてきたわ。パパもあきらくんを頼り過ぎなのよ」
あきらの母親は頬を膨らませた。
つくしの中にぞわぞわと広がりかけてた不安が、しゅううっと萎んだ。
「じゃあ、元気は元気なんですね?」
「ええ。元気みたいよ。……あら、つくしちゃんにも連絡ないの?」
「そうなんです。って言ってもここ数日ですけど」
「まあ!」
母親は目を丸くし、それから眉間に皺を寄せた。
「あきらくんったら、いくら余裕がないからってそれはダメね。ごめんなさいね、つくしちゃん。帰ってきたら私からきつく言っておくから、許してね」
「あ、いえ。忙しいんだろうって思ってたんで」
「ダメよ、ダメ。私達はともかく、大切な彼女を不安にさせるなんて絶対ダメ。あきらくん、つくしちゃんが優しいからって甘えてるんだわ。まったく……」
怒り心頭なあきらの母親に、つくしは思わず笑みがこぼれた。
その様子が可笑しかったからではない。自分のために必死に怒ってくれるその気持ちが嬉しかったから。そして、あきらが元気そうだとわかって安堵したから。
――パーティーが終わったら、もう一度メールしてみよう。
つくしの心はふわりと軽くなっていた。
*
「さて、じゃあそろそろ行くぞ」
平野のその声に、つくしは我に返った。
どれくらいぼんやりと考えていたのかは定かではない。けれど、気付けば部署内の全社員と社長、つまり、このパーティーに出席予定の全員が揃っていた。
「いよいよね」
「なんだかドキドキするね」
「ねえねえ、あの人達も同じパーティーかな」
そわそわざわざわとする同僚や先輩社員と一緒に、つくしも会場へと向かう。
受付を済ませクロークに荷物を預けると、パーティー会場へと足を踏み入れた。
すぐに他の招待客から声をかけられた社長は――これは至極当然だが――、「自由にパーティーを楽しんでいいから」とだけ言い残して、あっという間に姿を消した。
「自由にって言われても……」
困ったな……と呟く平野を、他の社員がくすくすと笑った。
「きっと社長も、美作社長にそうとしか言われていないんでしょうね」
「おそらくな。まあたしかに、社長は顔も知れ渡ってるから挨拶で大変だろうが、俺達は違うもんな。ざっと見渡しても、今のところ知り合いと呼べる人間は一人もいない。顔を知ってるって人なら、ちらほらいるけど」
「部長でも?」
「そりゃそうさ。出席してる人間の大半は、社長クラスなんだから」
それはたしかに、その通りだった。
「まあ、みんな適当に食べたり飲んだりしてるようだし、俺達もそうしよう。そのうちまた社長も戻ってくるだろうし……な?」
その場にいた全員がなんとなく頷いて、会場に入る時に受け取っていたシャンパンで、小さく乾杯をした。
しばらくすると、周囲がざわつき始めた。
一体何だろうと見回してみても、これといった変化はない。
「ねえねえ、つくし。なんかざわついてない?」
「うん。私もそう思ってるんだけど……もしかしたら、そろそろ本社の社員から挨拶とかあるのかな」
「ああ、そっか。なんかどうぞどうぞって言われるまま中に入って、渡されたものを適当に飲んだりしてるけど、そういうのってまだなかったね」
「うん」
本社主催のパーティーなのだから、そういう類のものがあっても不思議はない。むしろ当然あるだろう。
ざわつきは、その前兆なのだろうと思った。
けれど、小さなざわつきはやがて喧騒と呼べるほどになり、やがて信じられない話が飛び込んできた。
「どうやら、美作社長と美作専務が到着したらしい」
「え? 社長と専務? 出席されないんじゃなかったんですか?」
「ああ。海外にいるからってことだったんだけど、急遽帰国したみたいだ」
「うっそー」
「嬉しい! 美作専務にお会いできる!」
つくしは一瞬、何の話だが全くわからずに、茫然と立ち尽くした。
――美作社長と美作専務? ……え? 美作さん?
信じられなかった。信じられなかったけれど、それならば、この喧騒も理解できた。
咄嗟にバッグの中の携帯電話を見た。着信を知らせる表示はない。やはり連絡は来ていない。
けれど、この噂が本当ならばあきらは帰ってきている。
あり得ない話ではない。これは美作のパーティーなのだから。
連絡もなく帰ってきたことは少し気になる点ではあるけれど、でも、そんなことはどうでもよかった。
ただただ、嬉しかった。それが本当だとしたら、つくしは叫びたいくらいに嬉しかったのだ。
ここはパーティー会場。あきらとつくしの関係は誰も知らない。すぐに駆け寄って言葉を交わすことなど出来ないことは、百も承知だった。
それでもつくしの中には言葉が溢れた。
おかえりなさい。お疲れ様。
忙しかった? 疲れた?
待ってたよ。会いたかったよ。
伝えたい言葉が後から後から溢れた。
今すぐ伝えられなくてもいい。帰ってきたあきらの姿をこの目で確認して、もし一瞬でも目が合ったなら……もしかしたら、それだけで想いは伝わる。
そんな想いが膨れて、つくしはたまらずロビーへと飛び出した。
ロビーには、二人の到着を耳にした招待客達が大勢出てきていた。
しかも、女性が圧倒的に多いので、きゃいきゃいとした声があちこちからしている。
招待客はグループ会社の社長が中心なので男性が断然多いのだが、つくし達のように招待された普通の社員も結構いて、その中には女性がたくさんいた。おそらく、そのほとんどすべての人間がロビーに出てしまったのではないかと思えるほど、そこはやけに華やかだった。
まるでアイドルを見つめるような黄色い悲鳴にも似たような歓声が上がり、それが徐々につくしの立つ場所に近づいてきた。
そして、とうとう、その時は来た。
ロビーの向こう、上の階から続く螺旋階段をゆっくり降りてくる、長身にタキシードを纏った男性は、紛れもなく、あきらだった。
――あ……美作さん……。
感動にも似た想いがつくしの中に込み上げて、一瞬で胸をいっぱいにした。けれど、次の瞬間、それらすべてを一瞬にして消し去るような光景が目に飛び込んできた。
あきらは一人ではなかった。
その隣には、深紅のイブニングドレスを纏った美しい女性がいて、あきらは彼女の手を取り、エスコートしていた。
――え……、何、これ。
つくしの顔から、血の気が一気に引いた。
それは、本当に想いも寄らない光景だった。
ドクンと跳ねあがった鼓動はなかなか元には戻らず、苦しくてたまらない。
見てはいけないものを見てしまったような罪悪感が湧いてきて、目を反らそうとした。
けれどそれよりも一瞬早く、あきらの視線がつくしを捉えた。
あきらの柔らかかった表情が、一気に強張り、その口元が小さく動いたのがわかった。
――マキノ……ナンデ?
互いが互いから目を逸らせぬまま、どれほどの時間が経っただろうか。つくしには永遠にも思えるほど長いものだったが、おそらく数秒なのだろう。
あきらは隣の女性に話しかけられて、ハッとしたようにつくしから視線を外した。その横顔は、ひどく気まずそうに見えた。
つくしは、その一部始終を見つめ続けた。目を離すことがどうしても出来なかった。
一気に引いた血の気が、今度は一気に逆流するような感覚に、立っているのがやっとだった。
これ以上見たくない。
そんなつくしの気持ちとは裏腹に、つくしの視線は二人を捉えたまま、どうしても外れてはくれなかった。
隣に立った美穂が話しかけてくるまで、つくしは二人を見つめ続けた。
「うわー……美作専務、かっこよすぎ。芸能人――いや、それ以上ね。しかも、あの女の人は誰? モデルさん? すっごく綺麗。つくし知ってる?」
「え?」
「あの美作専務の隣の美人。知ってる?」
「……ううん。知らない」
「二人ともモデルみたいじゃない? ツーショット、似合い過ぎだよ」
美穂の言う通りだった。
そこにいる誰もが同じことを思ったことだろう。ツーショットが見えた瞬間、その場は感嘆のため息で溢れ返っていたのだから。
つくしとて例外ではなく、なんて似合いの二人なんだろうと思った。
そして、その事実にも、そんなふうに思っている自分にも、ショックを受けた。
螺旋階段を降りきったところで、あきらは一度女性と手を離した。けれどすぐに、至極当然とばかりに女性の手はあきらの腕へと伸び、結局二人は腕を組む形で歩き出した。
おそらく本社の社員だろう、数人の男性が二人の元へと歩み寄り、笑顔で挨拶を交わす。そしてそのままつくし達の前を通り抜け、会場内へと姿を消そうとしていた。
一同の視線が集中する中、ふいにあきらは立ち止まり、周囲に視線を巡らせる。そしてその視線は、つくしを捉えて止まった。
あきらの口が小さく「まきの」と動いたように見えたのは、おそらく気のせいではない。
再び、あきらの口が小さく動いて何かを告げようとした時、今度はつくしが視線を外し、俯いた。
どうしても耐えられなかった。あきらの向こうに、彼を見上げる美しい女性の笑顔を捉えてしまったから。甘えたような視線を彼に向ける彼女を見ることは、たまらなくキツかった。
「美穂、そろそろ戻ろう。美作社長の挨拶があるかもしれない」
「うん、そうだね」
歩き出したつくしに、美穂は黙ってついて行く。
明らかにおかしいつくしの様子を、美穂がどう思ったかはわからない。つくしには、そこまで考える余裕がなかった。
会場内では、今まさに、社長の挨拶が始まろうとしていた。
つくしは知らない。
その後ろ姿をあきらがじっと見つめていたことを。
瞳に悲しみの色を湛え、その姿が見えなくなるまでじっとじっと見つめていたことを。