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水色に浮かぶ雲
COLORFUL LOVE view of AKIRA
2
 ドアを開け、ワゴンを携えて立つウエイターを中へと招き入れる。ウエイターは、数歩入ったところで立ち止まると口を開いた。

「セッティングはどちらにいたしましょうか」
「ああ。ここにこのまま置いていってくれ」

 ほんの一瞬その言葉の意味を考えるように動きを止め、それからにこやかに「かしこまりました」と小さく頭を下げた。
 サインを渡すと、ウエイターは一礼して去った。
 パタンとドアが閉じるのを見届けて、俺はワゴンをそのままに室内へと歩き出す。もちろんベッドルームへ戻るつもりだったのだが、リビングに入ってすぐ、ソファにちょこんと座る牧野に気付いた。
 俺の姿を視界に入れると、牧野は小さく微笑んで立ち上がり、それから不思議そうに首を傾げた。

「あれ? ルームサービスじゃなかったの?」
「そうだったよ。そのまま入口に置いていってもらった」
「そうなの? じゃあ運んで食べようよ」

 牧野は笑顔で俺に近づいてくる。――いや、ワゴンを取りに行こうとこちらに向かってくる。
 俺の横を通り抜けようとしたところで、腕を伸ばしてその身体を抱き寄せた。突然のことに牧野は、うわっ、と小さな声を宙に放った。

「もーう、さっきから。びっくりさせないでってば」
「さっきも今も、別にそんなつもりはないよ」

 俺は牧野の髪に指を差し込みクシャリと撫ぜ、唇を寄せると囁くように言葉を紡いだ。

「なあ、続きは?」
「続き?」
「そう。さっきの続き」
「そんなのないよ。ルームサービスが来たんだから。美作さんがそう言ったのよ?」
「そうだけど。でも、さ……」

 いいトコだったじゃん。囁いて掌を服の上から這わせると、牧野はその手から逃れるように身じろいだ。

「温かいうちに食べたほうが美味しいよ?」
「冷めたら温め直してもらえばいいだろ?」
「ダメだよ。すぐに持ってきてほしいって頼んだのはこっちなんだから」

 牧野の手が俺の手を捕らえ、その動きを押し留める。
 そして、まるで子供を注意する母親のような顔で俺を見つめてきた。
 ――流されることは……なさそうだな。
 俺は抱き寄せる腕の力を抜いてその身体を解放すると、肩を竦めてみせた。

「たっぷり一時間後に持ってこいって言えば良かったよ」

 ため息交じりに吐き出した言葉に、牧野はクスクスと笑った。

「準備するから、美作さんはその間に着替えてね」
「はいよ。……そうだな、あの窓際のテーブルなんてどう? 夜景も見えるしいいんじゃないか?」
「あ、そうだね。じゃあ、あそこにする」
「よろしくお願いします。なんか手伝うことあったら声かけて」
「はーい」

 笑みを交わし、牧野はワゴンの置いてある部屋の入口へ。そして俺は、ベッドルームへと向かった。


 帰国してそのままホテルに直行、チェックインして着替えてパーティー……という慌ただしい流れでここまで来たこともあり、荷物がパンパンに詰まったスーツケースは、必要な物だけ引っ張り出した状態でベッドルームに無造作に置いたままだった。
 吊るして置きたい物も幾つかあったことを今更ながら思い出し、着替えを済ませて今まで着ていたタキシードをクローゼットにおさめるついでに、それらも一緒に片付ける。そして最後に、タキシードの内ポケットを探って一枚の便箋を取り出すと、パタンと扉を閉めた。
 それは、先程フロントで受け取ったもの。
 開け放ったままのベッドルームの入口からリビングの様子を窺うと、牧野の姿は見えなかったが、カチャカチャと食器の触れあう音が聞こえてきた。
 ――今なら大丈夫か。
 俺は封蝋を剥がして便箋を開いた。


――――
今日はご一緒出来てとても楽しかったです。改まってお話したいことがあります。お帰りになったら、連絡下さい。何時でもかまいません。お待ちしております。

090−××××−××××

大木 百合
――――


 中に記されていることは、俺の予想通りだった。
 話したいことというのはおそらく今後の付き合いのことだろう。
 俺はひとつ大きくため息を吐くと、便箋を閉じる。クローゼットにおさめたばかりのスーツケースを再び開き、仕事の書類が入ったケースを取り出すと、書類と書類の間にその便箋を挟み込んだ。
 連絡するつもりは毛頭ない。けれどこの便箋をこの部屋のごみ箱に捨てて、万が一、牧野の目に止まるようなことがあったら嫌だと思った。再びスーツケースをクローゼットに戻し、ひとつ息を吐いて、俺はベッドルームを出た。



 牧野のいる窓際のテーブルに近づいて行くと、俺に気付いた牧野が振り向いて笑顔を見せる。

「ねえねえ、こんなに頼んでたっけ?」
「ん?」
「なんか、テーブルに乗せ切れないくらいあるよ?」

 見れば、小ぶりなテーブルの上には所狭しと料理が置かれ、それでもまだ置ききれないプレートが牧野の手に乗せられていた。

「軽くでいいとは言ったんだけど……ま、いいんじゃねえ?」
「でもこんなに食べられないよ……あ、そっか。残ったら朝食にすればいいね」
「朝も同じ物食うの?」
「何よ、おかしい? そんなのあたしにとっては普通なんだけど」

 まったくお金持ちはこれだから、と牧野は口を尖らせた。
 その表情も言葉も実に彼女らしい。ワゴンの上のシャンパンを手に取りコルクを抜く俺の顔に、思わず笑みが浮かぶ。それを見ていた牧野は、ますます口を尖らせた。

「何笑ってんのよ。いいですよー。あたしだけ食べるから。美作さんは好きなもの注文して食べたらいいじゃない」
「いや、そうじゃなくてさ。せっかくここに泊るんだし、朝はオムレツ頼もうかと思ってたんだよ」

 その俺の言葉に牧野の動きがピタリと止まり、ほんの少し考えるように眉間に皺を寄せ、そしてにっこりと笑った。

「オムレツ、ぜひお願いします」

 本当に美味しかったよねー、と幸せそうな表情を浮かべる牧野は、前回宿泊した時に食べたオムレツの味を思い出しているのだろう。あの時牧野は「美味しい」を連呼して、最後には「感動した」とまで言っていたのだ。

「この残りはどうするんだ?」
「両方食べる」
「朝から?」
「うん。朝から」

 ますます嬉しそうに微笑む牧野に、俺も笑みを零した。
 握ったボトルから、ポン、と小気味いい音を立ててコルクが抜ける。二つ並べたシャンパングラスにコプコプとそれを注ぐと、一つを牧野に渡す。

「ま、朝のことはともかく、まずはこの遅すぎる夕食だ」

 そうだね、とグラスを受け取った牧野は頷く。

「プロポーズ大作戦の成功を祝して」
「プロポーズ大作戦?」
「だろう? あれは一大プロジェクトだ」
「一大プロジェクト! あははは!」

 笑っちゃうよー、と大口を開けて笑う牧野に、俺は幸せを覚える。こんな彼女を見ている瞬間が、とても楽しい。

「じゃあ、シンプルに」
「シンプルね。なに?」

 とても嬉しい。

「二人で歩く未来に。」
「……うん」

 とても、愛しい。

「「カンパイ。」」

 グラスは透き通った音を響かせ、飴色のシャンパンがキラキラと小躍った。




 牧野の弾む声と笑い声に彩られた食事は、その味や実際に食した量以上に俺を満たした。
 食事中に帰国後のドタバタを話したせいか、牧野に「片付けしておくから、シャワーでも浴びてきたら?」と勧められ、それに甘えてシャワーを浴びた。
 スッキリしてリビングに戻ると、牧野は残ったシャンパンをソファに運び、一人静かにグラスを傾けていた。指輪を眺めながら。
 その姿に頬を緩ませながら近づくと、すぐに気付いた牧野が微笑んだ。

「シャンパン、俺のもある?」
「もちろん」

 二人並んでソファに座り、他愛もない話をしながらシャンパングラスを傾ける。アルコールにさほど強くない牧野は、チビチビと舐めるように口をつけているだけなのだが、それでもどことなく目がトロンとしている。

「酔った?」
「まだ平気。これ美味しいね」
「ああ、美味いな。でも結構度数あるから飲みすぎないほうがいいぞ」

 アルコールが回っていつもより無防備になっているのだろう牧野は、「わかってるよー」と甘えるように俺に寄り掛かると、俺をじっと見つめて、ふにゃりと笑う。それがあまりにも可愛くて、そのままキスを落とすと、「んー、美作さんの唇、シャンパンの味」と吐息交じりの声を漏らし、とろりと潤む眼差しを向けてきた。
 これでその気にならない男がいたら見てみたい。耳元に「さっきの続きは?」と囁くと、頬を染めながら、牧野はこくりと頷いた。
 恥ずかしそうに視線を落とす姿も、引き寄せる俺の手に抗うことなく身体を預けてくるその重みも、とにかくそのすべてが愛しくて、ベッドルームへ行くのももどかしく、そのままキスを落としながらその身体を膝の上へと抱え上げ、服の中へ手を差し込んだ。

「んっ……」

 舌を絡めながら肌を弄る、その手は徐々に大胆になり、ブラジャーのホックを外したところで、「待って」と甘い声に止められた。

「ここじゃ恥ずかしい」
「なんで」
「だって、明るい」
「良く見えて嬉しいけど?」
「やだ、恥ずかしい」
「そんなことないよ」
「や、だ……んっ……」

 真っ赤な顔で言い募る牧野の口をキスで塞ぎ、緩んだブラジャーと肌の隙間に手を差し込むと、抗議するために開いた口から甘い声が漏れた。
 それでも尚繰り返される抵抗を受け流しながら、あちこち愛撫を繰り返せば、徐々に抵抗は減り、代わりに甘く切ない吐息がじわじわと増えていく。
 やがて、熱い吐息と堪えきれない嬌声を零しながら俺の動きに合わせて息を弾ませるその姿は、本当に綺麗で、可愛くて、言葉に出来ない程の愛情が心の奥底に湧いて、際限なく溢れ出てくる気がした。
 増すばかりの愛しさの中、俺はどこまでも深く牧野を感じた。

 バスタブにたっぷりの湯を張り、二人で浸かりながら、甘い余韻の残る声でぽつりぽつりと会話をした。情事の後特有の気だるさが漂う空間に響く声がひどく心地良かった。


 一足先にリビングへ戻った俺は、親父に電話をかける。
 コール音は五回目の途中で途切れ、親父の声が静かに響いた。

『もしもし』
「俺。遅くなってごめん」
『いや、全然かまわんよ』
「家?」
『いや、帰ってる途中だ』
「は?」

 時刻はすでに午前三時を回っていた。

「まさか、今の今までホテルにいたとか?」
『そのまさかだ』
「飲んでたの?」
『ああ。子会社の社長も何人かいて、話がいろいろ弾んでな』

 そう話す親父の声もまた、その余韻を残して弾んでいた。
 もともと社交的で人付き合いのいい親父だけれど、こんな遅くまで飲み明かすのは珍しい。少なくとも俺の記憶にはあまりない。余程楽しかったのだろう。

『そういうおまえも随分遅かったな』
「あー、悪い。ホテルには戻ってたんだけど、いろいろ忙しくて」
『……まあいい。で、ちゃんと話せたのか?』
「うん。話せた」
『その感じからすると、上手くいったんだな?』
「おかげさまで」
『……そうか』

 一呼吸置いた後、「良かったな」と耳元に響いた親父の声がひどく優しくて、胸の奥からじわじわと喜びが湧き出るようだった。
 大きく息を吸い込み、その喜びを身体中に行き渡らせる。

「親父、日本に居る間に時間作ってもらえる?」
『もちろん。……明日なんてどうだ?』
「明日? 明日って、今日のこと?」
『そうだな』
「そりゃまた急だな」
『俺がどれだけ楽しみにしてたか、おまえ知ってるだろ?』

 よく知っている。それはそれは、嫌ってほど。待ち切れなくてパーティーに招待してしまったほどなのだから。
 俺は思わずクスリと笑い、それから、親父の提案を了承した。場所や時間など、細かなことを打ち合わせ、もう電話を切ろうかという時、「そうだ、あきら」と親父の声がした。

『火曜日の夜、ロサードの社長と会食するから』
「ロサードって牧野のとこだろ? 来春からの事業の話?」
『そう。だからおまえも同席してもらいたい』
「わかった」
『……おまえ達のことは、どうする?』

 親父の言いたいことはすぐにわかった。
 おまえ達のこと、とは俺と牧野のこと。

 牧野は、俺とのことを職場で公表していない。今まではそれで何の問題もなかったが、この先正式に婚約結婚という流れが待ち受ける中で、この事実をいつまでも伏せておくことは難しい。
まず第一に、おそらく様々なことで会社を休まざるを得なくなる。公表してそれについて理解を求めるか、もしくは仕事を辞めるか。――おそらく牧野の中に後者の選択肢はないだろう。
 そして次に、新事業の担当部署は、偶然にも牧野が所属している部署なのだ。しかも俺は当面その事業の責任者となることが決まっていて、仕事上で顔を合わせることも増えるだろう。それに関しては上手く装う自信もある。けれど、何らかの形で理解してくれる人がいるといないとでは全く違うだろう。
 そういうことから考えても、公表するのなら、今がベストなタイミングかもしれない。
 おそらく親父もそう感じているのだろう。

『仕事の話も大事だが、それも大事なことだからな。この先彼女は仕事をどうするか聞いてるか?』
「まだ聞いてない。でも、まあおそらくは続けるだろうね」
『なら尚更しっかり考えておかないと。まあ、そんなに焦ることもないとは思うが、タイミング的には――』
「うん、わかってる。ちょっと時間もらっていい? 二人でしっかり話したいから」
『それはもちろん』
「もしその場で話すとなったら、社長の他にも何人か呼んでほしい人間がいるんだけど、いいかな?」
『ああ。くれぐれも、おまえ一人で決めるなよ。彼女の仕事のことは、彼女の意思が一番大切だ。辞めるも続けるも、公表するもしないも、彼女が納得出来ない状態で前へ進めてはダメだからな』
「わかってる。……なあ、親父」

 それは言われるまでもないことだった。ただ、確かめておきたいことはあった。

「もし、牧野が結婚した後も今の仕事を続けたいって言ったら」
『……可能性はあるのか?』
「うん。ある。……そしたら俺、出来る限り協力しようと思ってるんだ」

 二人で決めるべきことかもしれない。けれど、多分俺だけでは決められないことだとも思っていた。
 親父が賛同しかねると言った時には、俺の考えも方向転換をしなければならないだろう。俺一人では、今の俺ではまだ、彼女の望みのすべてを叶えきれないし、守りきれないのだ。
 悔しいことだけれど、現実は現実として受け止めなければならない。
 牧野を無駄に喜ばせたり悲しませたりしたくない。だからこそ、親父の意見を聞きたかった。真っ先に。
 親父はしばらく考えるように黙り込み、それから静かに口を開いた。

『わかった。やりたいようにやりなさい。俺も協力するから』

 俺の中に浮かんだのは、ふんわりとした安堵と、口の端をきゅっと結びたくなる様な責任感だった。

「……ありがとう」
『まだ何もしちゃいない』
「それもそうか」

 でもありがとう、ともう一度言うと、親父は電話の向こうで小さく笑った。

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2010.10 水色に浮かぶ雲
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