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水色に浮かぶ雲
COLORFUL LOVE view of AKIRA
4
 専務室に数歩進んだ途端、机の上に山積みになった書類が目に入った。
 あまりにも予想通りの光景に、思わずぷっと吹き出す。

「何か楽しい事でもありましたか?」

 突然背後からした声に驚いて振り向くと、そこに立っていたのは、にこやかな表情を浮かべた秘書の松本だった。

「おはようございます」
「おはよう」
「どうされたんですか?」
「いや。机の上の悲惨な状況を思い描きながらここまで来て、実際見たらあまりにも想像通りだったもんだから」
「ああ……随分いらっしゃらなかったですからね。でも、洩らされたのが溜め息ではなくて良かったです」
「溜め息は、これからたっぷり吐こうと思っていたところだよ」

 言いながら部屋の中へと入っていく。コートと鞄を置きながら、松本から山積みの書類の説明を聞き、一通り把握したところでパラパラと書類を見ながら椅子に座った。

「わかった。ひとまず大至急の書類から始めるよ。終わったら声かけたほうがいいよな?」
「はい。取りにまいりますのでよろしくお願いします」
「了解。……あ、そうだ。二十七日の夕方、ロサードの社長達と会食なんだ。予定入れといて」
「わかりました。明日ですね」
「うん。うちの社長も一緒だから。多分一緒に行くことになるかな」
「ではそのように予定を組みます」
「ああ。頼んだ」

 一礼して出ていく松本の気配を感じながら、俺は早速仕事に取りかかった。



 黙々と仕事を片付け、急ぎだと思われるもの全てを処理し終えたところで時計を見ると、昼休憩のチャイムが鳴る十五分前だった。

「もうそんな時間か……」

 ポツリと呟き、んーっ、と背を伸ばすと、そのまま椅子の背もたれに寄り掛かった。
 運ばれてきたまま一口も飲んでいなかった珈琲を口にすると、すっかり冷え切っていた。こんなことなら最初からアイスコーヒーにすれば良かったとぼんやり思う。けれど、今はこれも悪くない。
 いつの間にか、書類の山は当初の三分の一程の高さになっていた。比較的面倒なものが幾つか残ってることを考えると、量から想像するよりもずっと時間はかかるだろうが、これなら就業時間内に終われそうだ。
 ――ちゃんと迎えに行けそうだな。
 最初からそのつもりで仕事を進めていたのだが、現実味を帯びたことに改めて安堵して、ふうう、と大きく息を吐く。
 そして、もう一口珈琲を口にしたところで、内線電話が鳴った。

「はい」
『松本です。外線に大木様からお電話が入っております』
「……大木社長?」
『いえ、百合様です』
「……」

 とうとう来たか、と思った。

『お繋ぎしてよろしいですか? それとも、お出になれないとお断りしたほうが……?』

 パーティーでの一件を知っている松本は、とても慎重だった。

「話すよ。繋いでくれ。外線は何番?」
『三番です』
「わかった」

 内線を切ると、鞄から出しておいた書類の束を捲って封蝋つきの便箋を引っ張り出し、机の上に無造作に置いた。
 電話が来ることはわかっていた。
 この便箋を受け取った翌日に、俺自身が、今日電話するように言ったのだから。





 *




 親父と牧野と三人での食事会は、ホテルのレストランの個室で行われた。
 親父から「もうすぐ着くから」と連絡が入ったので、俺と牧野は一足先にレストランへと向かった。
 案内された個室で二人きりになると、牧野はキョロキョロと部屋を見回した。

「ここって美作さんのお父さんが用意してくれたの?」
「うん。そう」
「ここって、予約制よね?」
「基本は予約制だな。もちろん空いてさえいれば当日でも使えるだろうけど」
「今日ってクリスマスイヴでしょ? しかも、土曜日。……よく空いてたね」

 同じことを俺も思っていた。
 このレストランはホテルの中でも一番人気で、普通に食事をしようと思っても事前予約が必要な程だった。ましてや個室を使いたいとなれば、かなり早くから予約をしなければならないはずなのだ。
 この食事会は昨日の深夜に急遽決まったもの。クリスマスと重なったこの週末に、昨日の今日でこの個室が取れるなんて普通ではありえない。
 けれど現実は、こうしてここへ案内されている。

「まあ、運良く空いてた、ってことじゃないだろうなあ、当然」
「……だよね」

 牧野の表情が僅かに曇った。
 何を心配してるかは、訊かなくてもわかる。

「でも、無理強いしたわけでもないと思うぞ」
「そうかな?」
「うん。無理にここをセッティングする必要なんてないだろ? 俺らが泊ってる部屋でもいいんだし、ホテルの外へ出たっていいんだから」
「それもそうね。……じゃあ、どうやって?」
「うーん……事前に予約してあったんだろうな」
「何のために? まさか、このためじゃないよね」
「それは多分違うと思う。でもまあ、親父ならあり得るからな、こういうことは」

 親父は普段から、何かあった時のために、とこうした場所を幾つかキープしていたりする。昨夜飲み明かしたというバーも、そしてこの個室も、ここでパーティーを催すと決まった段階から用意してあったのかもしれない。昔から、そう言うことに関しては抜け目がないのだ。
 そんなことを話すと、牧野は感嘆の息をもらした。

「さすが美作商事の社長、って感じ」
「あの人の気配りはハンパないんだよ」
「美作さんの気配りもハンパないから、お父さん譲りなんだね」
「俺? そうかな」
「そうよ。……あー、それにしても緊張する」

 牧野はそう言って、大きく深呼吸した。

「大丈夫だよ。いつも通りにしてたらいいんだから」
「わかってるけど――」

 その時、背後で入口の扉が開く気配がした。

「あ、来たかも」

 俺の声に、隣に座る牧野の背筋がピンと伸び、一気に空気が張り詰める。
 そして親父が姿を現した。
 牧野が椅子を倒しそうな程の勢いで立ちあがり、圧倒された俺は、たっぷり遅れて静かに立ちあがった。
 親父は俺達の前へ歩み寄りながら、「待たせたかな?」と訊いた。

「いや、俺達も電話もらってから来たから」
「そうか」

 向かい合う形で親父が立ち止まるのを確認して、俺は口を開いた。

「親父、改めて紹介するよ。牧野つくしさん。……で、牧野。俺の父親」
「はじめまして。牧野つくしです。……って、初めてでは、ないんですが」

 ペコンと頭を下げた牧野は、苦笑いを浮かべながら顔をあげた。
 親父は、そんな牧野に優しい笑みを浮かべる。

「私達にはその挨拶がふさわしいでしょう。あきらの父親としてあなたに会うのは初めてですから。はじめまして、牧野さん。いつも息子が――いや、私の家族が、と言うべきかな。あなたにはたくさんお世話になっているようですね」
「いえ、そんな。いつもご厚意に甘えてお邸にお邪魔させてもらっているのは私のほうです」

 本当に本当に良くしてもらってます、と言葉を続けた牧野に、親父は嬉しそうに笑った。


 席に着いてまもなく、シャンパンを運んで来たウエイターの姿が消えるか消えないかのタイミングで口を開いたのは親父だった。

「牧野さん――いや、やっぱり、つくしさん、とお呼びしてもいいかな? 妻が『つくしちゃんが、つくしちゃんが』と私に話してくれるもんだから、私の中でもそのほうがしっくりきてね。さすがに、つくしちゃんなんて呼んだらあきらに睨まれそうだから、つくしさん、でどうだろう?」

 牧野は俺をちらりと見て、俺が苦笑いを浮かべているのを確認すると、目を細めて笑いながら、親父に言った。

「もちろんです。つくしさんでも、つくしちゃんでも、お好きなように呼んでください」
「では改めて……」

 そう言うと、親父はシャンパングラスを手に、深い笑みを浮かべた。

「あなたにこうして会える日を、ずっとずっと心待ちにしていましたよ、つくしさん」

 こうして、食事会は賑やかに和やかに始まった。


 親父は、常に楽しそうに、常に嬉しそうに俺と牧野を見ていた。
 最初は緊張気味だった牧野も、時間の経過と共にいつもの調子を取り戻し、よく食べよく話しよく笑った。
 俺が想像していた以上に親父は牧野を気に入って、牧野は親父に心を許している。
 それは俺にとって、とても嬉しいことだった。


 そうして一時間が経過した頃。
 思いがけなことが起きた。

 食べ終えた皿を下げに来たウエイターが、その去り際に俺に小さな紙を渡してきた。誰も気付かないように。本当に、こっそりと。
 一体なんだろうと思ったが、嫌な予感だけは確実にしていて、俺はそれをこっそりと開いた。目の前の親父と――とりわけ、隣に座る牧野に気付かれないように。


――――
至急お伝えしたいことがあります。
個室専用待合スペースでお待ちしております。

フロント 水嶋
――――


 水嶋はたしかフロント支配人の名前。
 面倒なことが起きている気配を感じた俺は小さくため息を吐き、折りたたんだ紙をポケットに突っ込む。
 顔をあげると、すぐに親父と目が合った。
 隣の牧野は、メモを読む俺に気を使ったであろうウエイターに料理の感想を聞かれたらしく、何やら楽しげに会話をしていた。だから何も気付いていない。けれど、さすがに親父は気付いたようで、俺の顔を見て、僅かに眉を動かした。だからと言って、ここで口に出して言うわけにはいかない。
 俺はほんの僅かに眉を寄せて小さく頷くと、牧野の肩にそっと触れた。

「牧野、ちょっと席外すけど、親父と二人で平気?」
「え?」
「あきら、その言い方はないだろう? つくしさんが私と二人きりで会話に困るとでも? こんなに仲良く話してるのに」
「いや、それはわかってるけど、俺が居ると居ないとではまた違うだろう?」

 そんな俺達のやりとりに牧野はくすくすと笑い、それから柔らかに微笑んで俺を見た。

「大丈夫だよ。もう緊張したりしてないし。それより、美作さんはどこに行くの? なんかあった?」
「いや、何もないよ。ただ、松本から仕事の電話が入るかもしれないなーと思いつつ携帯電話を部屋に忘れたんだよ。それを取りに行ってくるだけ」
「なんだ。じゃあすぐに戻ってくるんじゃない」
「連絡が入ってなければすぐに戻ってくるし、もしあったら折り返すから少し時間かかるかもしれない」
「うん、わかった」

 牧野が笑顔で頷くのを確認して、俺は席を立った。


 部屋を出るとすぐにウエイターが「こちらです」と俺を待合スペースに案内してくれた。フロント支配人は、俺の姿を視界に捉えるや否や、すっと頭を下げた。

「お食事中にすみません」
「何かあった?」
「今フロントに、大木百合様がお見えです」
「え? フロントに?」

 眉を動かし訊き返した俺に、フロント支配人は頷く。

「美作様にお会いしたいとおっしゃられています」
「もしかして、昨日の伝言のこととかも言われた?」
「あ、はい。きちんと伝えてもらえてるのか、と確認はありました」
「そうか……わかった」

 俺はふうっと息を吐くと、言葉を続けた。

「予定が詰まっていてここでは時間が取れないから、月曜日に会社に連絡を入れてほしいって伝えてもらえるかな?」
「わかりました。そのようにお伝えします」
「あー、もしいろいろ訊かれたら、家族で過ごしてるって言って。牧野のことは――」
「承知しております。お伝えいたしませんのでご安心ください」

 携帯電話の番号を渡して、何かあったら鳴らしてほしいと告げた俺に、フロント支配人は一礼して去っていった。

 俺は宿泊している部屋へ戻り携帯電話を手にすると、再びレストランへと戻った。
 食事が終わるまで――いや、この週末が終わるまで、フロント支配人から連絡が入らないことを願いながら。




 *






 結局、フロント支配人から電話が鳴ることはなく、その後はゆっくりと楽しい時間を過ごせた。
 もしかしたら、この電話も掛かってこないかも、なんてことをほんの少しだけ思っていたけれど、さすがにそれはなかったようだ。

 本音を言ってしまえば、別に話すことなどなかった。俺の気持ちは、便箋を受け取っても連絡を入れなかった時点で明白。むしろ、そんな状態でそれ以上の進展を望む気持ちのほうが理解に苦しむ。
 それでも、パーティーでの俺の行動が彼女に何らかの勘違いをさせたのなら、その責任はきちんと取らなければならないと、そう思った。
 ただ、それだけの想いが先行した。

「お待たせしました。美作です」
『あ、あきらくん? 百合です。お忙しいところごめんなさい。今、少しいいかしら?』

 たっぷり待たせたにも関わらず、彼女の声は弾んでいた。

「週末はすみませんでした。私に何かお話があるとか……」
『ええ、そうなの。大切な話なので、出来ればお会いしてゆっくりお話させていただきたいのですけれど……今夜はどうかしら?』

 食事でもしながら、と話を進める彼女の中には、会社の外で二人きりで会って、というイメージが既に出来上がっているようだった。
 けれど俺にその気はなかった。
 きちんとしたいから会う、ただそれだけ。

「すみません。夜は予定が入っています。午後からこちらへ来てもらうことは出来ませんか? 三時過ぎなら時間を取れます」
『……まあ、そうなの。それは残念だわ。……でも仕方ないわね。では、三時頃お伺いします』
「お待ちしています。では、失礼します」

 ピッと切った受話器を机の上に投げ出して、そのまま椅子の背もたれに体重を預けた。
 彼女の甲高く弾んだ声が耳元に残っていて、俺はそれを追い出すように深いため息を吐く。

 大木百合。美作グループの中でもトップクラスの力を持つ会社の社長令嬢。
 父親の秘書見習いをしている彼女とは、これからも顔を合わせる機会は多い。スパッと切り捨てるには少々厄介な――いや、相当厄介な相手だ。面倒でも、手抜きな対応は出来ない。

 ――さて、どう出てくるか。どう、納得させるか。
 俺は話の進め方をあれこれ思案しながら暫く天井を睨むように見ていたが、ふと思い立ち、胸元のポケットを探って牧野の社員証を取り出した。
 目の前に掲げてぼんやり眺める。
 社員証の牧野の写真は、入社当時のものだろう。どこか緊張したその表情がいかにも新入社員らしく初々しい。
 思わず、ふっと笑みがこぼれた。見ているだけで、俺の中で波立った全てものが穏やかになっていく気がした。「美作さんっ」と俺を呼ぶ牧野の声と笑顔が浮かんで、それだけで、どこか幸せな気分になった。

 ふいに、親父のオフィスに置かれた家族写真を思い出した。
 笑みを湛えたおやじと、満面の笑みのお袋と妹たち、そして無理矢理ひきずり込まれて、いかにも渋々といった表情を浮かべる俺。どこか気恥かしくて、見るたびに「こんなところに置くなよ」と言う俺に、親父はただ小さく笑うだけで、決して置くことをやめようとはしない。
 なんでこんなものを置きたがるんだろうと、ずっと理解出来ずにいた。
 けれど今、ほんの少しその気持ちがわかる。
 ――なるほどねえ。こういう効果があるのか。
 俺も親父と同じように写真を置き出すのかもしれないな、と思ったら、やっぱりどこか恥ずかしい気がして、苦笑いが浮かんだ。

 その時小さなノック音が響く。
 背もたれから身体を起こしながら、はい、と返事をするとすぐにドアが開いた。
 入ってきたのは、松本だった。

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2010.11.17 水色に浮かぶ雲
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