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水色に浮かぶ雲
COLORFUL LOVE view of AKIRA
3

 目の前の窓ガラスに、牧野の姿が映った。おそらく俺が電話をしていることに気付いたのだろう、そっと静かにベッドルームへ向かおうとしている。
 振り返って手招きすると、遠慮がちにその進行方向をこちらへと変えた。

「じゃあそういうことで。明日」
『ああ。そっちに着いたら連絡入れるから』
「うん」
『あきら、つくしさんに伝えておいてくれ』
「ん?」
『普通のおじさんだから、身構えずにいてくださいって』

 電話越しでも、親父の笑顔が見えるような、そんな声だった。
 そんな親父が嬉しくもあり恥ずかしくもあり、俺は適当に返事をして電話を切った。
 ソファに座り、腕の中に牧野をおさめる。

「明日、親父と三人で食事することになったから」

 早く合わせろって煩くて、と笑った俺に、牧野はどこか神妙な面持ちでゆっくり頷いた。

「どうした? 緊張する?」
「え? あ、うん。そりゃあ、緊張するよ」
「普通のおじさんだから身構えずにいてくれってさ」
「……それ、お父さんが言ったの?」
「そう」
「普通のおじさん……って。美作商事の社長ってだけでも、十分普通じゃないんだけど」
「あはは。でも明日会うのは、美作社長としてじゃなくて、俺の親父としてだから」
「わかってるけど。でもやっぱり緊張するよ」

 牧野は、身体の中に溜まった緊張を押しだすように、大きく息を吐いた。

「大丈夫だよ」

 頭を小さく撫でると、牧野の髪はまだほんのり濡れていて、それがやけに手に馴染んで気持ち良い。何度も何度も梳くように指を通しながら、「牧野の両親に挨拶に行かないとな」と呟くと、牧野が突然姿勢を正した。

「あの、美作さん」
「ん?」

 指を止めて顔を見ると、ひどく真剣な面持ちで口をぎゅっと結んでいた。「なに?」と話を促すと、ひとつ小さく頷いて、それから俺を真っ直ぐに見た。

「いろいろ、よろしくお願いします」

 牧野がペコンと頭を下げて、俺の指が髪から離れる。

「ん? いろいろ?」
「うん。あ、うちの親のことは別にいいの。挨拶なんて時間ある時にちょっと顔合わせてくれたらそれで」
「そんなわけにいかないだろ」
「本当にそれは気にしなくて平気。そうじゃなくて。あたしが言いたいのは、これから先のこと」
「ん? ……ああ。婚約とか、結婚とか?」
「うん。きっとやることいっぱいあるんだと思うけど、あたし、全然わかんないから。美作さんに頼るしかないっていうか……」

 尻すぼみになるその言葉に、俺はふっと小さく息を吐くように笑った。

「心配しなくていいよ。ちゃんと言うから」
「……うん」

 俺が笑みを浮かべると、牧野はホッとしたように肩の力を抜いて笑った。

「間違いなく面倒なことはいろいろありそうだけど、実は俺もまだあんまりわかってないんだよ」
「そうなの?」
「うん。俺達で決めていいことばかりならサクサク進めるけど、そうもいかないだろうし。……ま、すべてはこれからってことで」
「……うん」

 俺は再び牧野を引きよせ指に髪を絡める。

「牧野の理想の結婚式は?」
「え? 理想? ……そんなのは、別に」
「こんなドレスを着たいとか、こういう場所でやりたいとか」
「そんなのないよ」

 そっか、と小さく言うと、牧野はちらりと俺を見て、自嘲気味な笑みを浮かべた。

「可愛くないよね、なんか」
「え?」
「ほら、結婚式に夢なんて抱いてません、とか……なんか冷めた感じっていうかさ」
「そんなことないよ」
「いいのいいの。あたし、自分でもわかってる――」
「可愛いよ」
「……」
「牧野は可愛いよ。すごく可愛い」

 真っ直ぐ見つめる俺から、牧野は恥ずかしそうに目を反らし俯いた。
 俺は牧野をぐいっと抱き寄せる。

「そろそろベッドルームに行こう。話の続きはベッドで。な?」
「……うん」

 頷いた牧野を抱き上げると、ひゃっと小さな声を上げたけれど、それ以上は何も言わなかった。

 ベッドに並んで横になると、抱き寄せた腕の中で「あ、ひとつあった」と牧野が呟いた。

「あのね、小さいことなんだけど」
「ん?」
「ヴェール。ウエディングドレスのヴェール」
「ヴェール?」
「うん。何かで見たの。引きずるくらい長いヴェールを着けた花嫁。すごく綺麗だなって思って、憧れたの。あたしなんかがつけても似合わないんだろうけど、でも、いいなあって、思った」

 恥ずかしそうにとつとつと言い募る牧野があまりにも可愛くて、俺の中の熱が再び灯るのを感じた。
 くるりと身体を反転させて、俺は牧野に覆い被さる。
 驚いたように俺を見つめる牧野に、俺はゆっくりと囁いた。

「わかった。長いヴェールな。きっとすごく似合うよ」

 言いながら首筋に唇を埋めると、牧野は身体をびくっと震わせ、小さく吐息を漏らした。

「ちょ、美作さん」
「ん?」
「話の続きは?」
「もうおしまい。時間はたっぷりあるんだから、今日じゃなくてもいくらでも話せる」
「でも、もう、お風呂にも入った……のに、」

 寝るつもりじゃなかったの? と、熱を帯び始めた声で言い募る牧野の顔を見ると、その瞳は潤み始めていて、言葉とは裏腹に俺を誘っているように見えて仕方なかった。

「俺もそのつもりだったんだけど、気が変わった」
「……」
「もっともっとおまえを抱きたい」

 囁いて、そのまま耳元に唇を寄せると、腕の中で牧野の身体がヒクリと跳ねた。
 口づける度、身体中を弄る度、それに呼応するように反応を深くする牧野に、俺もどんどん煽られて、熱く深くどこまでも溺れていった。




 上がりきった二人の息がようやく落ち着きを取り戻し、ベッドルームに静寂が訪れたのは、時計の長針がぐるりと一周以上廻った後のこと。
 抱き寄せた牧野の肌は、汗が引いても尚しっとりと吸いつくようで、でも指を這わせればサラリと滑る、その感覚が実に気持ち良かった。
 シーツから出た肩に触れると、ほんの僅かだがひんやりとしていた。

「寒い? 何か着る?」

 きっと脱がせたバスローブはベッドの下に落ちている。拾うために身体を起こそうとすると、首元に回されていた牧野の腕に力がこもった。

「大丈夫。寒くないから」
「でも着た方がいい。これから冷えてくるだろうし」
「このまま」
「ん?」
「このままいさせて。美作さんの肌、気持ちいい」
「……」

 俺は起き上がるのをやめて、胸元まで掛けられたシーツを引っ張り上げると、牧野の肩まですっぽり包み、ぎゅっと抱き寄せた。「寒かったら言えよ」と言うと、牧野は小さく頷き、そして部屋は静寂に包まれた。
 しばらくして、ところどころ掠れる牧野の小さな声がした。

「指輪……あたし、指輪どうしたっけ?」
「ん? ああ。そこのチェストの上にあるよ」
「チェスト……そっか」
「どうかした? 持ってこようか?」
「ううん。あるならいいの。……寝て起きても、消えたりしないよね?」

 そっと顔を覗き見ると、すでに瞼が閉じられていた。もしかしたら、意識の半分は夢の中なのかもしれない。
 俺はそっと髪を撫でて囁く。

「消えないよ。何度寝て起きても、ずーっと消えない」
「……良かった」
「だから、安心して寝ていいよ」
「……うん」

 かすかに聞こえた「おやすみ」という彼女の声に、俺も瞼を閉じた。
 ぴったりと寄せ合った彼女の温もりと、規則正しい寝息を感じながら。





 *





 恋愛をすると、多くの感情を胸に抱く。それは、恋愛していない時と比べると、ひどく複雑でひどく鮮やかだ。その中には、声ではなく、表情でもなく、「温もりでだけ」伝わる想いというものが存在する気がする。

 温かい夜だった。そして、温かい朝だった。

 目覚めたばかりのぼんやりとした視界の中、俺の腕の中で、眠りに落ちた時と同じ規則正しい寝息を立てる牧野の顔を見ながら思った。

 ――心が満たされるって、こういうことを言うんだ。

 あまりの愛しさに、思わずその額に口づけて、それによって目を覚ました牧野が掠れた声で囁いた「おはよう」が、これほど心に響いたことはなかった。

 プロポーズをする前とした後と、おそらく、目に見てわかるほど変わったことなど何もない。
 ただほんの少し――本当にほんの少しだけ、すべての感情が増えた気がした。愛おしく想う気持ちも。守り抜く決心も。強さも、優しさも。

 ――とは言っても、今の俺は少々浮かれ過ぎかもな。
 目の前に、今から俺の戦場となるであろう会社が見えても尚、鼻歌が止まらない。
 そんな自分に思わず苦笑して、ハンドルを握り直した。


 専用スペースに車を停めた俺は、エンジンを止めると同時に後部座席の鞄とコートに手を伸ばした。
 その時、何気なく視界の隅に入り込んだシートの下に何かが落ちていることに気付いた。なんだろうと手に取って、思わず「あっ」と声が出てしまった。
 それは、牧野の社員証だった。
 同時に、今朝ホテルの部屋を出る寸前に交わした会話が甦る。



「牧野、何か落ちたぞ」
「え? あっ、ホント。ありがとう」
「何? 社員証?」
「そう。すぐに使うから取り出しやすいように一番上に置いたんだけど」
「その下にあるものを取り出したら落ちた?」
「そういうこと。……いいや、こっちに持っておこう」
「他に忘れ物は?」
「うーん、ない」
「よし。じゃあ行こう」



 あの時、牧野は社員証をコートのポケットに入れていた。ということは、後部座席にコートを置いた時――もしくは、コートを取った時に落としたということ。
 その動作のどちらも、俺がしたことだった。
 ――てことは、犯人は俺か。
 僅かに眉を寄せながら、俺は腕時計を見た。
 始業時間まで、まだかなりの余裕があった。
 すぐに胸元から携帯電話を取り出してディスプレイを確認する。牧野からの着信はない。社員証は、会社に入ってすぐに使うから気付いていないということはないだろう。それでも連絡をしてきていないということは、運転中の俺を気遣った可能性が高い。気付いた時にすぐ連絡をくれたら引き返すことも出来たのに、と思うが、それもまた牧野らしい。

 ディスプレイに牧野の番号を表示させると、通話ボタンを押した。
 そして、コール音が鳴ったか鳴らないかのうちに、牧野の声が響いた。

『もしもしっ』
「おっと。すげえ早いな」
『ちょうど電話しようとしてたところだったの。ねえ、あたし車の中に――』
「社員証、だろ?」
『そう! あー、やっぱり車に忘れたんだ』

 良かったー、と安堵の声が聞こえて、脱力する牧野が電話の向こうに見えるようだった。

「たった今見つけた。シートの下に落ちてたよ。というか、俺だよな、落としたのは」
『え? ああ。ううん。コートのポケットになんて入れたあたしが悪いの』

 気にしないで、と牧野は明るく言い放った。

「さて、どうしようか。届けようか?」
『え? これから?』
「うん。着いたら電話するから出てこれる?」
『そんな、いいよ。今日一日預かってもらえたらそれで』
「でも、ないと困るだろ?」
『大丈夫。さっき仮社員証を発行してもらったから。今日一日はそれで乗り切る』

 美作本社もそうだが、牧野の働くロサードという会社もまた、様々なデータを扱っていることもあり、セキュリティがかなり強化されていて、オフィス内では社員証がないと仕事にならない。というか、社員証がないと会社にも入れない。そうは言っても、忘れたり失くしたりする人間がいないわけはなく、そんな非常時のために仮社員証というものを発行してもらえるのだ。ただ、あくまで「仮」なので、やれることに制限があったりもするのだが。

『でも良かった。会社に入る時にないことに気付いて、車の中だろうなって思ったんだけど、歩いてる時に落としちゃってたら困るから、念のために来た道を戻ってみたの。でも見当たらなかったから、これで車になかったらもうお手上げだなあって思ってた』
「そういう時はすぐに電話しろよ」
『運転中なのに悪いでしょう? そこにある可能性は高いわけだし、それだったら会社に着いてからでもいいかなって』
「その時点だったら引き返せたのに」
『うーん、それは思ったけど……でもそれで、美作さんが遅刻しちゃったらマズいなって思って』

 やはりその発想は、いかにも牧野らしい。
 俺は例え遅刻したところで、何かしらの理由をつけることは可能で、そういう立場にいることも知っているはずなのに。
 でも牧野は、そういうことを当たり前に利用しない。特に、牧野自身の都合では。

「じゃあ、今日一日俺が持っておくから、どうしても困ったら届けるから言えよ」
『うん、わかった。じゃあ、よろしくお願いします』
「はいよ。じゃあな」
『じゃあね』

 電話を切ろうと耳からはずかしかけた時、電話の向こうで「つくしっ」と誰かが牧野を呼ぶ声と「はあい」と返事をする牧野の元気な声が半分だけ響いて、そして通話は切れた。
 楽しげに会話を弾ませる牧野の姿が目に浮かぶ。
 思わず零れた笑みをなんとか押し込めながら、携帯電話と牧野の社員証を胸ポケットに入れると、俺は車を降りた。

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