「で、ふと浮かんだの。美作本社の営業マンなんてどうだろうって。出張で海外を飛び回っているという点も、うちの社内の人間が知ったら大騒ぎになりそうな点も、あっさりクリアでしょう? それなら沈黙を貫きたいつくしの心情も理解できる。しかも私の知ってる人。これはもう間違いないなって……当たってる?」
小首を傾げた美穂に、つくしはゆっくり頷いて、小さな声で「名探偵ね」と呟いた。
それが聞こえたらしい美穂は、嬉しそうに満足げに笑みを浮かべる。けれどその表情は「ただねえ、」というため息交じりな言葉と共にすぐに消え、まだ疑問があると言わんばかりに宙を睨むように見つめて腕を組んだ。
「そこから先がほぼお手上げ状態なのよ」
「え?」
「肝心なのは誰なのかってことでしょう? でも、それに関しては検討も付かないのよね。美作商事の人で私が知ってるのは、この前のパーティーに出席した営業部の社員だけ。だから、あの中の誰かだろうって思うんだけど」
相当考えているのだろう。美穂の眉間に皺が寄る。
「つくし、具合が悪いって帰ったでしょう? あれって本当は別の理由じゃない?」
「……あ、えっと」
「つくしはパーティーの間中どこか様子がおかしかったし、元気もなかった。具合が悪いって言い出した時は、それが理由かって納得したけど……つくしの彼があの場にいたとなったら話は別」
「……」
「海外出張中で連絡の取れなかった彼が会場に突然いたら、相当動揺するよね。いつ帰ってきたんだろうとか疑問も残るし。ようやく会えて嬉しいって感情だけじゃいられないんじゃないかなって。なんとなくだけど、あの時のつくしは一秒でも早く会場から離れたいって思ってた気がしてさ。……私、勝手なこと言ってる?」
呆気にとられたように美穂を見つめていたつくしはハッとして、フルフルと首を横に振る。
――……この人、本物の名探偵?
思わずそんな呟きが漏れそうになる程、美穂の推理は真実のすぐそこを歩いている。そのまま真実に辿り着かれたって全然構わない状況なのに、それでもつくしはドキドキしていた。
美穂は満足そうに頷き、「こうなると自力で相手に辿り着きたいなあ」とどこか楽しげに呟く。けれど推理は行き詰まりを見せているようで、あっという間に難しい顔が戻ってきた。
「ここまではあっさり想像も出来て納得もいくのに、この先がわからないのよ。私ね、つくしが帰った後に本社の営業の人達と話す機会があって、偶然にも出張の話をしたの。出張はどこへ行くことが多いとか近々だといつどこへ行ったとか。さすが本社営業マン、みんな面白い程出張が多くて、いろんなところへ行ってるのよ。でも、たった今出張から帰ってきました、なんて人はいなかったと思うのよね」
美穂は首を捻りながら、まるでその時会った一人一人を思い出すかのように、「あの人は違う、あの人は年齢的に除外」などとブツブツ繰り返し、やがて、はーっと溜まっていた息全てを吐き出すような大きな溜め息を吐いた。
「やっぱり、どう考えても私が話した人の中にはいなかったな」
つくしはなぜか、祈るような気持ちで美穂を見つめていた。
誰だろう、と呟きながら考え込む同僚は、真実と紙一枚を隔てたすぐそこにいる。自ら話そうと思っていたことなのに、自力で真実を探り当てようとする美穂がいて、つくしはその展開に身を任せてしまっている。これでいいのだろうかと考えないわけではないけれど、それよりもこのまま真実に辿り着く瞬間を待ちたい気がしていた。
美穂ならきっと辿り着く。あと一歩で。
そう思えて仕方がない。
「あ、でも待って。具合が悪いって帰ったつくしを追い掛けて行ったってことも考えられるか……いやでも、途中から姿が見えなくなった人なんていなかったよなあ。だって私が知り得る限り、途中で帰ったのは、急用が出来たらしい美作セ――……」
そこまで言って、美穂はピタリと言葉を止めた。言葉だけでなく、動きも、呼吸さえも止めたのではないかと思えるほど全てがピタリと止まり、固まっている。
――やっぱり辿り着いたね、美穂。
はっきりとそう感じたつくしは、俯いてきゅっと口を結んだ。
今度こそ、自分の口からきちんと言わなければ。
その決意は、トクトクと心臓の鼓動を早く大きくしたけれど、つくしはそれに負けないようにすーっと息を吸い込むと顔をあげた。
「あのねっ、美穂。あたし――」
勢い込んで話し出す。けれど、目の前の同僚が浮かべる表情に、思わず言葉を止めてしまった。
自ら辿り着いた真実に驚き固まっていたはずの美穂。けれど今目の前にいる彼女の顔には、嬉しいとも悲しいとも表現しきれない、深い表情が広がっていた。
その表情に心を奪われたつくしは言葉を紡ぎ損ね、代わりに美穂が口を開いた。
「……そっか。美作専務だったんだね」
慈愛に満ちた優しい表情と、胸に響く優しい声。
どうしてか、鼻の奥がツンとするのを感じながら、つくしはこくりと頷いた。「ごめんね、言えなくて」と小さな声で言うと、美穂はフルフルと首を振りふうわりと笑った。
「やっぱり私は名探偵でもなんでもないね。一番大きな可能性を見逃してた」
「……」
「わかるよ。つくしの気持ち。それは誰にも言えないよ。言ったらどれだけの騒ぎになるか、簡単に想像がつくもん。私でも、やっぱり言わないと思う」
あまりの優しさに、目の奥が熱くなる。
泣く場面なんかではないとわかっているのだけれど、安堵や感動がじわじわとつくしの胸を覆う感覚からは逃れようもない。
けれどここで泣いて押し黙ってしまうことはしたくなかった。
つくしはぐっと拳を握り、口を開いた。
「あのね、美穂。あたし、美穂に謝らないといけないの」
「謝る?」
「うん。――ごめんね。あたし、美穂にいろいろ嘘ついてた」
「嘘? ……ああ、もしかして、これまでにした会話の中でのこと?」
「うん」
「そんなの謝る必要ないよ。だって、内緒にしてたんだから仕方ないじゃない。むしろ、触れてほしくない方向に話が進むこともあって随分神経すり減らしたんじゃない? だとしたら、謝るのは私のほうかも」
「ううん。そんなのは別に」
たしかに、美穂と話す中で美作商事の話題が出ると、つくしはいつも身構えていた。その話があきらに及べば、祈るような気持ちで全神経を集中して話を乗り切ろうとしていた。けれど、 謝ってもらう必要など全くない。なぜなら美穂は何も知らなかったのだから。
「じゃあお互い様ってことでいいよね? ねえそれよりも、嫌じゃなければ少しだけ教えてよ。出会いとか、つき合うきっかけとか。あと、美作専務の性格も知りたいな。これから会うんだし」
美穂がニコリと笑う。それは彼女なりの気遣いだとすぐにわかった。
つくしは胸をいっぱいにしながら、その優しさに応えるために笑顔で頷く。
「じゃあ何から訊こうかなあ。……その前に、何か頼み直そう」
弾む美穂の声が、つくしの心を癒し温かくした。
つくしは美穂に訊かれるままにあきらとのことを話した。
友達から恋人になったあの頃のこと。そして二人で歩いてきた日々。
もちろんすべてなんて到底話すことはできないけれど、勘のいい美穂は、十分にその関係を理解したようだった。
美穂は深く大きく息を吐き、背もたれに身体を預けた。
「何となく想像はついてたけど、御曹司と呼ばれる立場の人とつき合うのもなかなか大変そうね」
「そうだねえ。育った環境や住む世界が違うっていうのは、かなり大きな壁なんだよね。こっちの思ってる常識が通用しないっていうかさ。まあそれは、向こうに言わせても同じことなんだろうけど」
「そうよね。遊び一つ食べるもの一つとっても違うってことだもんね」
「うん。美作さんがどうってことじゃなくて、英徳に通う人ってほとんどがお金持ちのご子息ご息女だからさ、価値観が全然違うなあって感じる事ばっかりだった」
「そうだろうね」
「あたしは親の強い希望で英徳入ったけど、入学当時は後悔ばかりしてたし、とにかく早く卒業してこんな世界とは二度と関わりたくないって、そればっかり思ってたんだから」
「へえ、そうだったんだ」
つくしが頷くと、美穂も二度三度と頷いた。
美穂は二杯目に選んだミルクティをゆっくりと飲む。そして、その動作をふと止めて、ゆるりと笑みを浮かべるとつくしを見た。
「でも最終的には相手を想う気持ちがその壁を壊すんだね。関わりたくないなんて思ってたつくしが、今や日本有数の総合商社の御曹司の恋人なんだもんね」
凄いわねえ、と感心する美穂を前に、つくしは照れ笑いを浮かべた。苦笑い交じりの。
日本有数の総合商社の御曹司の恋人。
まさに言われた通りなのだが、今のつくしは、さらにその先を歩き始めている。
恋人から婚約者へとその立場が徐々に変わりつつあることは確かな現実なのだが、そのことはまだ話せていない。
それも話しておかなければいけないと思うのだけれど、今度はそのタイミングが見つけられない。
どうして全てを一気に話すことが出来ないのだろうかと、普段の勢いが消え失せてしまっていることを腹立たしくさえ思った。
どんなことでも勢いで突き進んでいけるほうだと思うのに、どうにもこと恋愛に関しては、未だ「奥手」と言われる域を脱せずにいた。――と言ったところでいずれ脱却出来るとも思えないのだが。
さてどうしようかと再びつくしは考える。
美穂は美穂で何やら考えているようで、二人の間に僅かな沈黙が流れていた。
二人が通された窓際の席は、店内の最奥で、他の席からほんの少し隔離されたような場所だった。おかげでゆっくりと話が出来ているのだけれど、話し声が止むとまるで他に誰もいないかのように静まり返った。
つくしが二杯目に選んだのはショコラ・ショーで、程良い甘味が口内に広がり自然と深い息が零れる。
沈黙は、店内を流れる緩やかなボサノヴァ二曲分にも及んだ。
「先週のパーティーのことなんだけど……訊いてもいい?」
カップをソーサーに置くカチャリとした音と共に沈黙を破ったその声に、つくしはすぐに反応できずに黙って美穂の顔を見た。
「ほら、パーティーの時、美作専務が大木社長の娘をエスコートして登場したでしょう?」
「あー……うん」
それは、思い出すたびに心の奥底がズクンと小さく疼いてしまう光景。やっぱりまだ痛いと感じ、咄嗟に胸に手を置いた。「大丈夫、大丈夫、」と疼きを抑えるように。
「つくしが帰ったのって、あれが原因? 私さっき適当なこと言ったけど、もし本当にそうだったら……相当傷ついたよね、あの時」
ゆっくりと慎重に紡がれる言葉からは、つくしを気遣う優しさが見て取れた。
つくしは小さく笑みを浮かべる。
「洞察力っていうか推察力って言うか……ホント美穂には驚かされる」
「そっか。ビンゴ……か」
つくしはコクリと頷いた。
「ずっと連絡がなくて、それはパーティーが始まる直前でも変わらなくて、だから美作さんはまだロンドンにいるんだって思ってた。それなのに、突然『美作専務が来た』でしょ? 驚いたなんてもんじゃなかった。『なんで、どうして』って疑問でいっぱい。しかも、それだけもかなり驚いてたのに、まさかあんなド派手な登場するなんてね。全く想像してなかったから、頭が真っ白になって、心臓が止まりそうだった」
瞬きはしただろうか、呼吸もしていただろうか、とあの時のことを思い出そうとしてもうまく思い出せない程、つくしはあの光景に全てを奪われてしまった。ただ、視線を逸らしたいのに言う事を聞かず、その場を立ち去りたいのに足が全く動かなかったことだけは覚えている。
「驚きすぎて何がなんだかわからなかった。でもそれはあたしだけじゃなくて、美作さんもすごく驚いてた」
「美作専務も?」
「美作さんのあそこまで強張った顔、初めて見た。……目があった瞬間に、口元が『牧野、なんで?』って動いたのがわかったの。見てはいけないものを見てるんだって思った」
「美作専務、つくしがパーティーに出席してるって知らなかったんだね」
つくしは何も答えることなく宙を見つめていた。ただ一点を、じっと。
そこにあの日の自分がいるかのように。
「あたしは見たくない光景を見てしまって、美作さんは見せたくない光景を見せてしまった。パーティーに出席したことをもの凄く後悔した。出ていいのかいけないのか、凄く迷って出席したけど、それはやっぱり間違いだった」
部長や社長は気を悪くしたかもしれないけれど、それでもどうしても出られないと断るべきだったと、強く強く思った。どうして出席しても大丈夫なんて思ったんだろうと、自分の考えの甘さに腹が立った。
「わかってる。ああいう時はすぐに美作さんに問い質したらいいんだよねえ。いったいどうなってるのって。そうすれば、余計な憶測で悩んだり悲しんだりしなくて済むんだから。でもあたしにはそれが出来なくて、俯いてあの場に居続けることが精一杯で」
「つくし……」
「でもどんなに俯いても、あちこち飛び交う噂話や見たくもない光景がどんどん入り込んでくるんだよね。……耐えられなかった。それで……」
「具合が悪いって帰ったのね」
つくしは俯いて、「逃げ出したのよ、嘘をついて」と呟いた。
「美作専務が弁解に来てくれたら良かったのにね」
「そんなの無理よ。美作さんは専務だもん。挨拶周りをしないわけにはいかないし、それを待ってる人だってたくさんいる」
「そうかもしれないけど――」
「それに、あたし達の関係を内緒にしてほしいって望んだのはあたしだから。美作さんからそれを破るようなことは絶対にしない」
「そんなこと言ってられる状況?」
「状況も何も、あたしが後で困るってわかることをしたりはしない。彼自身がどんなに歯がゆくても、あの人はそういう自分の気持ちよりも相手の気持ちを優先させる人だから」
「専務は専務で、どうにもならない気持ちを抱えてたってことか」
「うん。……って言っても、あの時のあたしは、そんなことを考える余裕なんてなかったけどね」
自分のことで手一杯よ、と自嘲気味に笑ったつくしに、美穂は小さく頷いた。
「でも、美作専務はパーティーを途中で抜けてつくしのところへ行った」
「うん」
「結局は、つくしを優先したってことでしょ? 嬉しかった?」
「……うん」
今すぐ会いに行くと言ってくれたあきらの気持ちを一度は踏みにじり、けれどやっぱり会いたいと我儘を言った。それでもあきらは来てくれた。嬉しくて切なくて、胸が震えてどうしようもなかった。
ポツリポツリと話すつくしに、美穂は満足そうに笑みを広げた。
「きちんと話せた? もちろん、あの人とは何でもないんでしょう?」
「うん。会場に入る直前にエスコートを頼まれて断れなかっただけだって。それから、連絡が途絶えたのも携帯電話が壊れてただけだった」
直接話してしまえばたったそれだけの真実。言葉の交わせない距離というものがどれだけ怖くて、目に見えない想いを信じることがどれだけ大切でどれだけ難しいかを思い知らされる。
「あたしがもっとしっかりしなきゃいけないの。出張先から数日連絡ないくらいで大騒ぎし過ぎだし、他の人をエスコートする姿だって初めて見たわけじゃないのに動揺し過ぎ。これからだってこんなことは起こるかもしれないんだし、一々動じてちゃダメなのよね」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐつくしを美穂は黙って見つめていたけれど、やがてポツリと言った。
「相手を信じることが大切だって、頭ではわかっていてもなかなか心は誤魔化されてくれないものよね。見えない心よりも見えてしまう光景にいつも振り回されて。見えないからこそ強く信じなきゃいけないのに、それによってさらに見失ってしまう。――相手が誰でも、そういう悩みは同じね」
美穂の言葉は、つくしの心の奥深くに響く。
「私、つくしはものすごく我慢強いって思う。私がつくしだったら、もっと早くにギブアップしてるかも。連絡がない数日の間で潰れてるだろうし、あんな光景は見た瞬間に逃げ出すよ。つくしは十分しっかり踏ん張ってたよ。今以上になろうなんて思わなくて平気だよ」
美穂の言葉は、つくしを慰め勇気づける。
胸の奥が、熱かった。
「美作専務はつくしに、もっと頑張れ、とか言う? 我慢しろとか」
「ううん。美作さんはいつだって、俺を頼っていいって言う人だから。無理するなっていつも言ってくれてるのに、言われても言われても素直にならないあたしに呆れ果ててるよ、きっと」
「そっかー。見るからに優しそうだもんね」
「うん。優しい」
つくしがこうしていられるのは、あきらの優しさがあるからだ。つくしの無理を感じ取って手を差し伸べてくれる人だから、つくしは隣で笑っていられる。そうでなければ、なかなか素直になれないつくしは、とっくに全てを手放していたかもしれない。
「あたしは美作さんほど優しい人を他に知らない。きっとこの先も、一生知ることはない気がする」
きっぱりと言い切るつくしに美穂は、嬉しそうに、でもどこか呆れたように微笑んだ。
「あーあ。結局は惚気られたのね、私。ご馳走様」
「別に惚気てなんて――」
「それが惚気じゃなくてなんだって言うのよ」
「でも、そんなつもりは……」
「まーったく。彼氏のいない寂しいクリスマスを過ごした私の前でよくもぬけぬけとーっ!」
美穂があまりにもぷっくりと頬を膨らませるから、つくしは思わず噴き出した。「笑ったわね」とさらに頬を膨らませる美穂に「ごめん、ごめん」と謝りながらつくしは思う。
親友と呼ぶ方がふさわしいのかもしれないこの同僚もまた、本当に優しい人だと。その優しさに、どれだけ救われているかわからない。
――感謝してるよ、美穂。ホントに、ありがとう。
笑いながら、心の中で感謝の言葉を繰り返した。
「ところでつくし。美作専務とのこと、私に話して良かったの? もちろん嬉しいし、誰にも言ったりしないけどさ。……無理させちゃってない?」
そしてまた、こうしてつくしは美穂の優しい言葉に助けられる。
フルフルと首を横に振ると、思い切って口を開いた。今こそ、全てを伝える時だ。
「無理なんてしてないよ。あたし、決めてたから。美作さんとのことを会社の人に話す日が来たら、一番最初に美穂に言うんだ、って」
「会社の人……? え、みんなに話すつもりなの?」
「みんなに話すかはまだわかんない。でもとにかく、社長や部長には話す。近いうちにね」
「社長や部長? あー、相手が相手だし、話すとなればそうなるのかな。……でもなんで?」
「うん。……あのね」
「うん……?」
「あたし……――プロポーズされたの。美作さんに」