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エクリュ
COLORFUL LOVE
3
 *





「いやあ、驚いたなあ」
「あたしは、あの絶叫に驚いたよ」
「あー、ごめんごめん。だって、本当に驚いてさあ。思わず声が出ちゃったのよね」
「まあ、驚かせた自覚はあるけど」


 プロポーズされたと告げ終えるや否や、美穂は絶叫と呼ぶにふさわしい大声をあげた。あまりのボリュームにつくしは慌て、それに驚いて血相を変えてやってきた店員や覗きこむようにこちらを見る他の客に謝ったり、どさくさにまぎれて倒したコップから零れた水を拭いたり、それはもう大変なことになった。

「いやあ。衝撃的だったよ、あの告白は。ホント、つくしには驚かされてばかりだなあ」
「はは。ごめんね。こんな平凡な女が非凡なことばっかり言って」
「そんなの謝らないでよ。でもさあ、あるんだね」
「ん?」
「シンデレラ・ストーリー」

 美穂はソファの背もたれに体重を預け、天井を仰ぐようにして言葉を発した。

「テレビの中かどこか知らない国……とにかく、私からはずっと遠いところでしか起こらない事かと思ってた。まさかこんな身近にあるとはね」

 自分のことのようにワクワクする、と美穂はつくしに笑いかける。
 言われたつくしは、自分のことを言われてる気がしなくて戸惑うばかりなのだけれど、それでも美穂はとても嬉しそうで、満面の笑みを浮かべていた。

「私でよければ力になるから。困ったことがあったらいつでも言ってね。何も出来なくても話くらいは聞けるからさ」
「……ありがとう。心強いよ」
「つくしがシンデレラになるのを近くで見守らせてね」
「本当になれるかわからないけどね」
「なれるよ。絶対なれる。優しい王子様を信じてたら、それでいいのよ、きっと」

 頷きながらつくしは思う。
 自分にシンデレラという言葉は似合わないけれど、あきらに王子様という言葉はぴったりだと。
 思わず笑みが零れた。その笑みをどう捉えたのか、美穂はココア片手に「ああ、いいなあ」「ホントに、いいなあ」と連発して、つくしの笑いを誘う。
 キャハキャハ笑いながら、親友と呼ぶにふさわしい同僚がいることにそっと感謝した。






「ねえねえ」
「ん?」
「今、上ですごい情報仕入れちゃった!」

 上のフロアから戻ってきた一人の女性社員が、つくしの席の近くで興奮気味に話し出した。仕事中だということを意識してか囁き声なのだが、内緒話というにはボリュームが大きくて、直接話をされているわけでないつくしの耳にまで届いた。
 一体何事だろうとほんのちょっと気になって、向かっていたパソコンから顔をあげると、隣の席の美穂も同じように顔を上げていた。

 ――何の話?
 ――気になるよね。

 目で会話をしたつくしと美穂は揃って声のする方を見る。その視線はきっちり感じているだろう声の主が、「あのね」とまさに話を始めようとしたその時。

「牧野さん」

 つくしの名前を呼ぶ部長の平野の声がした。「はい」と返事をして部長の方を振り返ると、つくしに向かって手招きをしている。
 上の階で仕入れたという情報も気になるが、部長を待たせるわけにはいかないと、つくしはほんのちょっとだけ残念そうな視線を美穂に残し、席を立った。部長の元へと歩いていると、おそらく先程の情報とやらが披露されたのだろう。小声ながらも「えー!」と驚く声が聞こえてきて、話を聞けなかったことがまたちょっとだけ残念に思えた。

 ――戻ったら美穂に訊こう。

 そんなことを思いながら平野の前に立った。

「お呼びでしょうか?」

 そこで初めて気付いた。平野は眉間に皺を寄せ、やけに難しい顔をしていたのだ。咄嗟に、何かミスでもしただろうかと、幾つかの仕事が頭に浮かぶ。
 つくしの中に小さな緊張が膨らみ始めた。きっと次に出てくる言葉は「この前提出してもらった資料なんだけど……」だろうと見当をつけて、平野が話し出すのを待った。けれど平野は、難しい顔でつくしをじっと見つめるだけでなかなか話し出さない。
 沈黙は十秒近く続いただろうか。さすがに不審に思い、つくしは小さな声で話しかけた。

「あの、部長……何か……?」
「ああ悪い」

 おそらく何かを深く考え込んでいたのだろう。平野はつくしの声に我に返り、今度こそ話を始めた。

「牧野さん、今急ぎの仕事やってる?」
「いえ、特には。今日中に終わらせたいとは思ってますが」
「良かった。じゃあ、少し時間取ってもらっていいかな? ちょっと一緒に来てもらいたいから」
「あ、はい。えっと……どこに……?」

 すると平野は小さく周りを見渡して、「それは後で」と言った。とても気になる言い方だったけれど無理に訊き出すことなど出来るはずもなく、つくしは「はい」と頷いた。

「どれくらい時間がかかるかわからないから、処理途中のことがあれば終わらせておいた方がいいと思う」
「あー、特にはないので大丈夫です。でも、今開いているデータだけ閉じてきます」
「うん、そうして。俺は廊下で待ってるから」
「わかりました」

 急がなくていいから、と言いながら席を立った平野はやっぱりひどく難しい顔をしていて、一体何が起きようとしているのか、つくしの中の緊張と不安は膨らむ一方だった。

 席に戻るとすぐにパソコンのデータを閉じて、机の上に広げていた資料を重ねる。一応メモを取れる準備をしておいたほうがいいかもしれないと、机の中から専用のメモ帳を出そうとした時、隣から美穂が話しかけてきた。

「つくし、さっきの話なんだけど――」
「あー、ごめん。後で教えて。平野部長が廊下で待ってるの」
「え? どこか行くの?」
「うん。どこへ行くのかわかんないんだけど……」

 美穂はふーんと頷いて、「じゃあ後にする。いってらっしゃい」と笑顔で言った。つくしは「いってきます」と返し、急ぎ足で廊下へと向かった。
 その背中を美穂が笑顔で見送っていたことを、つくしはもちろん知らない。


 廊下へ出るとすぐに「牧野さん」と平野の声がした。見ればエレベーターの前で小さく手を上げている。つくしは小走りで平野の元へ駆け寄ると、「おませしました」と小さく頭を下げた。平野は「よし行こう」とエレベーターに乗り込み、つくしも後に続く。
 互いに無言のまま、行き先を四階上のフロアに設定されたエレベーターは静かに動き出した。

「これから行くのは社長室なんだ」
「え? 社長室?」

 突然話し出した平野にも、その言葉にも驚いた。
 驚きの表情を向けたつくしに、平野は小さく苦笑した。

「驚くよな。俺も驚いてる」
「あの……何か、大きな失敗しましたか?」
「うーん……実は俺にもよくわからない」
「え?」
「何の用件か、全く聞かされていないんだよ。さっき社長室から内線があって、とにかく今すぐ牧野さんを連れてきてほしいって。ただそれだけで」
「……」

 つくしが思わず黙り込んだところで、エレベーターが目的のフロアに着いた。
 社長室はこのフロアの一番奥にある。
 二人は並んでゆっくりと歩き出した。本当は急がなければならないのかもしれない。けれど、平野にもつくしにも、これから起きる何かを受け止めるだけの心の準備をする時間が必要だった。

「やっぱり、あたしが何か……」
「いや、俺もそれは考えた。今も考えてる。だけどそうだとしても、俺だけを呼び出して注意すればいいことで、直接呼ぶなんて、今までじゃ考えられないんだよ。だから別の何かなのかなって考えているんだけど……全く見当がつかない」
「……」

 つくしは、平野が先程からずっと難しい顔で考え込んでいるのはこれかと妙に納得した。そして「別の何か」と言われたことで、自分が呼び出されることに対する心当たりがひとつだけあることに気付いた。

 ――もしかして……もしかして、美作さん?

 つくしの中にあるたったひとつの心当たりは、あきらの訪問だった。なぜなら、プロポーズされたその翌日の夜、つくしはあきらと「ロサードに二人の関係を公表すること」について話し合ったばかりだったから。





 *



「今度の火曜日の夜、ロサードの社長と会食するんだ。親父も一緒に」
「そうなの? 仕事の打ち合わせ?」
「そう。春から新事業を始めることになってね。……おまえのいる部署で」
「うちの部署?」
「しかも当分の間、責任者は俺」
「美作さん? 本当に?」

 その話は、夕食を終えて紅茶を飲もうとつくしが部屋に備え付けのティ―サーバーで紅茶を淹れている時に始まった。
 驚いたつくしが手を止めて振り返ると、あきらはソファに座って微笑んでいた。

「本当に」
「へええ……ってことは、顔を合わせることも増えるの?」
「うーん。まあ一応間に他の社員も何人か入るけど、今までよりは確実に増えるだろうな」
「そっか……」

 つくしは小さく頷き、気付かれないように益々気をつけなければ、と思いながら、紅茶をティーカップに注ぐ。トレイに乗せてソファに向かう途中で、再びあきらが話し出した。

「それで親父がさ、せっかくの機会だから、ロサードの社長に俺達のことを話したらどうだ、って言うんだよ」
「あたし達のこと……?」
「うん。自分がいたら口添えも出来るからって」
「……あー……」

 あきらの父親がそう言い出すのはある意味当然のことで、それはとても心強い有難いことだと思った。
 ずっと秘密にしてきた二人の関係。でも、状況の変化に伴って公にしなければならない時がくるかもしれない。それはつくしも以前から覚悟していたことだった。
 ただその定義は実に曖昧で判断するのが難しい。心の準備も含めそれについては年明けにゆっくり話そうと、あきらとつくしの間ではそういう話になっていた。
 けれど、つくしはあきらにプロポーズされた。
 それは明らかに、大きな大きな状況の変化。
 話すなら今だ、これはさすがにいつまでも黙っていられない、という現実は、つくしにだってすぐにわかった。

「そうだよね。……もう話さないといけない時だよね」
「うん。この先のこと考えると、今がいいかなと思う」
「うん」
「でもその前に、牧野に確認したいことが幾つかあるんだ」
「確認したいこと?」
「ああ」

 トレイをテーブルに置いたつくしに、隣に座るようにとあきらはソファをポンポンと叩いた。つくしがそれに従い腰を下ろすと、紅茶を一口飲んで「美味いなあ」と笑みを浮かべ、そしてつくしの顔を見た。

「牧野の仕事のことなんだ。この先どうしたいって思ってる?」
「どうって……?」
「今のまま仕事を続けるつもりとか、辞めるつもりとか。それによって、話は全然違ってくるだろ? だからさ」

 それは確かにそうだった。辞めるつもりなのであれば、公表しないまま去ることだって出来なくはない。いずれ公になるその時に、揃って盛大に驚いてもらえばそれで済む。けれど続けるのであれば、多かれ少なかれ、きちんと話して理解してもらわなければならないことも出てくる。
 まずはそこがはっきりしない限り、話は前へと進んでいかないのだ。
 どうかな、と柔らかに促すあきらに、つくしは口を開いた。

「あたしは、続けたいって思ってる」

 あきらはつくしを見つめたまま小さく頷いた。そして続けて訊いた。

「それは、結婚するまで? それとも、結婚してからも?」

 つくしはハッとしたようにほんの一瞬動きを止めた。
 そしてゆっくりとあきらの顔から視線を外し、考え込むように宙を見つめた。
 重ねられた質問は、当然されるべき質問で、つくしの中では最初から答えの出ている質問で――けれど、それを言っていいのか迷ってしまう質問だった。
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