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エクリュ
COLORFUL LOVE
4
 結論からいえば、つくしの想いとしては「イエス」なのだ。働くことがつくしの中では当たり前のことで、何もせずに家にいるという考え方がそもそもあまり存在していないから。
 ただそれが、あきらと結婚した時に――美作家の人間になった時に通用する考えなのかどうかというところがつくしにはよくわからなかった。
 そのことをあきらがどう思うか、あきらの父親や母親がどう思うか。周囲がどう見るのか。一緒に歩く道を選んだ以上、それを無視して自分の気持ちを押し通すわけにはいかないことはわかっているけれど、気持ちを偽ることもまた違う気がする。

 ――あたしはあたしの考えを率直に言って大丈夫なのかな……?

 それがつくしの迷いだった。
 なかなか出ない結論に沈黙は思った以上に長くなる。ふいにつくしの手に、あきらの手が重なった。
 ハッとしてあきらを見ると、優しい眼差しを向けられていた。

「思ったこと言っていいんだぞ」

 それは、つくしの迷いに対する答えそのものだった。「なんでわか――」るのよ……と言いかけて言葉を止める。

「……またあたし、声に出てた?」
「いや。今回は顔に書いてある」
「え!」

 思わず慌てて顔に手をやるつくしに、あきらはクスリと笑った。

「冗談に決まってるだろ」
「……もうっ」

 こんな古典的なことにひっかかる自分が恥ずかしくて顔が赤らむのを感じながら、つくしは頬を膨らませた。
 あきらはそれを見てクスクスと笑い、優しく言った。

「俺達は、この先一緒に歩いていくことは決めたけど、何もかもをぴったりひとつにしなきゃいけないわけじゃない。俺には俺の考えがあって、牧野には牧野の考えがあって……何もかもがずっと平行線じゃ困るけど、無理に自分の考えを押し殺して相手だけ合わせる必要なんてない。俺も、おまえも。譲れないものは譲れなくていいんじゃないか? 考えが違う時は、話し合ってズレを修正して、ベストじゃなくてもベターな答えが出せれば、俺はそれでいいと思ってる」
「美作さん……」
「だから考え過ぎなくていい。牧野の気持ちを聞かせて。すべてイエスとは言えないかもしれないけど、すべてノーと言うことはしないから。な?」

 つくしの瞳を覗きこむあきらは、声も表情もひどく優しい。
 あきらがつくしの気持ちを問う以上、つくしの率直な気持ちを知りたいと思っていて、それを全く無視するつもりがないだろうことは、迷う心の奥底では最初からわかっていることだった。今までだってあきらはつくしの考えを尊重して、頭から否定することなんて一度だってなかったのだから、それがプロポーズを境にがらりと変わってしまうことなどあり得ないのだ。
 でもつくしは無意識のうちに「結婚」というものを意識し過ぎていた。
 たとえ何がどう変わっていこうとも、あきらはあきらで、自分は自分でしかあり得ないのに。

 ――ほんっと、バカなのよね。

 そんな自分に少々呆れ、そんな自分をすぐに修正してくれるあきらがいることを幸せに思った。
 つくしは重ねられたあきらの手をきゅっと握ると、真っ直ぐその目を見て気持ちを伝えた。

「あたしは、出来ることならずっと仕事は続けたいって思ってる。――結婚してからも」

 あきらはじっとつくしを見つめ、それから、ふっと小さく口の端をあげた。

「そう言うと思ったよ」
「……うん」
「わかってると思うけど、これから徐々に忙しくなっていくと思う。もちろん休日メインで動けるように段取りするけど、それじゃあ間に合わなかったり、時間の都合がつかなかったりで平日にも時間作らなきゃいけないかもしれない。それから、結婚後は出席しなきゃならないパーティーが確実に増えると思うから、必然的に休みや早退が増えると思う。だから、今まで通りの仕事量をこなそうと思ったらすごく大変になるぞ?」
「うん、わかってる。出来るかどうかはまだわからないけど、やれるだけのことはやりたいの」

 あきらは再びつくしをじっと見つめて、それから笑顔で頷いた。

「わかった。だったらやれるだけやってみな」
「え、いいの?」
「うん。ロサードの社長にはそういう形で話をしてみよう」

 その言葉につくしは安堵して、「ありがとう」と伝えようと口を開きかけた。けれどそれよりも早くあきらが「でも」と言った。

「でも?」
「俺から条件が三つある」
「条件?」

 こくりと頷いたあきらは、指を折って話し出した。

「一つ目は、さっき少し言ったけど、俺のパートナーとしての役割を果たしてほしい。俺が指定するイベントやパーティーには出席してほしいってこと」
「うん、もちろん」
「二つ目は、もし俺の海外赴任が決まったら、一緒に行くこと」
「予定、あるの?」
「今のところはない。でも、この先のことを言えば、いつかはあると思ってたほうがいい」
「……わかった。一緒に行く」
「最後三つ目、――子供が出来たら、仕事を辞めて身体を大切にすること」
「美作さん……」
「どう?」

 どうも何もない。三つの条件はどれも、つくしが当たり前にそうするだろうことばかりだった。結局そこには、あきらの優しさしか存在しない。 
 つくしは大きく大きく頷く。胸を熱くしながら。
 それを見て、あきらは柔らかに笑い、つくしを抱き寄せた。

「あんまり無理はすんなよ。キツいなあと思ったらちゃんと言えよ」
「うん。でも大丈夫。頑張る」
「ほら。すぐそうやって頑張ろうとするだろ? それが心配だって言ってるんだよ」
「でも――」
「続けたいって言ったのは自分だからとか、そんな意地は張らなくていい。キツいって言ったからって今すぐ辞めろなんて言わないよ。どうやったら楽になるか俺も一緒に考えたいから、ちゃんと言えって言ってるの。……わかったか?」
「……うん」

 頷いたつくしの頭をあきらはくしゃりと撫で、髪に小さく口づけを落とした。
 つくしは抱き寄せられたあきらの腕の中で安堵の溜め息を吐く。

「ありがとう、美作さん」
「別に礼なんて」
「ううん。だって、あたしの我儘聞いてもらったようなもんだし」
「そんなことないさ。俺だってダメならダメって言ってるぞ?」
「そうかもしれないけど。……おじさまにも許可貰わなきゃいけないよね」
「ああ。それなら大丈夫。もうこの話はしてある」
「え?」

 きっとつくしが仕事を続けて行きたいと言うだろうと予想していたあきらは、すでに父親に許可を得ていた。それに対して父親は二人が決めたことに自分も協力すると言ったことをあきらはつくしに話した。
 つくしは胸がいっぱいになって、「ありがとう」ともう一度言った。
 自分はこの優しい人達に助けられて前へ進んでゆけるのだと、心の底から実感した。

「あたし、頑張るよ」
「ん?」
「もっと仕事覚えて、いろんなこと出来るようになって、少しでも会社の力になれるように頑張る」

 気合いのこもった言葉を口にするつくしに、だから無理に頑張ったりしなくていいのに、とあきらは思う。けれど、そんなことを突然言い出したことの意味を考えていたら、あることが浮かんだ。

「なあ牧野。会社の力って、ロサードの? それとも、もしかして……美作?」
「もちろんどっちもだよ。ロサードはあたしを採用してくれた会社だもん。会社のために一生懸命頑張る。でも、その先にあるのは美作商事だもんね。あたしが頑張ってることが美作の役に立つ。微力だってわかってるけど、でもなんかそれってすごく嬉しいから」

 にこにこと話すつくしに、あきらは再び訊いた。

「おまえが仕事を続けたい理由って、それ?」

 つくしは小さく頷き、囁くように言葉を紡いだ。

「あたしが美作さんの仕事を助ける方法って、他にないから」

 つくしにとって働くことは、極々当たり前のことで、何もせずに家にいるという考え方がそもそもあまり存在していなくて。それでも、あきらと結婚する以上、そうすることのほうが普通で、そうすることによって他の何かを学ぶ時間を作ることが出来て、そうすることであきらの隣に堂々と立てるのかもしれない。
 そんな考えもつくしの中にはあった。
 けれどつくしは、仕事の上でも何か役に立ちたかったし力になりたかった。お金も知識も何もないけれど、「がんばってね」と応援する以上の何かが欲しい。いつも必死に頑張っているあきらのために、何かしたい。
 そう考えた時、自分に出来ることは今の仕事を続けることだと、そういう結論に至ったのだ。
 それは本当に微力かもしれない。直接あきらの役に立てるかどうかもわからない。それでも会社のために働くことは廻り廻ってそこへ行きつくはず。つくしはそう信じたいと思った。

「あたし、美作商事の子会社に入社して良かったって思ってるの。そのおかげで、ほんの僅かでも美作さんの力になれるから。偶然だったけど……きっと必然だったって、今はそう思ってるんだ」

 今度は、あきらが胸をいっぱいにする番だった。
 つくしは結婚しても働きたいと言うだろうと、それはあきらの中で確信に近いものだった。普段のつくしを見ていればわかる。つくしにとって働くと言う事は、食事をするのと同じくらい当たり前のことで、きっとそれをしなくていい生活なんて考えられないに違いないと思ったからだ。
 金の苦労をさせることはまずない。一生遊んで暮らしていいと今すぐ言ってやれるくらいの財力は既にある。でもつくしはそんなことを言っても喜ばないし、それをわかった上でも働きたいと言う。それが普通のことだから、という理由で。
 あきらはそう思ったから、つくしが働きたいと言ったなら、自分は彼女が笑顔で毎日を送れるように出来る限りの協力をしようと決めていた。
 ただ本当にそれだけだった。まさかつくしが、美作の力になりたいと考えているなんて、思いもしなかった。

「……いつだって力になってるよ、おまえは」
「うそ。あたし、なーんにもしてない」
「してるだろ。おまえがいてくれるだけで、俺は頑張ろうって思えるんだから」
「美作さん……」
「ったく、そんなこと考えて働いてたなんて……今の今まで知らなかったぞ」
「当たり前よ。言ったことなかったもん。恥ずかしいじゃない」

 大したことも出来てないのに、と口を尖らせたつくしが愛しくて、あきらは力を込めて抱きしめた。

「時々とんでもなく驚かされるんだよなあ。牧野には」

 抱きよせられた胸から直接響くあきらの声が愛しくて、つくしはあきらの背中に腕を回した。

「会食で報告なんて、やめた。俺、ロサードに直接行くよ。二人のことを話して、おまえが仕事を続けやすい環境を作ってもらえるようにお願いする。きちんと」
「美作さん……」
「親父の申し出はありがたいけど、やっぱりこれは俺がするべきことだ」
「本当なら、あたしが話すことだよね」
「これは普通の結婚報告とはちょっと違うからな。でも、話す時は牧野も同席してもらうから。二人のことなんだから、二人で揃って話そう。いいな?」
「うん」

 誰と誰に話したらいいだろうかと上司や同僚の名前をあげながら、つくしは近いうちに来るその日を思い描いた。
 まだ一度も入ったことのない社長室に穏やかな表情のあきらと、緊張で固まる自分がいて、きっと驚いて目を丸くする社長や上司がいて……考えたらそれだけ緊張が走って、でも少しだけ前へ進む気がして嬉しくなった。
 間違いなく来る。その日は。そう遠くない未来に。





 *




 ――だけどこれは、早過ぎない?

 あれからまだ数日しか経っていないのに、思い描いた「遠くない未来」がもう来たと言うのだろうか。
 たしかにあの時点から見れば未来であることに変わりはないけれど。
 もちろんそれが悪いわけではない。いずれ話すことなのだから。

 ――でもまだあたし、心の準備がさあ。

 難しい顔をする平野の横で、つくしもまた違う意味で難しい顔をしている。おそらく二人を目撃した人間がいたとしたら、「あの二人は何か大きな失敗をして、社長に怒られるに行くんだ」と思うだろう。「きっと今頭をフル回転させて、その言い訳を考えているに違いない」と思うだろう。
 平野に関しては当たらずとも遠からず、けれどつくしに関しては掠ってもいない、そんな勝手な憶測をされてもおかしくない程に、二人は難しい顔で歩いていた。
 けれど歩けば、その速度がどんなに遅くても前へ進む。気がつけば、もう社長室は目の前だった。
 扉の前で足を止め、平野はつくしを見て言った。

「とにかく、話を聞こう。考えてもわからんものはわからん。何か言われてもひとまず俺が対応するから」

 平野の顔には笑みが浮かんでいる。疑問や緊張は胸の奥底に仕舞い込んで、部下が不安がらないようにと気遣ってくれているのだろうことを、つくしは理解した。

 ――ごめんなさい、平野部長。おそらく……きっとあたしのことです。

 つくしは平野に無駄な緊張を与えてしまったことに心の中で手を合わせながら、「わかりました」とだけ答えた。

 平野がコンコンと扉をノックする。はい、と社長の声が聞こえて、すぐにカチャリとドアが開いた。ドアを開けたのは社長秘書で、二人の姿を確認すると、中へ入るように促した。「失礼します」と平野が足を踏み入れ、その後に続いてつくしが入る。

「え……あっ、どうも、お世話になっています」

 平野が慌てたように言葉を紡ぎ、頭を下げた。
 その瞬間、つくしにも見えた。

 ――……あ、やっぱり。

 広々とした社長室の立派なソファに、思った通り、あきらが座っていた。
 柔らかな、優しい笑みを湛えて。
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