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月色の雫
COLORFUL LOVE view of AKIRA
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 五秒、十秒……睨み合いに近い状態の沈黙はどれほど続いただろうか。やがて大木社長が口火を切った。

「実はその話を私の耳に入れたのは、娘の百合なんだ。一昨日の夜だったかな。家に帰るや否や妻が血相変えて飛びついてきてね。百合が部屋に閉じこもって出て来ないと言うんだ。何事かと思って部屋へ行ったら一人で泣いてて。時間をかけて話を訊いて、ようやく言ったのがそれだったんだ」
「私が、一般女性と婚約する、と?」
「そうだ。何をバカなことをと笑ったんだが、百合は酷く真剣でね。ポロポロ涙を零しながら言うんだよ。一人で浮かれて騒いでた自分が恥ずかしい、って」
「……」
「一体どこでそんな話を訊いたんだと問い詰めても、それは言えないの一点張り。百合は私に似て妙に頑固なところがあるから、多分もうどんなに問い詰めても答えてはくれないだろうと訊くのは諦めたんだが……」

 言葉を止めた大木社長が、俺を真っ直ぐに見て言う。

「何はともあれ、あまり無責任な話がまことしやかに広がるのは良くない。直接あきら君本人の耳に入れておくほうがいいだろうと思ってこうして来たんだよ」
「そうでしたか。それは――」
「ついでに、君の本心も確認しておきたくてね」

 内側まで透かし見るような視線と表情と、やけに冷静な、けれどどこか高圧的な口調。俺の耳に入れようと、なんて言ったがそんなのは口実で、全てを知った上で俺を問い詰めるために来た。そして俺が折れるのを待っている。そんな気がした。

 ――そんな可能性、微塵もないのに。
 けれどそれさえも承知の上なのだ、この人は。全てをわかった上で、それでも尚現状を自分の思う方向へと変えようとする。ありとあらゆる手段を使って。
「甘く見ていてはやり込められる」――以前聞いた親父の言葉が脳裏に浮かんだ。
 再び流れる沈黙。

「話の出所に心当たりは?」

 それを破ったのは、ここから話の核心部分へと一直線に突き進むだろう質問だった。
 俺はそれに、ゆっくりと頷いた。

「ええ、あります。――私です」

 大木社長がピクリと眉を動かした。そして数秒後、僅かに緩められた口元から、ふっと小さな笑いが漏れる。

「百合があまりにも頑なに口を閉ざすものだからね。まさかとは思ったんだが、やはり君だったか」
「私が誰にも言わないようお願いしました。誰が言ったどうのではなく、出来ればこの話自体まだ誰にも話してほしくなかったので――」
「あきら君」
「はい」

 俺の言葉を遮った大木社長の声はいつもより低く、その表情は、硬く強張っていた。「余裕」を貼り付けておきたいけれど上手くいかない、そんな心の内が透けて見える。そんな自分を落ちつけようとしているのか、目の前のティーカップを手に取り、紅茶をゴクリと流し込んだ。
 静まり返った室内に、カチャリ、とカップとソーサーが触れ合う音が響き、それに続いて低く掠れた声がした。

「君は本当に、一般人と結婚するつもりなのか?」

 眉間に皺が刻まれる。答えはわかっている、けれどその答えは認めない。――言葉はなくともその想いがはっきりわかる。
 けれど俺の答えは、変わらない。大木社長を真っ直ぐに見つめ返し、深く頷いた。

「はい。つもりではなく、結婚します」

 眉間に刻まれたその皺が、一層深く険しくなる。

「春には正式に婚約発表する予定でいます。大木社長には、いずれ近いうちにお話するつもりで――」
「あきら君!」

 俺の言葉を遮る、本日二度目のその声は、先程よりも遥かに強く響いた。

「なんでしょうか?」
「考え直しなさい」

 有無を言わせぬ口調だった。その眼には、怒気にも似た光が宿っていた。

「私は様々な会社の後継者を知っているが、その中においても君はとても有能な優れた後継者だ。私自身が美作グループの人間であるが故の色眼鏡ではない。これは冷静な評価だ」
「ありがとうございます。そう言っていただけて光栄です」
「君は、この会社をさらに大きくすることが出来る。もちろんグループそのものも。そのチャンスと可能性を君は持っている。いや、君にしか持ち得ないものだろう。それがどういうことか、故にどうすることが賢明なのか、考えてみてほしい」
「もちろん考えましたよ」
「ならもう一度考えてほしい。時間をかけて。もう一度きちんと考えて――」
「きちんと考えましたよ。時間もかけてます」
「いや、考えていない。まったく考えが足りてない」

 大木社長はふるふると首を振った。俺は肩を竦めて息を吐く。

「心外ですね。そんなふうに言われるのは」
「どう考えても私にはそうとしか思えん。――甘いよ、あきら君」
「甘い、ですか」
「君の結婚は、そんなに簡単なことじゃないんだよ」

 トントンとソファの肘掛を叩く大木社長の指先から、その苛立ちが立ち昇る。

「君は若い。未熟であることは当然だろう。どんなに優秀でも有能でも、積み上げられる経験値ばかりは限りがある。それは仕方がないことだ。だからこそ周囲の声に耳を傾ける必要がある」
「そうですね、そう思います」
「なら――」
「未熟だから結婚は自分の意思ではなく周囲の意思でしろと、大木社長はそうおっしゃりたいのですか?」
「何もそこまで極端なことは――」
「先に断っておきますが、私は政略結婚の類に興味はありません」

 言い放った言葉が鋭く響く。それは思った以上の鋭さで、自分でも少々驚くほどだった。
 目の前の大木社長が息を飲む。それを視界に留めながら、俺は心の中で苦笑していた。

 今回の大木社長に限らず、こうして乗り込んで来た人間はいつだって言いたいことを山のように抱えている。
 相手の出方を見て話す者、感情任せに全てをぶちまける者、手法は違えどとにかく言いたいことを言わないと気が済まない。
 俺はこうなる覚悟を決めた時から、大木社長には言いたいことを全て吐き出してもらおうと考えていた。何を言われようとも俺の気持ちは変わらないのだから、そうすることが一番いいだろうと。
 ――なんて思いながら、結局遮っちまったな。
 これが完全なるビジネスシーンであったなら、思った通りに事を進められた自信はある。ただプライベートとなると、俺にはまだまだ冷静さが足りないようだ。とかくそこに牧野が絡んでくると、俺の中で常に一定であるはずの許容量みたいなものが極端に減るらしい。
 今はまだ、直接的に牧野のことをとやかく言われているわけではない。けれど実際に吐き出されている言葉の向こうに、牧野の存在が確実に在る。それが感じ取れてしまうから、頭とは別に心が反応してしまうのだ。冷静でありたいと思ってはいても。
 ――このままこっちが全部言っちまうか。
 もう、口火は切ってしまったのだから。当初の予定とは全く異なる展開だが、どうあれ結論が変わるわけではないのだ。
 そう思うと、一段頭が冷えた気がした。
 俺はすうっと息を吸い込み、静かに言葉を紡ぎ始めた。

「正直に言えば、私も過去にはそれが当たり前と思っていた時期がありました。両親や周囲が薦める相手と結婚をして、そこに少しでも愛情が芽生えれば幸せかな、くらいの感覚でしたよ。だから結婚に対して夢も希望も持てなかったし、出来るだけ先延ばしにしたかった。望まない結婚なんて、会社にとっては有益であっても、私にとっては無益どころかマイナスですから」
「それは違う。マイナスなんてことはない。会社にとって有益であるということは、君の未来にだって必ず――」
「会社がでかくなって資産が増えることが俺の未来に有益? どう有益だと言うですか。例えば今より良い生活が出来るとか? 人が羨むような生活は産まれた時からしてると思いますけどね」
「それは――」
「そもそも」

 俺はジロリと大木社長を見て、そして口の端を緩やかに上げて言う。

「美作商事は政略結婚に頼らなければこれ以上大きくなれない会社だと、大木社長はそう思われてるんですか?」
「いや、そういうことじゃ――」
「私は大きくするつもりでいますよ。そんなものに頼らなくても、自分の力で」
「……」

 室内は静寂に包まれた。
 言葉を遮られた大木社長の唇が小さく震えている。俺はそれを見遣りながらティーカップを手にすると、ゆっくりと口に運ぶ。コクリと喉を潤すよりも先に、その震える唇から低く震える声が吐き出された。

「自信があるのは結構。誰にも頼らずやってみせるなんて、後継者の意気込みとしては上等だ」

 必死に怒りを抑え込む、けれど上手く抑え込まれていない声。

「だが、世の中そう甘くはないぞ。思い通りに行かないことなんて山程ある。万が一の備えは絶対に必要だ」
「その備えが、協力な後ろ盾となる相手との結婚、ですか?」
「何もそこまで露骨な相手を選べとは言っていない」
「でも何も持たない一般人よりは、何かしらを持っている人間、例えば大木社長のご息女のような方と結婚するべきだと?」

 大木社長は、瞳を一瞬大きく見開き、それからすっと細めると、余分な怒りを逃がすように大きく息を吐いた。そして、話がそこへ行き着いたのは偶然だと言いたげなわざとらしい表情で二度三度と小さく頷いた。「まあ、そんなところだ」と小さく呟きながら。

「百合が最適だなんてことは言わんよ。でもメリットは大いにあるだろう」

 ――最初からそれが言いたかったんだろうが。バレバレだよ、おっさん。
 顎を撫でながら徐々にふてぶてしい笑みを広げる大木社長に、思わず悪態を吐きそうになる。それをぐっと抑えて、俺は淡々と言葉を紡ぐ。

「初めに断らせていただいたはずです。私は政略結婚に興味はないと」
「そうだが、でも」
「大木社長の持論は理解します。ただ私のとは違う。どんなに言葉を尽くしていただいても、考えを変えるつもりはありません」
「……あきら君」
「相手がどんな家柄であるかは関係ないんです。例えばそれが資産家の令嬢であったらダメかと言えば、そういうことでもありません。それが私の結婚したいと思う相手であれば」
「つまり――」
「つまりは、家柄を意識して結婚相手を決めているわけではないということです。その意味、わかっていただけていますよね?」

 俺は他の誰でもない、牧野を好きになった。ただそれだけのこと。難しいことなんて何もない。
 けれどそれを簡単にわかってもらえるとは、俺自身も思っていない。
 大木社長だけじゃない。俺が牧野と結婚をする事実が知れ渡れば、同じように「考え直せ」「本当にそれでいいと思ってるのか」と言ってくる人間が他にも大勢いるだろう。俺はその度に、自分の考えを話し、決意の強さと大きさを理解してもらわなければならない。
 そのことに、これから途方もない時間を費やすことになるのかもしれない。
 でもそれらすべてを覚悟した上で、俺はこの道を進むと決めた。
 そして、今目の前にいる大木社長という人物が、一番厄介だということも最初からわかっていた。
 美作グループにおいて、周囲から一番恐れられている男。顔が広くて影響力がある。故に敵に回すと大変なことになる、と彼の顔色を窺う人間は多い。
 彼が右を向けば無条件に右を向く連中もいる。そう言う意味では、俺の結婚話も彼が理解を示せば、向かい風が一気に追い風に変わる可能性もある。
 けれど俺は、そう言う意味で「厄介」と思っているわけではなかった。
 厄介なのは、彼の娘が百合であるということ。
 大木社長が娘の百合を溺愛しているのは周知の事実。その娘の想い人が俺なのだ。俺の考えを変えなければ、娘の想いも実らない。
 それ故に、俺の考えを理解する方向に頭を働かせてはくれない。「おまえみたいなガキの言い分、理解する気にもならん」と言いたげな表情を隠すことなく俺を見据える大木社長。彼をこの場で納得させる術などあるのだろうか。少なくとも今の俺には思いつかない。何回でも何十回でも、納得してくれるまで言葉を尽くすより他に方法はない。

「今すぐ理解してくれなんて言いません。ただ、私の気持ちは――」
「何故なんだ?」
「――はい?」
「何故、百合ではダメなんだ?」

 遮られた言葉の代わりに突きつけられたのは、真っ直ぐな親心だった。
 この単刀直入な質問には、他人ならば訊かずともわかる明確な答えがすぐそこにある。けれど、たとえその明確な答えに行きあたっていたとしても、敢えてそれを訊かずにはいられないのだとすぐにわかった。
 大木社長は親だから。愛する娘のことだから。
 この事実だけを切り取れば、どうにもならないことだとしても胸が痛む。その想いはわかるから。
 ――でも、仕方ないよな。
 俺は小さく息を吐き、その答えを伝えようと口を開きかけた。

 その時、部屋の内線電話が鳴った。
 プープーと鳴り響くその音に、俺はほんの一瞬考えて、「申し訳ありません」と断りを入れると同時にソファを立った。
 急ぎの電話以外は繋ぐなと言ってある。つまりこの状況で鳴った内線電話は、急ぎの何かを伝えようとしているということだ。
 俺は迷うことなく受話器を取った。

「はい」
『松本です。お話中に申し訳ありません』
「どうした?」
『ロサードの平野部長から電話が入っております』

 ――平野部長?
 サッと血の気が引くような、厭な予感が身体を駆け抜けた。
 平野部長にここの電話番号を告げたのは昨夜のこと。緊急の時はもちろん、緊急でなくても直接話がある時には使ってほしいと告げた。普段ならば、仕事の話ということも考えられる。けれど今はどう考えてもそうではない可能性の方が高かった。
 湧いてくる不安を唾と一緒にごくりと飲み込み、平静を装って言葉を吐き出した。けれどそれは、次の松本の言葉であっさりと剥がれ落ちることとなる。

「用件は?」
『百合様が、牧野様のところに――』
「行ったのか!?」
『そのようです』

 自分でも驚くほど強い声が出て、心臓はドクドクと煩い程に打ち鳴った。
 恐れていたことが――尤も望まないことが起きてしまった。こんなにも、早く。
 ――くそっ……。
 思わず目を閉じた俺の脳裏に様々なことがぐるぐると廻る。難しいことはひとつもないはずだった。ただ混乱していた。望まない事態が目の前で現実となっていくことに。
 目を開けた俺はちらりと応接セットを見やる。大木社長は、俺の声と様子を気にしてか、こちらをじっと見ているようだ。何事かと探るように――いや、そうじゃない。探るまでもなく……。
 またぐるぐると目が廻るほどの勢いで頭の中が騒ぎ出し、処理しきれない程の感情が暴走を始める。怒りとも驚きとも不安とも、なんとも言い難い感情が渦巻いて、眩暈にも似た感覚に襲われた。
 耳元に松本の声が響く。聞き逃してはいけないのに、上手く頭に届かない。それでも懸命に、その声に意識を集中させる。

『どうやら会社の近くで牧野様を待ち伏せて接触したようで、今は場所を移してお二人で話されているようです。木下様が近くでその様子を見ておられて、専務と連絡を取りたいと平野部長に電話があったとのことです』
「場所は?」
『それが、これからパーティーを予定されているレストランの一階なんです』
「え、それは――」
『私も驚いたのですが、どうやら偶然のようで』
「……」

 驚いた。まさか二人がそこで話をしているとは、思ってもみなかった。都会のど真ん中、話す場所などいくらでもある。しかもそこはロサードから近いわけでもないのに。
 ――牧野が指定したのか? いや、そんなわけはない。本当に偶然なのか?
 それを言葉のまま捉えていいのか、すぐに判断することは出来なかった。ただ今は、真実がどうであれその状況を「神が味方した」と受け止めて手を打たなければ。
 俺は胸元の携帯電話を取り出す。先程牧野にメールをして以降、携帯電話を見ていないけれど、着信や受信はないはず。それでも念の為にディスプレイを見る。
 案の定、そこには何も表示されていない。
 会社の前で大木百合と出くわし、今あのカフェで向かい合ってる状況から考えて、俺がメールをしたその時、牧野はすでに彼女と一緒にいたことになる。その時すぐにメールをくれたら、と思う気持ちはあるけれど、そういう状況にないのかもしれないし、あるいは……。
 ――俺に気を使ったか?
 その可能性が極めて高いことを俺は知っている。だから余計に悔やまれる。全てに対して浅はかな自分が。
 思わず拳を握り込む。
 ――何やってんだ、俺は。
 でも今は、そんなことばかりを思っているわけにはいかなかった。唇をぐっと噛み、それから携帯電話を胸元に戻しながら俺は口を開いた。

「松本、悪いがすぐに――」
『花沢様と西門様に連絡をいたします』

 紡ごうと思っていた言葉が耳元に響く。察しの良い秘書に、小さな感嘆の溜め息が零れた。

「多分もう近くに居ると思うんだ。だから――」
『事情を話してすぐに向かっていただけるようお願いしてみます。あのお二方でしたら、事情を話した時点で私が言わずとも最速で駆けつけて下さると思いますが』
「ああ。俺もそう思う」

 牧野の危機だと知れば、類も総二郎も何を差し置いても向かってくれるだろう。――そして。

「同じ連絡をして欲しい奴がもう一人いる」
『……もしかして、道明寺様ですか?』

 それはあまりにも鋭すぎる指摘だった。
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2011.08.28 月色の雫
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