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月色の雫
COLORFUL LOVE view of AKIRA
6
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 もしかしたら俺は、酷い男になどならなかったのかもしれない。
 頭の中では思っていた。どんなに卑劣だと思われようが、牧野を守るためなら何でもしてみせる、と。冷たい言葉を吐き、冷たい視線を落とし、怯えさせて嫌わせて、向こうから一生会いたくないと思わせるくらいの態度を取ることも、考えなかったわけではない。ただ、その気持ちを継続させるには、目の前で起こる事柄の一つひとつが優しすぎた。
 牧野は俺の姿に安堵を見せ、普段滅多に語らない想いを自らの口でぶつけた。俺の隣を譲らないという牧野の真っ直ぐな想いに、俺がどれだけ愛しさを募らせたか、言葉でなんてうまく説明できるはずもなく、それは同時に百合さんに対する強い姿勢を崩させた。
 そう。どうでもいいと思ってしまったのだ。牧野を苦しめさえしなければ、あとのことはどうでもいいと思えた。
 だから俺は、自分自身がなろうとしてた酷い男にはなりきれなかっただろうし、逆に、胸の深くに沈めたはずのどす黒い感情を晒すことになった。
 多分俺は、結果的には普段と然程変わらない俺だった、だろう。だけど、牧野に見せたい俺ではなかったと思う。光景そのものは、さらに強く。
 隠したいわけではない。でも、視覚で捉えた情報は残り方が鮮明で、和らぐには時間を要してしまうから。
 牧野に余計な溜息は吐いてほしくない。そう思う心は変わらない。

「一言一句聞きたいなんて思ってないからね、あたし」

 黙って想いを巡らせていた俺をどう思ったのか、ふいに牧野がそう言った。

「美作さんと大木さんには仕事上の関係があるし、きっとあたしにはわからない難しい問題もあったりするだろうし。ただ、その……酷い男になるってどんな意味なのかがはっきりわからなくて……もしかして、仕事の関係のことまでを言ってたりするのかな、とか、あたしのせいで変えちゃいけない何かが変わってしまっていたりしたら、とか」

 やけに遠回しな言い方をする牧野だけれど、言いたいことはわかる。それは実に牧野らしい思考だから。

「何も変わらないよ。仕事上の関係は特に。正直言うと俺は変えてもいいと思ってた。俺が望まないとわかってることをやるからには、それ相当の結果が待ってることも当然覚悟してるはずだからな」
「……」
「だけど牧野、そういうのは望まないだろ?」

 牧野は一方的に力を行使することを好まない。例えばそうすることが最善で牧野自身の心を平穏にするかもしれなくても。

「だから変えないよ」

 牧野の望まないことはしたくない。牧野の中で、不安が膨らむようなことはしたくない。だから、百合さんにも何も変わらないと伝えたし、大木社長が俺を訪ねてきたことも、俺の胸だけにおさめておくと決めていた。牧野にだけでなく、司にも総二郎にも類にも話していない。言えば必ず、先のことを心配して手を打つべきだと言うだろうから。そして今日のところは特に、牧野が怪しむような言い合いもしたくなかったから。
 俺は牧野の髪をするりと撫で、再び言葉を紡ぐ。

「心配しなくていい。おまえが望まないだろうことを決断しなきゃいけない時は、ちゃんと話すよ」
「あたしが望まない決断?」
「うん。おまえのことはもちろんだけど、俺は会社も守らなきゃいけないし、家庭を持って家族が増えたらその全員を守らなきゃならない。誰かが悲しむとわかりきってる決断でも、しなきゃいけない時がある。この先、きっと」

 そんなことは、改めて言うことでもないのだと思う。それでもきちんと言葉にしなければ、いつかの時、自分の決断が遅れてしまうのではないか。――そんな気がした。
 自分自身をきちんと見つめた時、全て完璧に、とは言わないけれど、決断力や判断力が鈍い人間だとは思っていない。でも、そこに牧野が絡んだら、俺は冷静で居続ける自信がない。
 今日した思い違いも、未だ燻る重苦しい感情も、それを裏付けている。だから余計に、言葉にしておかなければいけない気がした。動揺することはともかく、焦燥感や怒りに飲み込まれないために。
 それは多分すごく難しいのだけれど、それでもどうにか足掻かなければいけないこと。そうでなければ、俺は大切な人を守り続けていけないだろうから。

 自分の思考と対峙する中、ふいに頬を撫でられた。ハッとして腕の中の彼女を見下ろすと、こちらを見上げる瞳とぶつかった。

「何か、あった?」
「え?」
「美作さん、さっきあたしにそう訊いてくれたじゃない? だけど美作さんこそ、何かあったんじゃないの?」

 それは思いも寄らぬ展開で、思いも寄らぬ声色だった。
 牧野は俺の肩口に頭を乗せたまま、そこから器用に俺を見ていた。その状態は先程までと然程変わっているわけではない。ただその声は、深い胸の内を覗き見たかのような、透明だけれどどこまでも深い響きを持っていた。
 言葉の出ない俺に代わって牧野が再び言葉を紡ぐ。

「なんかいつもと違ったよね? ここに来てからの美作さん」

 はっきり言葉にせずとも、それが感情任せに牧野を抱いたその行為を指していることはすぐにわかる。

「そのことは――」
「勘違いしないでね。厭だったと不快だったとかそういうことじゃないの。そうじゃなくて、なんていうか……なんか、美作さんの不安が伝わってきたような気がして」

 牧野の声が、胸に頭に深く響く。

「あたしが知る限り、そういう時の美作さんはいつも余裕で、いつだってあたしだけがいっぱいいっぱいになってる気がするの」
「そんなことねえよ。俺だって――」
「わかってるよ。わかってるけど、そう感じるくらいあたしはいつもギリギリで、そこさえも簡単に越えて翻弄されてる気がしてるの。だけど、さっきはそうじゃなかったなって感じたの」

 違ったらごめんね、と軽いトーンで言う牧野は、きっと確信を持っている。それでも俺が重く捉え過ぎないようにと精一杯の気遣いを見せてくれていて、それがわかるから、胸がぐっと締め付けられる。
 気付かれているだろうとは思っていた。けれどこうしてぶつけてくるとは思っていなかった。
 牧野は抱かれた時間のことを後から話すという行為に強い羞恥心を持っているようで、いつだって全力で嫌がられて必要以上には話させてくれなかったから。だから今回も、もう終わったこととしてそのまま片づけられていくだろうと思っていたのだ。
 それはまさに、不意打ちだった。

「違ってない。ごめん、俺――」
「やだな、何謝ってるのよ。さっきも言ったでしょ? 厭だったわけじゃないって」
「だけど」
「それで少しは安心してくれたかな、って思ったんだけど……まだ足りなかった?」
「……え?」

 厭だったわけじゃないかもしれない。けれど自分本位な抱き方をしてしまったことは事実で、俺自身がそのことを悔いていたから、だから謝りたかった。けれど牧野はそんな俺の言葉を遮って、言葉を降らせた。

「多分、あたしの目が覚めたのって、美作さんのことが気になったからだと思う。あたしのほうが先に眠っちゃった確信はあったの。だけどあたしが目覚めた時、美作さん眠ってたから、だから少しだけ安心したんだけど」

 そこまで言って、牧野は腕の中でくるりと体制を変えて、今度は真っ直ぐに俺を見下ろした。

「やっぱりまだ心配。やっぱりまだ、いつもと違う気がするんだよね」

 牧野はじっと見つめ続ける俺の顔にそっと手を伸ばして、先程よりもさらに優しく頬を撫でた。

「何に悩んでいるのか、傷ついているのか、あたしは鈍感だから、美作さんがいつもしてくれるように察してあげることは出来ないけど」
「……」
「だけど、力になりたいって思ってるんだよ。あたしが一緒にいることで、少しでも元気になれたり、癒されたり、そうなったらいいなって」

 牧野は柔らかに微笑んで言葉を続けた。

「でもごめんね、美作さんの悩みを作ってるのも、あたしかもしれないよね」
「牧野、それは――」
「あたしは美作さんにただ守られていようなんて気はさらさらない。だけど、頼らざるを得ない時もあるってことは自覚してる。だったら黙って守られているべきなんじゃないかって思う時もあるけど、でもやっぱりそれは出来なくて。だから、美作さんを余計に困らせたりしてる時もあるよね、きっと」
「そんなことは――」
「ないって言うよねー、美作さん優しいから。でもあるよ。さすがにわかるよ。あたしが簡単に口出し出来るような世界じゃないのに、あたしはあたしの我を通そうと平気でしてるもん」
「牧野」
「だけどあたしはやっぱり甘っちょろい考えを捨てられない。美作さんと大木さんが二人でいると胸がざわつくのに、仕事上の関係にはこれっぽっちの亀裂も入ってほしくないって思っちゃうの。だから、美作さんが変えないって言ってくれてホッとした。……でも」

 牧野はそこで言葉を止めて、自分の中の想いを整理するかのように宙を見つめた。それからしっかりと俺を見て、そして再び口を開いた。

「でも、美作さんの為ならそんな自分を妥協させてもいいって思うあたしもいるの。美作さんが苦しむくらいなら、あたしの戯言なんて無視していいって思ったりするんだよ」

 慈愛に満ちた牧野の声が、胸に響く。

「それに毎日忙しく仕事してたら、イラついたり心を痛めたりすることっていっぱいあるよね。いつもあたしばっかり我儘訊いてもらってるけど、美作さんだって我儘言っていいんだよ? 吐き出してすっきりするなら愚痴だって聞くし、笑わせてほしければヘン顔してあげてもいいよ? 黙っていてほしいなら貝にだってなるし、それから……一人になりたければ、あたしは家に帰ったっていい。気分が浮上して、また一緒にいたくなったら再登場するよ」

「ジャジャジャジャーン、てね」とおちゃらけた口調で笑みを零しながら、けれど深い優しさを湛える瞳でそう語りかけてくる牧野に、俺は胸がいっぱいになって熱いものがぐっと込み上げて、今にも溢れてしまいそうだった。
 だから、「今、あたしはどうしてあげたらいい?」と訊かれたけれど、すぐには言葉が出なかった。少しでも気を抜いたら泣いてしまう、そんな気がしたから。
 愛しいとか嬉しいとか、そんな言葉じゃ表現しきれない。抱えきれない程大きな感情の波がぶわりと押し寄せて、俺は何かに必死でしがみつく。
 それは、男としての最後の意地であり、理性。この期に及んでそんなものにしがみついているなんて、もはや単なる悪あがきでしかないのだけれど、それでもそこが俺にとっては最後の砦だった。

「……傍にいて」

 込み上げる感情を出来る限り押し込めてようやく吐き出した言葉は、溢れ来る感情が大きすぎて声が震えた。

「もういるよ」
「うん、だからこのまま」
「……それだけ?」
「うん」
「ただ居るだけでいいの?」

 俺は頷く。
 牧野はそんな俺をじっと見つめて、じっとじっと見つめて、それから納得したように一つ頷くと、俺の腕の中から器用に抜け出した。
 そして先程もしたように、ポフンと枕に頭を乗せて俺と並ぶ。目が合った牧野はにっこり微笑み、それから俺の頭をそっと引き寄せた。
 その腕の中に、包み込むように。いつも俺が牧野にするように。ついさっきまで、俺が牧野にしていたように。

「いつも抱き締めてもらってばかりだもんね。たまには逆もいいでしょう?」

 額に牧野の喉元の動きを感じるそこは、とても温かな――心の奥底に沈めた凍える感情までが溶け出すような、そんな温かな空間だった。

「美作さんは、いつも周囲の感情優先で、自分自身に我慢ばかりさせてるからね」
「そんなことは」
「あるでしょ? あんな超我儘な幼馴染や友人があんなにいるんだから。頼られるって嬉しいけど大変よね。その上あたしもどっかり乗っちゃってるもんねぇ。美作さん優しいからすっかり甘えちゃって。苦労が絶えないってこのことね」

 ホントすみません、と小さく笑う牧野の声が直に伝わる。それは耳に響くよりもくすぐったい、けれどずっと近く感じる柔らかな波動に思えた。

「我儘な幼馴染達はともかく、俺の婚約者には、もっと頼って甘えてもらいたいと思ってるんだけど?」
「うん。それもちゃんと知ってるよ」

 でもね、と吐息交じりに言葉を紡ぎ、牧野の指が俺の髪を梳いた。
 ストレートにしてはいるものの、ほんの少しだけクセを残した俺の髪は、きっと牧野のようにサラサラとは手ぐしが通らない。それでも牧野は、いつだって器用に俺の髪を梳く。柔らかくて気持ちがいいと言いながら。昔より幾分短くなった、それでも少々長めの俺の髪を、愛しげに。
――愛しげに。
 その感情は、されている本人にもしっかりと伝わるんだと、改めて思う。
 そんな甘やかな感情に浸る俺の耳に、多分身体に、直接胸に、「でもね」の続きが囁かれた。

「でも、あたしだって思ってるんだよ。あたしの婚約者には、頼られたり甘えられたりしたいなあって」

 ドクン、と派手に鼓動が跳ねた。

「あたしにもっと甘えていいって言ってくれるのと同じ感覚で、あたしも思ってるんだよ。もっと頼っていいよ、甘えていいよ、って」
「……」
「頼りないかもしれないけど、あたしの精一杯で支えるよ。あたしが大切にされてるのと同じ分だけ、あたしもあたしの婚約者が大切だから」

「だから、ね」と紡がれる牧野の声はひどく優しくて、あまりにもひどく深く優しくて、胸が熱くて仕方ない。
 ――反則だよ、牧野。
 その優しさも温かさも、俺の胸を熱くして、沈めようと躍起になっている感情を揺らして、もう本当にどうしようもなくて、俺はぐっと瞳を閉じる。

 ――反則だよ、牧野。そんなこと言われたら、愛しくてたまんねえ。

 溢れに溢れて溺れそうな想いの中で、言葉を吐く。

「牧野」
「ん?」
「婚約者って、俺のこと?」
「他にいないでしょ?」
「うん、知ってる。嬉しいから確認しただけ」
「……恥ずかしいんだから、蒸し返さないでよ」

 そう言うと思った。思ったからわざと言った。溢れ返る想いの逃げ道を作りたくて。
 意識的に、恥ずかしさに顔を赤くする牧野を思い描く。わざと大げさに、真っ赤な牧野を。

「牧野、今顔赤い?」
「だったら何よ」
「牧野の顔見たい」
「ダメ」

 ぎゅうっと力を込めて俺の頭を抱き込む牧野。

「くくくっ」
「な、なによ」
「いや、そんな風にされたら余計に見たくなるな、って」
「……美作さん、たまにすごく意地悪よね」
「くくくくっ……」
「もーう、そんなふうに笑わないで。言い慣れないこと言っちゃってあたしだって……――」

 言い募る牧野の声を聞きながら、俺はクツクツと笑い続けて、笑いながら牧野の背中に腕を回してぐっと力を入れた。
 ぎゅうっと牧野に抱きつくように。

「あー、笑い過ぎて涙が出る」

 小さく呟いて、また腕に力を込めた。
 コロコロと鈴が転がるように続いていた牧野の声がやがて止み、部屋は沈黙に包まれた。
 トクトクと、牧野の胸で刻まれる鼓動が直接耳に届く中、彼女の手が、そっと俺の頭や背中を撫でるのを感じた。何度も何度も、柔らかに。

 ――なあ、牧野。
 もやもやとした感情を抱えてたんだ。ずっと。
 俺の目の前に大木社長がいて、おまえの目の前に百合さんがいて。すぐに駆けつけて守りたいのに、どうやっても守ってやれないその状況に焦ってイラついて。俺の手で守りたいおまえを守ったのは、ほかの誰でもない、司で。
 頼ったのは俺、頼んだのも俺。誰よりも頼もしく思っていたし、誰よりも強く守ってくれると確信していたけど、だけど誰よりも避けたいのも司だったんだよ。司がどんな風におまえを守るか、俺には手に取るようにわかるから。そんな司におまえがどんな気持ちになるか、それさえもわかってしまう気がするから。司は、おまえにとって特別な男だから。
 そう、単なる嫉妬なんだ。このもやもやは、単なる俺の醜い嫉妬なんだ。
 どれだけ自分が小さい人間かがわかるから、余計にもやもやして、どうしてもそこから抜け出せなくて。
 だからおまえを独り占めしたかった。この腕の中に閉じ込めて、俺だけを見て感じて乱れるおまえが見たかった。今はそうすることでしか、自分を保てない気がしたんだ。
 ごめんな、牧野。そんな俺を許してほしい。そんな俺でも、許してほしい。
 そして尚も、そんな醜い気持ちを知られたなくないと思ってしまうことも。
 ――なあ、牧野。

「愛してるよ、牧野」
「あたしもだよ」
「愛してる」
「あたしも、愛してるよ」
「……ありがとう」
「何のお礼?」
「なんとなく、すべてに」
「……へんな美作さん」

 くすくすと笑う振動が、優しく俺を揺らす。


 胸の奥で凍り付いていた何かが、少しずつ溶けていく。
 溶けた何かがぽたりぽたりと雫を落とす。
 俺はそれを大切に集めて、ゆっくりと満月になっていく。
 牧野に満たされて、少しずつ、本当に少しずつ。

 もやもやとした感情は、今はまだ消えることはないのかもしれないけれど。
 もしかしたら一生消えることはないのかもしれないけれど、それでも今は、こうして牧野の腕の中で、牧野に頼って甘えて、そんな俺を許されて、俺は俺であり続ける。
 この腕の中なら、それが出来るんだ。

「牧野、眠い」
「眠っていいよ。なんかあたしも眠くなってきちゃったし」
「じゃ、一緒に眠ろう」
「うん」


 もうすぐ朝がやってくる。
 昨日と変わらず。
 昨日よりも、少しだけ強く。
Fin.
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2011.10.11 月色の雫
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