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「――ん……」
優しい気配を額に感じた気がして、ふと目が覚めた。
――ああ、いつの間にか眠ってたのか。
ゆっくり目を開けると、ぼんやり霞む視界に、少し慌てた様子の牧野のくりくりとした瞳が映りこんだ。
俺の腕の中にすっぽり納まっていたはずの牧野が、今は隣で頬杖をついて俺の顔をじっと見つめている。見ていないふりをするでもなく、必要以上に慌ててうろたえるでもなく、ほんの少し慌てただけで俺をじっと見つめ続けている牧野がとても珍しく思えて、もしや夢だろうかと疑って、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
クリアになった視界にも、先程と同じ牧野が映りこんで、これが夢でないことを知る。
「ごめんね、起こしちゃった?」
声を発した牧野は、言いながら俺の額にかかった髪を梳いた。その優しい感覚に、目が覚める寸前に感じたのはこれだと思った。
起こされたと言えばそうなのかもしれない。けれどあの優しい感覚の中での目覚めはひどく心地良かったから、俺は小さく頭を振る。
牧野の後頭部に手をやりサラリと髪を撫でた俺は、そのままくいっと引き寄せて唇を合わせた。愛しさだけが溶け出す、音も吐息も漏れない小さなキス。じんわり満たされた俺は、深く息を吐いた。
「今、何時?」
思った以上に掠れた声が出た。それと比べると先程聞いた牧野の声は既にしっかりしていて、随分前から目が覚めていたのだろうかと考える。
「うーんとね、三時を回ったところかな。まだまだ朝には遠いよ」
「そんな時間に牧野が起きてるなんて、随分レアだな」
「あ、ひどい。いつもは一度眠ったらなかなか起きないくせに、とか言いたいの?」
「そこまではっきり言うつもりはないけど?」
「うー……反論出来ないのが悔しい」
言葉通り悔しそうに口を尖らせる牧野に、俺はクスリと笑った。「どうせ睡眠の深いお子様ですよーだ」と拗ねた言葉を発する牧野。そのままそっぽを向くのだろうと思ったら、予想に反してこちらを向いた。頬杖を外しポフンと枕に頭を沈めると、俺の胸の上に手を置いて、擦り寄る仕草を見せる。
「どうした?」
「ん?」
甘えられることは大歓迎だけれど、でも少しだけ心配になる。牧野のこういう様子は、初めではないけれど、頻繁にあることではないから。
共有する時間が長くなればなる程、その間には互いのいろんな表情や仕草を見ることになる。 こうして抱き合う時間が生まれた当初は、奥手で照れ屋で「なんかキャラじゃない」と腕の中で顔を真っ赤にしていた牧野だって、いつからか自然と自ら寄り添ってくれるようになった。
それでも未だに「やっぱり恥ずかしい」と、なかなか進んで甘えてくれたりはしない。そうする時は大概――常に、ではないけれど――何らかの理由を持っている。加えて今は、予想外に思えることが幾つか積み重なっていたから、余計に気になった。
胸に牧野を抱き寄せる。
「嫌な夢でも見た?」
俺の言葉に一瞬眉を潜めて考える表情を見せ、それからすぐにやんわりと笑った。
「まさか。こうやって眠った時に、そんな夢見たことなんて一度もないよ」
「そう?」
「うん」
「幸せ以外、入り込む余地なんてないもん」と続いた言葉はとても小さくて、おそらく言うつもりのない心の声だったんだろうとすぐにわかった。けれどそれは、届かなかったことにするにはあまりにも甘くて優しい響きで、聞こえて良かったと、静かに胸に刻む。
本当はきちんと届いたことを伝えたいけれど、口にした途端、顔を真っ赤にして慌てふためいてオタオタとちぐはぐな言い訳をされて、余韻がどこかへ吹き飛びそうだから。そんな牧野を見るのも大好きだけれど、でも今はそっとそっと胸にしまい、言葉の代わりに髪を梳いた。
言葉に出来ない想いはこの指先から全て伝わったらいい。真剣にそう思いながら。
サラリサラリと音がしそうな髪を何度も何度も指で梳く。そうして十秒を超える沈黙を作り出した後、再び口を開いた。
「じゃあ、ほかに何かあった?」
「何もないよ」
「本当に?」
「うん。……あー、でも」
「でも?」
「気になってることはある、かな」
「それは何?」
牧野は口を閉ざし数秒考える。それからおずおずと、小さな声を発した。
「カフェで、美作さんが大木さんと何を話したのか」
ドキリとした。ドキリとして、髪を梳いていた指が思わず止まった。
五秒、十秒――実は一秒かも三秒かもしれないけれど、俺の中で時が止まった。
「あ、ごめんね。ヘンなこと気にして」
時を動かしたのは牧野の声。それを合図に、俺の指も再び動き出す。
「いや、そんなことないけど」
但しその動きは、多分さっきよりぎこちない。
「何を話してたのか教えてくれとか、そういうことじゃないの。ただ……類が言ってたんだ」
「類が、何を?」
「美作さんがあたしを先に上へ行かせたのは、大木さんの前で酷い男になる必要があるからじゃないかって」
「……」
「大木さんは、その辺で知り合った女じゃなくてグループ会社の社長令嬢だから、中途半端に終わらせられないんだろうって。だから」
「俺が酷い男になる、って?」
「……うん」
「それで、本当にそうだったのか、気になった?」
「……うん」
元々小さかった声は話が進むと共に更に小さくなり、最後の頷きは消え入る寸前だった。
そしてそれに比例するようにその身体をも小さくする牧野は、きっと語った言葉の何倍もの大きさで、そのことを気にしている。
「そうだなあ……」
それがわかるから、先程よりもぐっと深く抱き寄せて、その髪に唇を埋めた。
そのまま言葉を紡ぐ。囁くように。
「多分当たってるよ、類の読み」
「じゃあ、酷い男になったの?」
「どうかな。自分でそうなろうって改めて覚悟したりはしてない。だけど、牧野の知る俺からしたら、相当酷い男かも」
俺は彼女を泣かせたのだから。――何の躊躇いもなく。
**
「理解していただけましたか? 俺の唯一無二の女性」
俺に抱き締められて顔を真っ赤にした牧野がギクシャクと類の後ろをついていったのを確認して、一人取り残されたように椅子に座り続ける彼女――百合さんの前に立った。
開口一番ぶつけたのが、その言葉だった。
びくりと肩を竦ませた彼女が、怯え縋るように俺を見上げた。そんな顔をされるのは初めてだったけれど、その表情には納得がいく。そうしたくなる程に冷え切っているのだ。俺の声も表情も。
「貴方が俺との約束を反故にするなんて、思いもしませんでしたよ。嘗められたもんですね、俺も」
「あきらくん、私そんな――」
「でも、よくよく思い返してみると、俺がきちんと口頭でお願いしたのは他の人間に口外しないことだけなんですよね。調べて直接会うことは禁じられていないって言われたら、何にも言えない」
「あきらく――」
「だけど、そんなことは言わなくても当たり前にわかってもらえるもんだと思ってました。百合さんなら俺の気持ちを汲み取ってくれる。そう信じてましたよ」
「……あの、私」
「とんだ買い被りをしたもんですよ、俺も。自分が情けなくて――」
「ごめんなさい!」
悲鳴にも似た必死な声が俺の言葉を止めた。もう耐えられない、といった風に百合さんが首を振る。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。怒られても仕方のない事したと思ってるわ」
「ええ、怒ってますよ。今すぐここから消えて欲しいくらいに」
ハッと息を飲む気配と共に、俯いていた顔が上げられた。視線が交わる。
「そりゃそうでしょ。望まないことをされたんだから。でも悔しいことに、感情に任せて消えろとは言えないんですよ。現実問題として、俺と貴方の関係は単なる顔見知りではありませんから」
「……」
「不本意ですけど、こうして向き合って話し合わないわけにはいかないんです」
本当はすぐにだって牧野の元に行きたい。その想いは、おそらく言葉にせずとも伝わっただろう。彼女の唇がフルフルと震え、その瞳が潤んだ。
数秒の沈黙の後、ぐっと唇を噛んで、そして「そうね」と呟くように返事をした。
俺はふっと息を吐き、そこで初めて椅子に手をかけた。
少し前まで牧野が座っていただろう椅子。腰かけて前を見据えれば、目の前には当たり前に百合さんが居た。
――牧野、どんな想いで座ってた?
思ったら、胸の奥がギシリと軋んだ。とても小さな、けれど確実に何かを痛めるその軋みに、俺はテーブルの下でぐっと拳を握る。
「悠長に話してる余裕もないんで、単刀直入に言いたいことだけ言わせてもらってもいいですか?」
「……その前に、先に私からいいかしら?」
遠慮気味に紡がれたその言葉と、同じように遠慮気味に俺を見つめるその視線を受け止めて、俺は「どうぞ」と目と声で了承した。百合さんは「ありがとう」と小さな声で紡ぎ、けれどそれきり言葉を止めた。
俯きがちにじっと一点を見つめ、紡ぐ言葉をかき集めているだろう彼女をじっと待つ。ふと、それを見つめる自分の視線が、必要以上に鋭く冷たいことに気付いた。意識的にそうしている部分はたしかにあるけれど、それ以上に無意識でそうなってしまっている部分があるらしい。
――冷静じゃねえな、俺。
勿論わかってはいた。けれど、そんな自分に改めて気付いて、一人そっと溜め息を吐いた。すると、まるでそのタイミングを待っていたかのように、見つめる先の口が動いた。
「ごめんなさい。勝手に、牧野さんのこと調べたりして。私、あきらくんとお付き合い出来るって本気で思っていたの。本気で真剣にそう思い込んでいたから、なかなか現実が受け止められなくて。どうしてもどうしても信じられなくて、諦めもつかなくて……それで、つい調べてしまったの」
「相手を知ったら現実として受け入れられるかもしれないって思った、ってことですか?」
百合さんはこくりと頷いた。
「まだ誰にも言わないでほしいって言ってたし、相手は一般人だから表立った公表もしないって話だったから、私なんかが勝手に調べるのは絶対にダメだとわかってた。あきらくんが知ったら、きっときっと怒るだろうなって……だけど、調べずにはいられなかったの」
「それで?」
「それで」
「調べ上げて、そこで終わらせずに、会ったのは何故ですか?」
「それは、この目で確かめたくなったから。どんな人なのか、話してみたいと思ったから」
「会って話したほうが、より現実的だから?」
百合さんは再びこくりと頷く。
「そうしたら、諦められると思ったから?」
三度こくりと頷いて、そして「ごめんなさい」と言葉を付け足した。
その殊勝な態度と言葉はとても誠実で、罪悪感に苛まれる心情が如実に浮かび上がっていた。けれどそれは――
「嘘、ですよね?」
言いたくない本音を隠しただけの、表面的な偽りの真実。
百合さんの顔色が、サッと変わった。
「そんな、嘘だなんて、私は本当に――」
「いいですよ。そんなに必死にならなくても」
「違う、そうじゃないの。だって本当に私は――」
「さっき司が言ってたでしょ?」
「――え?」
「俺には牧野じゃなくて自分こそふさわしいって言いに来たんだ、って。俺の気持ちを変えられそうにないから、牧野を揺さぶって手を引かせようとしてたんだ、って」
「それは、道明寺さんが勝手に――」
「俺は、その司の言葉が真実だと思ってますよ」
「あきらくん……」
「司は、おそらく俺が知らない牧野と百合さんの会話を知ってる。だから、あんなに堂々と言い切ったんですよ。……違いますか?」
百合さんは、何も答えなかった。ただ瞳を潤ませて、ぐっと唇を噛んで俺を見つめるだけ。
図星なのだから何も言えるわけがない。沈黙は、何よりも強い肯定だった。
やがて彼女は俯き、二人の間には沈黙だけが残る。
俺は一つ息を吐き、もうこの状態を終わらせようと口を開きかけた。けれど、沈黙を破ったのは俺ではなく、百合さんだった。
「だって、仕方ないじゃない」
どう耳を澄ましても、ようやく聞こえるか聞こえないくらいの小さな呟き。「え?」と訊き返すと、今度は先程よりもはっきりとした声が聞こえた。
「仕方ないじゃない。だって、諦めきれないんだもの」
顔を上げた彼女の頬には、涙が伝っていた。けれどそれを拭うこともせず俺をじっと見据えると、堰を切ったように話し始めた。
「だって私、ずっとずっと好きだったのよ。何年も。何年も。ずっとあきらくんだけを想ってきて、いつかあきらくんの隣に立ちたいって、それだけを思ってきたのよ。ようやくその時が来たかもしれないって思ったところに、心に決めた人がいました、プロポーズしました、婚約します結婚しますって言われたって、諦められるわけないじゃない」
ボロボロと、言葉と共に涙が零れ落ちた。
「私がどう逆立ちしても敵わないくらいの令嬢が相手なら納得できたかもしれない。あきらくんの立場上、仕方がないこともたくさんあるのだし、私の想いが強ければ必ず実るだなんて、そんな青い考えていたわけじゃない。だけど、一般人だなんて……」
「……」
「納得できるわけがないじゃない。私のほうがあきらくんを好きなのに。絶対絶対、私のほうが好きなのに。私のほうがずっとあきらくんを知ってるのに。見てきたのに。幸せに、してあげられる、のに……私の、ほうが……っ」
言葉を詰まらせた彼女の瞳からは、行き場を無くした感情が涙となって溢れ出る。拭っても拭っても零れ続ける涙に、彼女はとうとう顔を覆って泣き始めた。
堪えきれない嗚咽が、時折指の間から漏れ聞こえる。切なげに肩を震わす彼女は、全身から悲しみを発していて、けれどそれは、俺には、どこかぼんやりとした光景にしか映らなかった。
だからどうしたと言うんだろう――今の心境を言葉にすれば、その一言に尽きる気がする。
全力で嘆き悲しみ泣く女を目の前にしてこんなにも心が動かないなんて、こんなことは今までなかったかもしれない。面倒臭いでも、可哀そうでも、うざったいでもない。本当に「無」だった。
微動だにしない感情で、ただその光景を視界に留め続けた。いつ泣き止むのかまるで見当のつかない彼女をじっと見つめて――じっとじっと見つめて、やがて静かに言葉を紡いだ。
「真剣な気持ちをどうしてわかってくれないの、って、百合さんはそう思っているかもしれませんけど……ちゃんとわかってますよ。百合さんの気持ち」
「……」
「昔の俺にはわかんなかったですけどね、そういう真剣な想い。理解するふりが出来たり、理解したつもりにはなれても、心の底からは理解出来なかった。そこまで誰かに夢中になったこともなかったし、そんなのは無駄だって思ってたから。――だけど、今はちゃんと理解出来ますよ。俺にも、そういう想いがありますから」
「……」
「牧野のおかげです。彼女と出会って初めてその想いを知ったんです。牧野がいなければ、俺は一生理解出来ないままだったでしょうね」
牧野の顔を思い浮かべる。キャラキャラと楽しそうに笑う笑顔を。それだけで、心がじんわりと温かくなる。それだけで、胸がスッと楽になる。
愛する者の存在は大きい。――それを、実感する。
黙って顔を覆い続ける彼女に、俺は再び口を開いた。
「だから気持ちは理解します。でも、何をどう足掻いても、俺がその気持ちを受け止める可能性はゼロです。俺にとって百合さんは、今までもこれからも特別ではないんです。俺は、牧野以外愛せない。牧野だけが俺の唯一無二なんです。これから先も、ずっと」
人は永遠ではない。年を重ね、いつかは朽ちる。それでも、この想いだけは永遠だと思える。たとえこの身が朽ちようとも――そんなことを平気で言えてしまう自分が、恥ずかしくて愛しい。
――自分が愛しい、か。……これも、牧野がいるから味わえる気持ちだな。
そう。大切な気持ちは、すべて牧野から教わった。すべて、牧野から貰った。
「唯一無二です。永遠に」
想いはスルリと溢れ出た。