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孤独なミッドナイトブルー
COLORFUL LOVE
2
 あれよあれよと時は経ち、十二月も半ばを過ぎた日曜日。
 丸一日バイトを入れていなかったつくしは、朝からひたすらソファ前のローテーブルに向かい、卒業論文の読み直しをしていた。
 この十二月はつくしにとって、論文のためだけにあったと言っても過言でないくらい、毎日をそれにばかり費やした。おかげで予定よりも早く完成。今日はその最終チェックに充てていた。
 予定より早く完成したのは、とても喜ばしいこと。けれどそれは、つくしにとって、喜ばしくない現実によってもたらされた副産物でもあった。
 この十二月のつくしは、殆どの時間を卒業論文に費やせるほど、時間を持て余している。
 つまりつくしは、あきらに会えていなかった。

 あきらと最後に会ったのは今から何日前になるか……とにかく慌ただしいあのランチが最後だ。あれからまったく会えていない。
 電話は来た。二度。いずれも五分にも満たない短い電話だった。
 あきらの声には、明らかに疲れが滲んでいた。「ずっと時間作れなくてごめん」と電話口であきらは謝っていたが、謝られたつくしのほうが、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「やだ、謝ったりしないでよ。仕方ないじゃん、仕事なんだもん」
『そうだけど、でも』
「今あたし、卒論書いてて。いくら時間あっても足りないくらいだからさ」
『あー、そう言ってたよな』
「うん。だからあたしのことはいいから、美作さん、時間ある時は休んだほうがいいよ」
『うん、ありがとう』

 そんな会話をした。
 半分は本音、半分は強がりだった。
 忙しいあきらが、心配だった。同時に、忙しいあきらに、気持ちが沈んだ。
 電話が切れた途端に寂しくなった。もっと話したかった、やっぱり会いたい――そんな想いが膨らんで、気持ちのやり場がなくて、一人で少しだけ泣いた。
 たしかそれが二度目の電話で、それ以降はメールしか来ていない。


――――
今日も遅そうだ。電話もできなくてごめんな。
明日の出勤は少し余裕持てそうだから、また連絡入れるよ。
――――

――――
寝過ごした。会社へ行く前にそっち寄ろうと思ってたのに。ほんとごめん。とにかく会社行ってくる。
今日バイトだろ? 帰り道、気をつけろよ。
――――

――――
今、新幹線。日帰りで大阪行ってくる。
――――



 そして今日も、たった今、携帯電話がメールの着信を告げた。
 きっと、あきらからだろう。思いながらディスプレイを覗くと、やはりそこにはあきらの名が表示されていた。

「……」

 あきらはつくしに対して、実にマメで誠実な男だと思う。
 時間を作って会いに来る。それが無理なら電話が来る。それさえもままならない時には、メールが来る。
 どんなに忙しい中でも、全く連絡が途絶える、ということがないのだから。
 大学の友人達も言っていた。あきらは「とてもマメで最高の彼氏」だと。

 あきらとランチをしたあの日、大学へ戻ったつくしを目敏く見つけた友人達は、いるはずのない彼女がいることに驚きながらも、温かく受け入れて時間を共にしてくれた。
 おそらくその半分くらいは、卒業しても尚未だ名高い「美作あきら」とつくしの恋愛話に対する興味本位や好奇心だったに違いないが、募る寂しさにいつもよりほんの少し軽くなったつくしの口から零れ落ちる愚痴とも惚気とも取れる話に、基本的に――と言っておくべきかもしれないが――つくしと同じ感覚を持つ「普通」の同級生たちは、真剣に耳を傾けた。
 そして口々に言ったのだ。「美作さんはすごくマメで最高の彼氏だと思う。つくしは幸せ者だよ」と。「でも、わかるよ、その寂しい気持ち」と。 


「私なんてさ、あまりにも連絡してこないから、とうとう別れたよ。待ってる時間が無駄に思えちゃったの。私の時間は永遠じゃないのに、ただ待ってるだけで何日も何週間も過ぎていくなんて馬鹿げてる気がしちゃって」
「待たせてる自覚がなかったり、それに対しての罪悪感とか思いやりとかがない人もいるもんね」
「それ。おまえは学生で時間あるんだからいいだろ、とか言われてさ」
「わかる。社会人の自分に合わせるのが当然だろって態度取られるとちょっと気に入らない」
「でしょ? 久しぶりに部屋に行ったら足の踏み場もないくらい汚くて。まあ忙しいから片付けてる時間もないんだろうと思って掃除してあげたら怒るんだよ? どこに何があるかわからなくなるだろうって」
「えー! ならせめて彼女呼ぶ時くらい片付けてよ」
「私もそう思って頭に来ちゃって。もうここで我慢するのもなんか違う気がしてさ。言いたいこと全部言って、結局別れた」
「そっかー……。寂しくない?」
「寂しいよ。でも、いるのに連絡もない、待っても待ってもいつ会ってくれるのかもわからない、相手のためと思って考えていても全く理解してくれない、そんな彼氏なら、いたって結局寂しいんだもん。彼がいるのに寂しい、よりは、いないから寂しい、のほうがマシかも」
「……」
「あ、だからって、美作さんがどうのってことじゃないよ? 私の元彼なんかと美作さんじゃ比較対象としては別次元すぎるんだから。でも、そういう人は私の元彼だけじゃなくてたくさんいて、寂しい想いしてる彼女って、きっと世の中いっぱいいるよ。一般的にそっちのほうが多いんじゃないかな」
「そう、なのかな」
「うん、そう思うな。人と比べるものでもないけど、それ考えたら美作さんは本当に優しいし、つくしは大切にされてるんじゃないかな」
「うんうん。つくしは大切にされてるよ。でも、どんなに大切にされてても、寂しいものは寂しいもんね。それもすごくわかるよ」 
 

 つくしは黙って友人達の話に耳を傾けていた。正確には、なかなか口を挟めなかった。つくしはあまり「普通」の恋愛をしてきていないから。
 けれど、相手は違えど抱える想いにそう差はないのだと思うと、少しホッとした。会えない日々が続けば、誰もが寂しいのだと。そしてそれを抱えることは、決して己だけのわがままではないのだと認めてもらえたようで、嬉しかった。けれど多分自分は、あきらのおかげで今でも十分救われているのだとも思った。あきらがどれほど自分を気遣ってくれているかも、改めて考えた。
 本当は、やるべきことも考えるべきことも頭から溢れ出しそうなほどあって、「彼女」どころではないだろう。極一般的な男なら、友人の元彼のように、頭も部屋も生活もすべて荒れ放題の、完全な白旗状態の忙しさの中にいるだろう。きっと「彼女」のことなんか、何週間も放りっぱなしになるだろう。
 そんな中においても「彼女」への気遣いを忘れないあきらは本当にマメで、本当に優しい。そしてそんなあきらのおかげで、つくしはこれまでずっと穏やかな気持ちでいられた。秋までは……いや、早朝にあきらが突然やってきたあの頃までは、つくしはなんとか平静を保てていた。
 けれど「会えなくて普通」と錯覚を起こしかけるほど、それが日常となってしまうと、やっぱり寂しくて、その寂しさがとてもつらい。どんなにその忙しさを理解しているつもりでいても。ただ気まぐれに放られているのではないとわかっていても。
 会いたい、声が聞きたい、そんな想いが膨れれば膨れるほどに寂しさが募り、心が折れそうになってしまう。
 そして、困ったことに、そんな状態に陥ってしまっているつくしはもう、メールでは満たされなくなっていた。
 もしかしたら、たとえメールであっても、読んで返信して、それに対してまた返信が来てやり取りがしばらく続く、ということがあれば、それはそれで小さな満足も積もるのかもしれない。でもここ最近は、ぶつ切りの片側通行なのだ。届いたメールに返信しても、それに対する返事はなかなか来ない。来たとしても何時間も経っていたり、下手をしたら翌日だったりして、そうなると、同じ話題を引きずるのが躊躇われてしまう。
 あきらはきっとギリギリの中でメールをしてきているのだろう。送信してすぐに端末を手放しているか、仕舞い込んでいるか……きっとそうに違いないのだろうが、そう思っても……思っても、思っても、寂しさが募る。
 まだ手の上に操作したばかりの端末があるだろう短時間のうちに返信しても、待てど暮らせど返事が来ない状況は、思った以上にダメージが残る。
 その事に、ある時突然気づいてしまったつくしは、それ以来、すぐに返信するのをやめた。そして、返事を求めるようなメールをすることも、やめた。
 ますますメールが、味気ないものになった。前は、メールが届くだけでも心が弾んだのに。
 ここ数日は、メールが届いただけで気持ちが沈んで溜め息が零れてしまう。

 あきらからのメールは、今日もあきらがつくしのことを想っている証。
 あきらからのメールは、今日も会えない、今日も声を聞けない、のサイン。
 そう思うようになってしまったのはいつからだろう。
 寂しさは、人の思考も心も歪ませる。
 まさにつくしは、その負の連鎖のど真ん中にいた。

 「……はあ」

 今日も会えない。今日も話せない。日曜日なのに、休日出勤だろうに、半日の休みもないのだろうか。
 今日、バイトを入れなかったのは、卒業論文を仕上げたかったからではない。
 あきらに会いたかったからだ。
 もしかしたら、日曜くらいはどうにかなるかもしれないと、期待したからだ。
 けれどこうしてメールが来た今、つくしの淡い期待は、泡と消えた。

「……会いたかったな」

 思わず口をついて出た独り言に、胸が締め付けられて、目の奥が熱くて痛い。
 クッションを抱えてぎゅっと顔を押し付ける。強く閉じた目の奥に、あきらの顔が浮かんでは消えて、また浮かんだ。

 ――寂しい……。

 思えば思うほど苦しくて、たまらない気持ちになって、ますます目の奥が熱くて痛い。
 つくしは潤み出した目元をゴシゴシと擦り、充満する寂しさを深呼吸で逃がす。何度も深呼吸をして、心を落ち着けて、それからようやくメールを開いた。


――――
明日、バイト休み? 夜、パーティーがあるんだ。類や総二郎もいるから、良かったら付き合ってくれないかな。
――――


 画面を見つめるつくしの口元が、ゆっくりと弧を描く。
 バイトは入っていた。でも。

 ――バイトなんて、あっても休むよ。だって……。

「美作さんに、会いたいもん」

 零れた独り言が震えて、今度こそ、その頬に涙が伝った。





 翌日。つくしは朝から部屋の大掃除をした。
 もう年末だし、卒業論文も書き終わったし、時間がある時にやっておかないと――と、誰に訊かれるわけでもないだろうに、適当な言い訳を心の中で繰り返しながら、部屋中、ありとあらゆるところを磨き上げた。
 端的に言えば、あきらと会えると思うとソワソワ落ち着かないだけなのだが。


 昨日、あれからすぐに、パーティーに行ける旨の返信をしたつくしだったが、一夜明けると、眠っている間にあきらから新たなメールが届いていて、その状況は少し変わっていた。

――――
ごめん。パーティーはやっぱりナシ。朝になったら電話する。
――――

 どういうことだろう、もしかしてやっぱり今日も会えないのだろうか、とザワリと胸が騒ぎ始めるとほぼ同時に、あきらから電話が掛かってきた。

『誘っておいて申し訳ないけど、仕事がどうにも片付かなくて、パーティーどころじゃなさそうなんだ』
「そっか……わかった」
『もしかして今日バイトだった?』
「え、あ……うん」
『あー、悪い。振り回しちゃったな』
「気にしないでいいよ。明日と変わってもらっただけだから」
『俺は無理だけど、牧野だけでもパーティー行くか?』
「あたし? 一人で?」
『行けば類や総二郎はいるから楽しめると思うぞ。もし行くなら俺からあいつらに――』
「ううん。美作さんが行かないなら、あたしも行かない」
『そっか。……ごめんな。今日の夜は、出来るだけ早めに行けるようにするから』
「え、夜? 会えるの?」
『その予定でいるけど……まずい?』
「いいの? 仕事は?」
『パーティーに行くつもりで昨日から進めてたから、それをパスした分、少し余裕が出来る。それと、実は明日からフランス出張が入ったんだ』
「フランス?」
『こっちの仕事が手一杯だからどうにか断れないかと模索してみたんだけど、ダメそうで』
「そうなんだ……何日くらい行くの?」
『それが行ってみないとわからなくて……わかったら必ず連絡するよ』

 嬉しいこととそうでないことが詰まっていて、なんとも気持ちの乱高下する電話だった。
 でも。

 ――とにかく、今日は会えるんだよね。

 その事実がとても嬉しい。今はそれだけを胸にあきらを待とうと決めた。


 掃除を終えた頃には、外が暗くなっていた。
 あきらが何時に現れるかもわからないし、夕飯の相談もしていなかったので、明るいうちにスーパーで買って来た食材を、適当に調理する。作り置き出来るものなら、たとえ外へ食事に出ることになっても、明日以降のつくしの食事に役立てれば、食材が無駄になることもない。ちょうど時間もあることだし、まとめて作ることで自分自身もこの先楽ができるし――とまたしても誰にするでもない言い訳を心の中で繰り返しながら、黙々と手を動かした。

 すべてを終えて、つくしはいよいよやることがなくなってしまった。
 あきらはまだ現れていない。連絡も、今のところはなし。
 ひとまずソファに座ると、数ページ読んだまま放置していた本を手に取った。
 あまりつくしには馴染みのないロシア文学。でも、大学生だったあきらが手にしていたのを何度か見たことがある。その中に、これと同じタイトルがあった。
 読めばあきらとの話題がまたひとつ増えるかもしれない。話したいことは溢れるほどあるから、ここまで話が及ぶかは分からない。けれど、あきらを待つ時間の過ごし方としては、もうこれしかないだろうと、ソワソワする心を落ち着けるため、つくしはさっそく本を開いた。



 あきらがやってきたのは、二十時を回った頃だった。
 ピンポーンと鳴ったチャイムに、読みかけの本を放り出して、まるで飼い主の帰りを待つ犬のようにダッシュで玄関に向かったつくしは、満面の笑みでドアを開けた。

「お疲れさ、ま……」

 スムーズに出るはずの労いの言葉が、途中で勢いを無くす。
 目の前に立っているのは、もちろんあきらだ。でもそこに立つ彼の服装は、つくしの思い描いていた、会社帰りのスーツ姿ではなく、タキシード姿にコートを羽織った、いかにも「パーティー帰り」の装いだった。

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