部屋に入った類は、テーブルの上に置きっぱなしだったケーキの箱を開けると「へえ。美味しそうじゃん。早く食べようよ」と慣れた様子でお皿を用意し始める。勝手知ったるつくしの部屋、迷いのないその動きに、つくしは再び溜め息を吐いて、やかんに水を入れながら「珈琲でいい?」と訊くと、類は嬉しそうに「うん」と頷いた。
バイト先でもらったケーキは、文句なしにとても美味しかった。
ここ数日のつくしは何を目の前にしても食欲が湧かず、あまりまともに食べていなかった。普段が普段なだけに、学食で同じテーブルについた友人たちに「これは重症ね」と眉をひそめられたほどだ。
だから、おそらくこのケーキも一口二口でリタイアだろうと思っていたのだが、意外にも食べ進めることが出来ている。甘さ控えめなクリームのおかげか、フワフワで軽いのにしっとりとしたスポンジのおかげか。「巷で人気のケーキ店」というわけでもなく、どちらかと言えば、昔ながらの「町のケーキ屋さん」といったお店だったにも関わらず、ケーキが飛ぶように売れていた理由がわかった気がした。
「で、いったい何があったわけ?」
「……え?」
「何かあったんでしょ? あきらと」
二杯目の珈琲を差し出したところで、唐突に核心を突いてきた類に、つくしの動きが一瞬止まる。
「電話にもメールにも反応がない、って、あきらが気にしてた」
「……」
「壊れたとか、なくしたとかじゃないよね?」
「違うよ」
「じゃあ、拒否ってるんだ」
「べ、別に拒否ってないよ」
「ホントに?」
「……出てなくて読んでないだけ」
フォークでケーキのクリームを掬いながら小さな声で言い訳がましく言うと、「それ、拒否ってるのと一緒じゃん」と類が笑った。
たしかにつくしは、あきらがフランスへ旅立ってから今日まで、彼からの電話にもメールにも、一切の反応をしていなかった。
メールは毎日何通も届いていた。電話も何度か鳴っている。そのすべてを見て見ぬふりしているのだから、相手からすれば拒否されているのと同じだろう。
「類、もしかして、美作さんに頼まれてここへ来たの?」
「ううん、違う」
「そもそもどこまで知ってるの?」
「何にも知らないよ。あきらがフランスにいて、牧野と連絡が取れてないってことだけだよ」
たまたまあきらに用事があって連絡をしたら、最近つくしに会ったかと訊かれて、なぜそんなことを訊ねてくるのかと訊き返したのだと、類は言った。
「日本を発つ前に牧野を傷つけた、ってあきらは言ってた。けど、それ以上は何も聞いてないよ」
「……そう」
「でもさ、そんなの知っちゃったら気になるじゃん。理由はともかく、あきらのこと怒ってるなら愚痴のひとつでも聞いてあげようかなと思って電話したんだけど、牧野、俺の電話にも出ないからさ」
「え、ホント?」
思い返してみれば、今日はバイトを始める時に鞄に突っ込んでから携帯電話を手にしていなかった。その言葉に慌てて携帯電話を見てみる。そこにはたしかに、類からの着信があった。
「……」
「着信、あったでしょ?」
「……うん」
つくしは小さく返事をして、そのまま思いつめたように画面を見つめ続ける。
なぜそんな顔で画面を凝視しているのか、訊かずともわかる。類の着信を確認することで、あきらからの着信も確認されたのだろう。
その横顔に、類は優しさの滲む表情で、そっと息を吐いた。
「何があったの? 連絡断ちたくなるくらい、なんか酷いこと言われた?」
つくしはフルフルと首を横に振る。
「傷つけたのはあたしのほう」
「え?」
「あたしが美作さんに酷いこと言ったの」
「……そうなの?」
つくしはひとつ頷いて、それからぽつぽつと話し始めた。ここ最近のこと、そして数日前のあの夜のこと。ありのまま、すべて。
類はほとんど口を挟むことなく、つくしの話を最後まで聞いた。
そして、話し終えると同時に俯いてしまったつくしをしばらく眺めた後、ぼそりと呟いた。
「牧野、かわいいね」
思いもよらぬ類の言葉に、つくしは驚いて、思わず顔をあげた。
「かわいい? 誰が?」
「牧野」
「……嘘。むしろ逆だよ。あたしは完全にかわいくない態度を取った。そんなことくらい、自分でもわかってる。だからそんな慰め、言ってくれなくていいよ」
「えー、かわいいよ。好きだーって全力で主張したんだもん」
「え、あたしはそんな――」
「好きだから寂しいんでしょ」
つくしは言葉を失った。
「ほんのちょっと一緒にいたくらいじゃ満たされないくらい好きで、でもあきらが忙しいからなかなか一緒に居られなくて。やっと会えて嬉しかったのに、あきらはすぐ帰るって言い出すし、しかも香水の匂いまでさせてて。だからどうしようもなく悲しかったんでしょ? 自分はこんなに寂しいのに、あきらは違うのかも、って。嫉妬もしたよね? 自分はずっと待ってたのに、あきらは近くに女を置いて楽しく過ごしてたんじゃないか、って。そんなのが積もりに積もって、それで爆発しちゃったんでしょう?」
「……」
「つまりは、あきらのことが、好きで好きでたまらない、って主張したのと一緒じゃん」
おそらく、類の言うとおりなのだろう。けれどつくしは「好きだ」とか「寂しい」とか、そういう感情を素直に告げたのではない。そこに込められた想いがどうであれ、酷い言葉をぶつけてしまったのだ。
「一緒じゃないよ」
「そう?」
「仮に一緒だとしても、あたしは美作さんを傷つけた。美作さんの話、まったく聞こうとしなかった。カッとなって言わなくていいこと言ったの」
「そうかもしれないけど、牧野が一方的に悪いわけじゃないでしょ」
「……」
「そんなこと言わせたあきらも悪い。きっとあきらは、傷つくよりも、そこまで牧野を追い込んじゃったことを悔やんで落ち込んでるんじゃないかな」
「そんな、美作さんが落ち込むようなこと――」
「でも現に、牧野を寂しくさせたのも、心がざわつく原因を作ったのもあきらじゃん」
たしかにそうだったかもしれない。けれど、だからと言って何をしても許されるわけではない。
「美作さんが忙しいのはわかってた。パーティーに行けば、女の人と接することがあることも。どっちも仕方ないことだってわかってる。わかってるけど、でもきっとあたしは、わかってるつもりだっただけなの。だから我慢しきれなかった。やっぱりあたしが悪いの。美作さんのせいじゃない」
あれから数日経ち、気持ちが落ち着いた今、はっきり思う。自分がバカだった、と。
厳密に言えば、あの夜、あきらの姿が消えてすぐに後悔がつくしを襲った。
こんなふうになる予定ではなかったのだ、つくしだって。ただ、積もり積もった寂しさと、あのイレギュラーな香水の匂いに、心が乱されて我を忘れてしまった。
あきらから漂ったのは、俗な表現をすると「色っぽいオトナのイイ女」を連想させる香りだった。つくしなんかには到底似合わない、でも、あきらの隣にはこんな女性が立つだろうと、きっと誰もが想像する、その女性像にぴったり合う香りに思えた。
積もり積もった寂しさに圧し潰されそうだったつくしは、その香りがあきらから漂ったことで、その瞬間、なにか、とてつもなく重い現実を突きつけられた気がしたのだ。
おまえなんかに、あきらの隣は無理だ――と、姿の見えない誰かにそんな烙印を押されたような。
そして自分自身が一番そう感じてしまった。
自分は、あきらのマイナスになることはあっても、プラスになることはない。だからせめて大人しく、せめて負担にならないようにしていなければならないのに、不用意に抱えてしまった「寂しい」なんて感情のせいで、それが溢れ伝わっているせいで、あきらに気を遣わせてしまっているのではないか。こうして無理にここへ来たのも、すべてがそのせい。
ひとたびそんなことを思ってしまったら、もうどうにも自分がコントロール出来なかった。
自分じゃない人が必要なら、そこへ行けばいい。同情に近い気遣いなら、してくれないほうがいい。
そんなふうに強がる以外、どう自分を保てばいいのかわからなくて、そんな自分がたまらなく惨めに思えて、あきらの目の前から消えたくて、帰れと言い募るしかなかった。
まさかあきらにあんな顔をさせることになるなんて、あんな切ない言葉を吐かせることになるなんて、思ってもいなかった。
つくしはあの夜、あきらのいなくなった部屋で、堪え性のない自分に落ち込んで、己の浅はかさに絶望して、さんざん泣いた。膝を抱えて泣きながら、美作さんがあんな匂いさせてきたからいけないんだ、美作さんのバカ、大嫌い――と、心の表面で悪態をついてみたりもした。でもどんなにそんなことを思ってみても、どんどん寂しさが広がった。
思えば思うほど、愛しさが募って、心がグラグラと揺れた。もう目の前にいないあきらが恋しくて、涙が溢れた。
「たくさん泣いたんだ、一人で」
「……うん」
つくしは素直に頷いた。
相手が類でなければ、こんなに素直に頷くことはなかっただろう。
「呼んでくれたらよかったのに」
「類、あの夜はパーティーだったじゃない」
「でも呼んでくれたらすぐに駆け付けた。それくらい知ってるでしょ?」
「……そうだけど。でも呼べないよ」
「まあ、それもわかるけど」
類はつくしを大切に想っている。何を置いてもつくしを優先すると、類も、そしてつくしも断言できるほど。恋だとか愛だとか、もうそんなものはとっくに超越した深い感情がそこにはある。
つくしにとって、一番心をの内を知られている存在で、知られてもいいと思える存在で、でもだからといって、だからこそ、どんな時でも安易に手を伸ばしていい存在ではない。
「一人で抱えるの、キツかったんじゃない?」
「……でも、気付けたこともあったから」
「気付けたこと? 何?」
「いつの間にかすごく欲張りになってたってこと」
「欲張り?」
「うん」
あきらはいつだって優しい。優しかった。付き合う前も、付き合ってからも。どんな時でもその優しさを惜しむことなくつくしに与えてくれた。そしていつしかつくしは、それに慣れてしまった。その優しさがいつでも隣にあることに。
それは決して、当たり前でも永遠でもないというのに。
だってつくしがあきらの隣にずっと居られることなんて、きっとないのだから。
いつかきっと、あきらの隣には、そこに相応しい人が立つ未来がある。
いつかきっと、つくしは「あきらの隣」を失う。
でもそれを承知でこの場所を望んだ。あきらと居たかったから。
なのにいつの間にか、あきらに与えられる優しさは永遠で、その隣にいる権利を当たり前に与えられていると錯覚するようになっていたのかもしれない。
出来ればこの場所を失いたくないと、望んでしまうほどに。
いつの間に、こんなに欲張りになっていたのだろう。目の前の優しさに溺れて、目の前の寂しさに飲み込まれて、それらすべてが当然だと思う自分が恥ずかしい。
そして同時に思う。
どんな形であれ日々変わらず自分を気にかけてくれるあきらがいて尚、こんなに寂しく思うなんて、本当に失ってしまったら、一体どうなってしまうのだろう。そんな日が本当に来たなら……。
考えただけで、身が竦んで、心が凍る。
――欲張っちゃダメ。今も、これから先も。
泣きながら、つくしは何度も自分に刻み込んだ。
これは永遠ではないのだ――と。
「だから、あたしね」
そんな心情を吐露した最後に、つくしは決意の滲む表情で言い切った。
「だからあたし、これからはもっと『今』を大切にする。まだ、もう少しだけ、美作さんの隣に居たいから」
どんなに寂しくても、こんなにも愛しいのだから。
思い詰めた様子のつくしの横顔をじっと見つめていた類は、無意識のうちに溜め息を吐く。と同時に、言うつもりでなかった言葉が零れ落ちてしまった。
「わかってないなあ、牧野は」
「……何が?」
その答えを知りたいと、まっすぐに見つめてくるつくしを前に類は思う。
何が――言うのは簡単だ。
気持ちはよくわかる。でも牧野は、あきらの想いをちゃんと理解してない。
だってあきらは、あんたが考えているよりもずっと深く「牧野つくし」という存在を胸の真ん中で抱き締めてる。あきらこそ、誰にも渡すつもりがないんだよ、あんたの隣を。
けれどそれは、類が伝えるべきことではない。
それを伝えるのはあきらの役目で、つくしの心を動かせるのも、あきらだけだ。
――だから俺は……。
類に出来るのは、見守って、ほんの少し助けてあげることだけ。
つくしが思い詰めすぎないように。複雑に考えすぎて、本当に大切なものを見失わないように。自ら諦めて手放すようなことが、ないように。
――俺は、そのためにここに居る。
「教えない」
「え、ちょっと類」
「いつかわかる日が来るよ」
「いつかっていつよ」
「それは牧野次第じゃないかなあ」
「え?」
「知りたかったら、早くあきらと仲直りすることだね」
「……」
類の言葉に、つくしが息を飲む。
類は優しく語りかけた。
「怒ってるわけじゃないなら、そろそろ電話に出てあげたら?」
「……」
「それがハードル高いなら、せめてメールくらい読んで返してあげなよ」
「……」
つくしはしばらくじっと考えて、そしてフルフルと首を横に振った。
「あきら、心配してるよ?」
「わかってる」
「わかってるなら――」
「でも、今は無理」
「なんで?」
「だって……」
つくしはきゅっと口を結び、そして小さな声で呟くように言葉を紡いだ。
「すぐに会いたくなる」
「……」
「一秒でも早く謝りたいの。でもそれ以上に、ただ会いたい」
「……」
「だから、メールも電話も、美作さんを感じたら、きっとじっとしていられない。会いたくてたまらなくなっちゃう」
「……」
「だから、今は……」
つくしの言葉に、類は「ふーん」と意味ありげに呟いた。
少し気になるその反応に、つくしはほんの少し顔を上げる。
「なによ」
「いんや」
「らしくないこと言ってるって思ってるんでしょ」
「そんなことないよ」
「じゃあ何よ」
「理由によっては、あきらに教えてやろうと思ったんだけど――」
「え! やだ、言わないでよ?」
「言わない」
「絶対だよ?」
「うん、絶対」
安堵するつくしに、類はぼそりと言った。
「そんなの伝えたら、堪らないのはあきらのほうだよ」
「え?」
「そんな可愛いこと言われたら、その瞬間に抱き締めたくなるじゃん。でも牧野は時差八時間の場所にいる」
「……」
「あー、これは堪らないね、あきら」
どこか揶揄い交じりの口調で言われて、つくしは顔を真っ赤に染め上げた。「な、何言ってるのよ、類は」と焦ったように言い捨てて、ケーキを口に運び出したその顔を見つめ、類はニコニコと微笑んだ。
帰り際、玄関に立った類に「今日はありがとう」と告げると、類は笑みを浮かべて首を横に振った。
「礼なんていらないよ。俺は何もしてない」
「心配して来てくれた」
「俺が牧野の顔を見たかっただけだよ」
さらりと吐き出される類のそれは、きっと類の本心。つくしにはそれがわかるから、いつもこういう時、どんな顔をしていいのかわからない。「はいはい、ありがと」と受け流すには、きちんと届きすぎてしまう。
でもこういう時の類は、決してつくしを困らせようとしているわけではないこともわかるから、つくしは言葉のまま、まっすぐに受け止める。
「あたしも久しぶりに類に会えて嬉しかったよ」
その言葉を受け止めた類が、目の前で笑みを深くした。
「あ、そうだ。牧野にクリスマスプレゼントをあげるよ」
言うが早いか、ポケットに手を突っ込んでなにやら取り出した類が、「はい」とつくしに差し出した。
反射的に手を出すと、その手の上に、折り畳まれた小さな紙が乗せられる。
「え、何?」
「開いてみて」
言われた通り、折り畳まれたそれを開く。そこには、明日の日付、アルファベットと数字、そして最後に「羽田」と書かれていた。
「これって……」
「あきら、それで帰ってくるよ」
「……明日……?」
「うん。明日」
「……」
――明日、美作さんが帰ってくる。
その小さな紙を見つめるつくしの頭上で類の声が響く。
「明日、バイト入れてないよね?」
「……うん」
「だよね。今日と明日は、きっとバイトは入れてないだろうなって思ってた。だって、今日は記念日だもんね? 牧野とあきらの」
「……」
類の言うとおり。今日は、つくしとあきらにとっては、ただのクリスマスイヴではない。二人が想いを通わせて一年目の、記念日なのだ。
「あきら、本当は今日帰ってきたくて、向こうで相当無理したみたい。ギリギリまでなんとかしようと頑張ったけどダメだった、って、悔しそうに言ってた」
「……」
「フランスへ発ったあの日も、牧野に会ってから行きたいんだって、あきらはパーティーからあっという間に姿を消したんだよ。牧野の家は空港と真逆の方向なのにマメな男だなって総二郎と笑ったけど、驚きはなかった。あきらにとって牧野との時間は、どうしても譲れないものなんだって俺達は知ってるからさ。牧野が寂しがるからとか、そんなことじゃない。あきら自身が欲してたんだよ、牧野との時間を。だから、そのための無茶は、あきらにとっては必然なんだよ」
つくしの視界が、ぼんやりと滲んでいく。
「欲張ったらダメとか、我が儘言ったらダメとか、そんな受け身になることないよ。『いい彼女』を演じる必要なんてない。牧野があきらを想うのと同じように、あきらも牧野を想ってる。だから牧野は感情のまま接していいんだよ。寂しい時は寂しい、悲しい時は悲しい。怒っていいし、泣いて困らせたっていい。そんなことくらいで、あきらが牧野に愛想を尽かすことなんてないからさ」
類の優しい言葉に、瞼の淵にしがみついていた涙が瞬きと同時にポタポタと零れ落ちた。
「愛されてることくらい、牧野だってちゃんとわかってるでしょ?」
囁くように問われた言葉をゆっくりと噛みしめて、つくしはコクリと頷く。
類はそんなつくしに微笑んで、その頭をゆるりと撫でた。
「やっぱり牧野はかわいいよ」
慈しむように、愛おしそうに。