俺と彼女の出会い――それは今から五年前の十二月。クリスマスの数日前のことだった。
その頃俺は――俺の所属していた部署は、一年で一番忙しい期間に突入していて、終わらない仕事を無理矢理終わらせて終電に飛び乗って帰るという日々を送っていた。そしてその日も例外ではなく、仕事のことで頭をいっぱいにしながら、俺は終電に揺られていた。
――明日は一時間くらい早出してみようか。それとも、片付ける仕事の順番を変えてみるか?
たしか、そんなことを考えていたように記憶している。
断っておくが、俺はいつでもそうしたことを記憶しているわけではない。その頃は毎日そればかりを考えていて、それ以外のことを考えていた記憶がないというだけだ。
あとは多分ぼんやりと、窓の外に視線を預けていた。何を見るともなしに。
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やがて電車は、俺が降りる一つ前の駅に着き、俺が立っていたすぐ脇で扉が開いた。一人、二人……ばらばらと数人が降りて行き、最後に降りていったのは若い女性。
降りながらバッグの中に手を差し込むのを、見るともなしにぼんやり眺めていた。
けれどその次の瞬間、そのぼんやり見ていた光景が、突然ぼんやりではなくなった。
そのバッグから、取り出して手に持った何かとは別のものが飛び出して、ポトリと下に落ちた。
それは、何かカードのような薄い物だった。大した音もしなかったのだろう。落とした本人は気付かずに歩いていく。
「あっ」
思わず声が出た。
けれどその声は誰かに届く程の大きさではなく、彼女はやっぱり気付かずトコトコと歩いてどんどん遠ざかっていく。
一瞬、迷った。
別に知り合いでもない。俺が何もしなくても、ホームに居る誰かが気付いて追いかけてくれるかもしれない。
一瞬、迷って――でも次の瞬間には、俺は電車から降りていた。
歩み寄り拾い上げたその落し物は、学生証。顔を上げて見渡すと、階段を数段上ったところに彼女の後ろ姿が見える。
耳には、「間もなくドアが閉まります」とアナウンスが聞こえている。
終電だけに、普段よりも念入りだけれど、それでもあと数秒でドアは閉まり、そして電車は発車するだろう。
俺はまた、一瞬だけ迷う。
――今渡さなくてもなんとかなるだろうか。もしくは大声で叫んでここに落としたことだけ伝えようか。
一瞬迷って、でも結局俺は、彼女の背中を追い掛けていた。背中越しに、電車のドアの閉まる音が聞きながら。
「植木、さん?」
「え? あ、はい」
「これ、落ちましたよ。あなたのですよね?」
「……あっ! 私です。すみません。ありがとうございます」
彼女の背中に追いついたのは、彼女が階段を登り切ったところだった。
落し物を手にした時点で学生なのだとわかっていたけれど、向かい合った彼女は、本当に若い、ともすれば幼く見えるくらいの、小さくて可愛い女の子だった。
トンと肩を軽く叩いて突然名前を呼んだ俺に、当然のことながら彼女は一瞬怯えたような表情を見せて、けれど俺が差し出した学生証に気付くと、目を大きくして驚き、受け取りながら照れ笑いを浮かべた。
「勝手に名前見て、呼んじゃってごめんね。後ろ姿を一瞬見ただけだったから、全然違う人だったらマズイと思って」
「いいんです、気にしないでください。拾っていただいて本当に助かりました」
「じゃあ、そういうことで」
「本当にありがとうございました」
歩き始めた俺に向かって、彼女が再び頭を下げる気配を感じる。
俺は振り返って小さく手を上げた。
**
結局その日は、そのまま改札を出て歩いて帰った。たかが一駅分、されど一駅分。やけに遠く感じたことを覚えている。
これが彼女との「初めての出会い」――けれど、これは序章で、本当の出会いはこの二日後に訪れた。
山積みだった仕事をようやくすべて終えた金曜日。晴れ晴れとした気分で乗っていた終電の中。
突然、トンと肩を小さく叩かれた。
振り返ると見覚えのある女性がいて――ああ、とすぐに思い出した。
彼女だった。
**
「こんばんは」
「こんばんは。……良かった。覚えててくれたんですね」
「もちろん」
彼女はホッとしたように笑みを浮かべて、それからペコンと頭を下げた。
「この前はありがとうございました」
「いえいえ。偶然落としたのを見ていただけだから」
「でも、本当に助かりました」
「なら良かった」と俺が微笑むと、彼女も小さく微笑んだ。
そして沈黙が流れる。
彼女は少しだけ困ったような表情を浮かべて、「えっと」と小さく呟いたけれど、言葉が続かず俯いた。
たまたま俺を見かけて声をかけたけれど、それ以上は何を話していいかわからない。そんな様子だった。
当然だ。俺と彼女の関係は、落し物をした女とそれを拾った男。それ以外に何もないのだから。
沈黙は、流れ続けている。けれど、未だ困り顔の彼女はきっと、こうなることを予想せずに俺に話しかけた。この前のお礼を言いたい。ただその一心で。
それは、俺の勝手な予想。けれどきっと間違いない。そう思ったら、そんな勢い任せの彼女がとても可愛く感じた。
ここは俺がこの沈黙を消し去ろう。わざわざお礼を言ってくれた彼女に対して、年上の俺がそれくらいのことはするべきだと、そんな考えが働いた。
「終電で帰ること、多いの?」
「え?」
突然話しかけた俺に、彼女はハッとしたように顔を上げて、それから質問を頭の中で反芻したのだろう、数秒の沈黙の後、フルフルと首を振った。
「いえ。そんなことないです。この前は、たまたまゼミの飲み会があって」
「あー、学生だもんね。今何年生?」
「三年です」
「そっか。じゃあ就活とか」
「そうなんです。ちゃんと決まるのかなって心配で」
「そっか。大変だ。ゼミとか就活とか、なんか懐かしいよ。俺が大学卒業したのなんて、もう……七年前? うわっ、もうそんなに経つんだ」
「早いなあ」と呟く俺を、彼女はにこやかに見上げている。その視線に気づき、「俺、二十九なんだよ。君から見たらオッサンだよね」と笑うと、彼女は慌てて首を振った。あまりにも全力で「そんなことはない」と主張するもんだから、その様子がやけにおかしくて、俺はまた笑った。
「で、今日は友達と飲み会とか?」
「え? あ、いえ。違います」
「じゃあデートとか?」
「違います! そんな人、いません。今日は、その……」
思ったよりもずっと強い口調で否定をした彼女は、そのまま目を泳がせた。
それは予想外の反応で、俺は少々戸惑った。何か触れてはいけないところへ踏み込んでしまったのだろうか。なんとなく言った言葉だったけれど、彼女にはタブーだったのかもしれない。小さな罪悪感が生まれた。
「ごめん。別に――」
「あの!」
「深い意味は何もない」と謝罪しようとした俺の言葉は彼女の言葉に遮られた。やけに思いつめた顔をした、彼女に。
「あの。今日は。……その、今日は」
「うん……?」
言い淀み、けれど自分の中で何か決心を固めたかのように頷き、そして俺を真っ直ぐに見た。
「会えるかな、と思って」
「え?」
「お礼をきちんと言わなきゃって、そう思って、その」
言われた言葉を頭の中で何度か反芻する。そうしてようやく、俺は彼女の言葉の意味を理解した。
「えーと……俺の勘違いでなければ、俺と会うためにこれに乗った、ってこと?」
「はい」
「乗るか乗らないかわからないのに?」
「はい。どうしても、お礼が言いたくて。それと」
「うん?」
「それと……」
長い長い沈黙の後、ようやく彼女が口を開いた。
「お礼とは全然別に、ただ、もう一度……会いたくて」
顔を真っ赤にして。俯いたまま。
消え入るような小さな声だった。