再びリビングに戻ると、香奈美は、俺がリビングを出た時と全く変わらない位置に変わらない格好で座っていた。
「何か飲まない?」
香奈美はフルフルと首だけを振った。俺の顔を見ることもなく。
それでも俺は、キッチンに入って珈琲を淹れた。
俺と香奈美の分、二つ持ってリビングへ戻り、香奈美の前にカップを一つ置く。
向かい合う位置に座った俺は、もう片方の手に持っていたカップから、珈琲を一口飲んだ。
部屋はしんと静まり返っていた。
「いつから?」
「え?」
「いつから、俺以外に?」
唐突に訊いた俺に、香奈美は瞳を泳がせた。
そんなところから切りこまれるとは思っていなかったかもしれない。沈黙は数秒続き、やがて香奈美は思い切ったように口を開いた。
「夏頃、かな」
「夏、か」
「うん。最初は、ただの同僚っていうか、友人っていうか……」
「会社の人なの?」
「……うん」
夏季休暇中に、香奈美が友人達と旅行に行ったことをふと思い出した。
その時感じた違和感も。
「もしかして、夏に一緒に旅行に行った?」
「……うん」
「二人きり?」
「ううん」
その時は、まだただの友人だった。けれどその後、友人関係を越えた繋がりを持ち始めた。
訊かずともそれくらいのことは容易に想像出来て、一気に胸が苦しくなる。
それ以上言葉が出ず、俺は黙りこくり、沈黙が流れた。
「寂しかったの」
「……うん」
「いつも、寂しくて……でも、言えなくて」
「……うん」
「今日こそは言おう、今日こそは限界だって伝えようって、何回も何回も思いながらも、疲れて帰ってくる肇ちゃん見ると、何も言えなくて」
「……うん」
「でも、苦しくて。辛くて」
「……うん」
なんでその時に言ってくれないんだよ。どうして、大丈夫なんて笑ったんだよ――思わないわけではない。でも、何もかもが俺の不甲斐なさが招いたことだと思うと、俺に言える言葉など何もない。
頷くだけの俺に、香奈美も黙りこみ、再び沈黙が流れる。
五分、十分……沈黙は長く続き、その沈黙分だけ二人の間が遠ざかる気がしたけれど、それを繋ぎ止める手を俺は伸ばせずにいた。
――手を伸ばせよ。手放してもいいのかよ。
心の中で叫ぶ俺がいる。けれど……自信がなくて、それを言葉には出来ない。繋ぎ止めたところで、また寂しく悲しい想いをさせることになる。そう思えて仕方ない。
何一つわかってやれなかった俺に、最大限の笑顔を向け続けてくれた香奈美。一人じっと耐えていた香奈美。
今の俺が香奈美のために出来ることはなんだろう。
そう思った俺は、その瞬間に、もうその手を放す覚悟を決めてしまっていた。――いや、俺達の手は、もうとっくに……。
「わかった」
「……」
「ごめんな。何もわかってやれなくて」
「……はじめ、ちゃん」
「……俺はおまえに甘えすぎてたんだよな」
「……」
「ごめんな」
香奈美は出て行った。「残りの荷物は、来週取りに来るから」と言い残して。
俺はぼんやりとリビングに座り続けた。
何も考えられず、ただぼんやりと、香奈美が座っていたソファを見つめ続ける。じわじわ膨れる虚無感に、飲み込まれそうになりながら。
次から次へと溢れ来るのは香奈美と笑い合った楽しい日々の思い出ばかり。悲しませてばかり、苦しませてばかりだったのに、それでも浮かぶのは、彼女の笑顔ばかり。
むせ返るようなその日々に、その笑顔に――気付けば涙が頬を伝っていた。
本当は、きっと泣く資格もないけれど。
**
「――長。……あのぉ……平野部長?」
ぼんやりと窓の外を見つめながら想いを馳せていた俺は、その声にハッと我に返った。
声の方を見ると、そこには心配そうに俺を見つめる、部下の顔。木下美穂と、牧野つくしだった。
「どうした?」
「いえ、どうもしませんけど……部長こそ、どうかしたんですか?」
「ん?」
「最近やけにぼんやりしている気がするんですけど」
「そうか?」
「はい」
「そんなことないだろ? 気のせいじゃないか?」
「そうですか? それならいいんですけど。そうだ、部長、聞いてくださいよ。さっきあっちで佐々木課長と話してたんですけど――……」
木下美穂という人間は、観察眼が人一倍鋭い。今も案の定、何かを感じ取っているだろう表情を浮かべている。でも彼女は、そんな直感を働かせながらもこちらの発する言葉の意図を感じ取って、素直に頷いてくれる。その賢さが有難かった。
同じようなことが、数日前にもあった。
たしかあれは、今週の月曜日。二十六日のことだったと思う。
急遽決めた十五時退社を目前に、部署内の入社一年目の社員六人とのミーティングを終え、彼らを連れて休憩スペースへ入った時のことだ。
思ったよりも早く終わったので、「少し休憩してから戻ろう」と誘ったのは俺だった。好きな物を飲んでくれとお金を渡し、俺自身も珈琲片手にソファに座ったのだが、どうやらそのまま物思いに耽ってしまったらしい。
我に返ったのは、やっぱり木下さんの声だった。
**
「――長。……部長? ……あのぉ。平野ぶちょーっ!」
突然耳元に響いたその声にハッとして声の方を見ると、そこには部下が二人。訝しげに眉を潜めた木下美穂と、どこか心配そうに俺を見ている牧野つくしがいた。
「あ、悪い。えーと、何?」
訊きかえす俺に、木下さんは大袈裟なほど大きく溜め息を吐いた。
「平野部長。『何?』はこっちの台詞ですよ。飲み終えたので戻ります、って言ったんです。返事がないから三回くらい言ったんですけどね。それでも気付かないんで、他のみんなは先に帰っちゃいました。みんな心配してましたよ? 会議中の様子から考えて具合が悪いなんてことはないだろうと思って『きっと考え事してるのよ』って適当に言っちゃいましたけど……実は具合でも悪いんですか?」
「いや、そんなことはない」
「なら良かったです。では、一体何事ですか? そんなにぼーっとしてるなんて、平野部長には珍しい」
「俺、そんなにぼーっとしてたか?」
「してましたよ。現にみんながいなくなったことに気付いていなかったわけでしょう? 窓の外をぼんやーり見つめちゃって。何か珍しいものでもあるのかと、私とつくしまで思わず見ちゃったくらい。ね?」
「まあでも、ずっと忙しかったからね、突然こうやって時間に余裕が出ちゃうと、ぼんやりしたくもなりますよね」
「あたし達だって、朝から相当ぼんやりしてるよ?」と牧野さんが笑い、木下さんも納得したように頷いた。
「それもそうね。部長は私達以上に大変だっただろうし、仕方ないか。というわけで部長、私達はオフィスに戻りますね。ココアご馳走様でした」
「ご馳走様でした」
「どういたしまして」
「部長も早めに戻ってくださいよ」と笑顔で言う木下さんに俺も笑顔で頷いて小さく手を上げる。二人は何やら楽しそうに話しながら、休憩スペースを出て行った。二人の声が少しずつ遠ざかるのを感じながら、俺は再び窓の外を見た。
冬晴れ……か。
部下達が戻っていったことに気付かぬ程、そこに何があるのかと興味を持たれてしまう程、ずっと見つめていたらしい窓の外を、その時初めてきちんと意識した。
**
あの時ぼんやりしてしまったのは、実のところ、先週までの忙しさから解放されて時間に余裕が出来たから、というわけではなかった。
たしかに先週まで本当に忙しかった。
入社して十二年、部長になって二年。こんなに忙しいのは初めてだった。部署内の人間で残業なしに帰れた人間は一人もいない。ほぼ全員が終電ギリギリまで働き、更には休日出勤までしてもらった。
極めつけは、美作本社のパーティーだ。高級ホテルで催された数百人規模のパーティーはとても豪華で、初めて経験することばかりで、とても楽しかったし良い経験にもなったけれど、それも含めて、やはり先週は忙しかったなあと思う。
今週に入りその反動でぐんと仕事が減り、十五時退社なんてこともしたのだけれど、俺自身はさほど暇になったわけではなかった。会議や後回しにしてしまった細かな仕事が山積みで、ぼんやりしている暇なんてなかったのだ。
それでもぼんやりしてしまうのは、やっぱり週末にプライベートで起きた香奈美とのことが原因で、出来る限り仕事中は思い出さないように心がけてはいたけれど、ふとした拍子に出てきてしまっていた。
なんともなさけない話だ。
自分で自分を戒めるものの、理性では抑え切れない感情がある。こればかりは、どうにもならなかった。
そして更に、自分がどれだけ不甲斐なく未熟だったかを思い知らされる出来事が起きた。
「そういえばつくし、何時に出るつもり? というか、何時からなの?」
「それがよくわかんないのよね。場所自体は三時くらいから貸し切ってるらしいんだけど……どうしようか。逆にここって何時まで――……」
他でもない。今目の前で笑っている部下、牧野つくしと、本社の美作専務との「婚約話」だ。
牧野さんは、この春入社してきた女性社員。
上司という立場からは、仕事熱心で、どんな仕事でも積極的に取り組むその姿勢は高く評価していたし、信頼度も高い。逆に仕事を離れた場面においては、彼女に対して特記する事項はほとんどない。こんな言い方は失礼かもしれないが、驚くほどの美人というわけでもなけば、集団の中において際立って目立つ存在、というわけでもない。極々普通の女性だ。
一週間程前に「エリートサラリーマンとつき合ってる」という事実を知ったけれど、それが初めて知る彼女のプライベートだと言っても過言ではない。
それが突然。本当に突然、知らされたのだ。
彼女の恋人が、美作商事の御曹司、美作あきらだという事実を。
それは、十五時退社があったその翌日――つまり、昨日のこと。
理由も告げられずに呼ばれた社長室でのことだった。
突然呼び出される理由に心当たりもなく、いったいどんなミスをしてしまったのだろうとか、どんなクレームが入ったのだろうとか、ありとあらゆることを想定しながら入った社長室で待ちかまえていたのは、ピリピリと張り詰めた空気でもなく、怒り狂った社長でも、修正を余儀なくされた書類の山でもなく、穏やかに微笑む美作専務だった。
それは予想外過ぎる展開で、正直物凄く戸惑った。けれどその後に告げられたことは、戸惑いを一瞬にして蹴散らす、大きな大きな驚きの事実だった。
「春頃に婚約発表をしようと思っています」
「彼女が私の婚約者です」
その時の俺の驚きは、なかなか言葉では表すことが出来ない。
にこやかに幸せそうに微笑む美作専務と、頬を赤くして膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、視線が合う度申し訳なさそうに頭を下げる牧野さんに、俺は身体中の細胞が痺れるような感覚を覚えた。
「え? 牧野さんが?」――言葉にするなら、多分これしかなかったと思う。もちろん、言葉にはしていないが。
何度も申し訳ないが、牧野さんは、本当に普通の女性だ。片や美作専務は、生粋の上流階級育ち。一体どこでどんな接点があってそうなったのか、一体何がどうなってるのか。
青天の霹靂――まさにその言葉がぴったりだった。
けれど話を聞いていくうち、様々なことが結びついてきて、ああそうか、とある種の納得が広がった。
それでも半ば信じられない、というような想いがあったことも事実ではあるけれど。
ただ、驚きはそれだけではなかった。
牧野さんが、結婚後も仕事を続けたいと言い出したのだ。
二人の関係を知らされたインパクトに比べたら小さいものの、それもかなりの驚きだった。もはや、一般人には理解出来ない何かがそこにある。
そんな気さえしてしまっていた。
社長と俺と、牧野さんと美作専務と。
最初から、プライベートな話でこの四人が顔を合わせていると言うこと自体、どこか奇妙に思えたけれど、その空間で見ること聞くこと全てがとにかく驚きの連続だった。何もかもに驚いて呆気に取られ、その一方で、疑問や心配も少しずつ蓄積されていくことを、深い意識のどこかで感じていた。それはきっと社長も同じだったと思う。
そしてそんな我々の深い意識を、美作専務は敏感に感じ取っていたように思う。
いや、最初から想定内だったのだろう。
細かな打ち合わせを残し、美作専務は牧野さんをオフィスに戻した。席を外した理由まで全てを完璧に指示した上で。
俺にとって、本当の意味での驚きや感銘は、ここから先に待っていた。