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ここから始まる未来の僕へ
CLAP STORY (COLORFUL LOVE -Extra Story- view of HIRANO)
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 これが、彼女――植木香奈美と俺が、本当の意味で出会った瞬間。
 これをきっかけに、俺は彼女とつき合い始めた。
 感情的には「友達から」という形だったけれど、好きになるのにそう時間はかからなかった。あっという間に、香奈美は俺の特別になり、大切な存在になった。
 季節が廻る度、俺と香奈美の関係は深くなっていった。
 出会った当時大学三年生だった香奈美は大学を卒業し、一般企業に就職した。
 香奈美が社会人になったことで、学生だった頃に比べると二人で過ごす時間は少なくなった。けれどこれは当たり前のことで、覚悟していたことでもあった。
 週末は俺も香奈美も休みで、他に予定がなければ一緒に過ごせたし、平日も短時間ではあるけれど会うことも出来た。
 だからこれは小さな変化だったと言える。
 けれど大きな変化がやってきた。
 俺が「部長」になったのだ。
 それも、突然。前任者の退職に伴って。――課長になって、まだ二年足らずで。
 突然の退職は体調不良が理由だった為、止むを得ない状態ではあった。時は一年で一番忙しくなる十二月。
「部署内の状況を把握出来ている人間でなければ仕事が回らない」――そう主張して強く俺を推薦したのは、辞めてゆく部長だった。
 もっと他に適任者はいるだろうと思ったし、そう主張もしたけれど、結局俺に辞令が下った。きっと納得出来なかった人間もいるだろうと思う。それでも俺はやるしかなかった。大きな不安とプレッシャーを抱えながら手探りで前へ進んだ。

 最初の三ヶ月は、無我夢中でほとんど覚えていない。「ようやく落ち着けそうだ」と思えた時、季節は春になっていた。
 その間に香奈美と会った回数は、片手に納まる程だった。
「少し落ち着いた気がする」と言うと、香奈美は「良かった」と笑い、「寂しかった」と涙を流した。会うと必ず「私は大丈夫」と笑みを浮かべていた香奈美がこんな風に泣いたのは、その時が初めてだった。
 それだけに胸が痛んだ。
 俺は「もう大丈夫だ」と何度も言った。何度も何度も言った。

 けれど、その言葉は口先だけのものになってしまった。

 部長になってからの忙しさは、課長だったそれまでとは比べ物にならなかった。「本当に落ち着けた」と思えたのは、部長になってまるまる一年が過ぎようかという十一月のことだった。
 香奈美と会う時間は辛うじて確保してはいたけれど、辛うじてと言うほかない。彼女を満足させるには程遠く、結局寂しい思いばかりをさせていたと思う。
 会う約束も出かける約束も何度もドタキャンしたし、それが原因でケンカになることだってあった。
 それでも彼女は、最後には笑顔で「仕方ないよ。部長という立場も肇ちゃんへの信頼も、それだけ大きくて重いってことだもん」と言った。申し訳なくて有難くて、愛しかった。
 ただその状態が続いていくことは俺にとっても当たり前に不本意で、でもどうしようもなくて、どうしたらいいかと散々考えた末、俺は香奈美に同棲することを提案した。
 俺も香奈美も一人暮らしで、それまでも香奈美は俺の住むマンションで俺の帰りを待っていることが多かった。けれど明らかに帰りが遅くなるとわかっている時などは訊ねて来ない。当然、次に会うのは翌日だったり数日後だったり。更に言えば、「早く帰れる」と言っておきながら、突然のトラブルに見舞われて結局遅くまで帰れず、一度来た香奈美は俺に会う事無く自分の住む家に帰る、ということも何度もあった。
 謝れば香奈美は決まって「大丈夫」と言ったけれど、もちろん寂しさや虚しさを抱えただろうし、俺も心が痛かった。
 同棲が、それらすべてを解消してくれるとは思わない。それでも一緒に暮らせば、どんなに遅く帰ってきても俺は香奈美の顔を見ることが出来るし、香奈美だって朝起きた時には俺が隣にいる。「ゆっくり会ってゆっくり時間を過ごして」という状況が増えるかどうかはわからないけれど、少なくとも毎日顔を見ることが出来る。「どうかな?」と言う俺に、香奈美は安堵したように、嬉しそうに笑った。
 そうして俺達は、同棲を始めた。

 同棲生活は、思った以上に安らげるものだった。
 家に帰るといつでも香奈美が「おかえりなさい」と笑顔を浮かべる。 この状況は、もちろん初めての経験ではないわけだけれど、「いつでも」というのは絶大だ。そしてどんなに遅く帰っても香奈美がいる。時には寝顔しか見れないことだってあったけれど、抱きしめて眠って抱きしめて起きる。
 もちろん今までだって何度もあるけれど、いつだってそう出来るというのは、本当に幸せだと思った。
 もっと早くにこうする決断をすれば良かったと思う程、それはその時の俺にはベストな状態に思えた。
 香奈美の笑顔をたくさん見れるようになって、俺は心から「ああ、良かった」と思っていた。
 ――けれど。
 けれど俺は、俺の目には、真実が見えていなかった。
 同棲をしてるから、毎日会えるから、香奈美の笑顔をたくさん見れているから――そのことに頼り過ぎたのだ。
 その奥にある、俺が本当に見なければならなかった香奈美の心を、俺は全然見ていなくて、全然わかっていなかった。
 何かおかしいと思ったのは、同棲を始めて八ヶ月が経った夏のことだった。夏期休暇を利用してどこかへ行こうと言ったら、断ってきたのだ。



「え、行かない?」
「ごめん。私、会社の人と旅行に行く約束しちゃった」
「旅行? 折角の夏期休暇なのに?」
「折角の夏季休暇だから、よ? 前に聞いた時、肇ちゃん、家で仕事しなきゃいけないかもって言ってたから」
「そりゃ言ったけどさ」
「前から誘われてて、今まではずっと断ってたの。でももし肇ちゃんが仕事になったら、私何もやることなくなっちゃうなあって思ったら、なんかもったいない気がして。それで行くことにしたの」
「……」
「ごめんね。肇ちゃんには、もう少ししたらきちんと話そうと思ってたんだけど」



 気まずい雰囲気が流れたけれど、香奈美に旅行をキャンセルする気はないらしく、結局俺は了承するしかなかった。
 違和感を覚えた。今まで一度も、こんなことはなかったから。
 でも、当然かもしれないとも思った。あまりの忙しさに俺は自分のことで精一杯で、香奈美のことまで頭が回らないことが多かったから。
 そしてその頃から、俺と香奈美はすれ違うようになって、 香奈美の心は、少しずつ離れていってのだろう。

 全ては「今思えば」の話。俺は小さな違和感を覚えつつも、それ以上のことは何も気付けなかった。
 ――香奈美は、心の拠り所を見つけていた。俺意外に。俺以外の人間に心を寄せることで。
 その事実は、香奈美の口から告げられた。

「ごめんね、肇ちゃん。別れて。他に好きな人がいるの」

 何を言われてるのか、理解するのに相当な時間を必要とした。言われた直後の俺は、ただ茫然と、本当に呆然と香奈美の顔を見つめることしか出来なかった。
 十二月二十四日――日付が変わって五分後のことだった。



 **



「ごめん。突然で、驚いてるよね?」
「驚くっていうか……何、それ」

 香奈美が別れてくれと言ってから、おそらく五分近い時間は経っていたのではないかと思う。
 何がどうしたというのかさっぱり理解出来ない俺は、ただ茫然と香奈美の顔を見つめるだけで、それまで何一つ言葉を発していなかった。

 俺はその一分前に帰ってきたばかりだった。
 二十三日は祝日で、本来なら三連休の初日だった。けれど前日に急遽「休日返上」が決まり、午前中は会社で仕事、夕方からは美作本社主催のパーティーに出席、という一日を送ることになった。
 週末までに終わらせなければいけない仕事がとんでもなく多いことは前からわかっていた。だから「もしかしたら」という予感もあり、香奈美には事前に話してあったし、理解を示してくれていたと思う。
 さすがにパーティーは予想外だったけれど、半日潰れるのも一日潰れるのも一緒だ。
 香奈美は朝出かける俺を「いってらっしゃい」と変わらぬ笑顔で送り出してくれた。何ら変わりない、普段通りの香奈美だったと思う。
 美作本社のパーティーは想像をはるかに凌ぐ豪華さで、帰る際にはお土産まで配られた。いち早く中身を確認した人間が、「ホールケーキとハーフワインが二本、それから……うわぁ、お洒落なキャンドルまで入ってるよ」と声を弾ませていた。
 俺は「きっと香奈美が喜ぶな」なんて呑気なことを思いながら帰ってきた。
 けれど香奈美は、そんな俺のテンションとは全く異なる次元に立ち、俺の帰りを待っていた。
 ただいま、と言いながら足を踏み入れたリビングで、香奈美は深刻な顔をしてソファにちょこんと座っていた。足元に膨れたボストンバッグを置いて。
 思わず「どこか行くのか?」と訊ねた俺の言葉に返ってきたのが「別れて」という言葉だった。


「……別れる、って言った?」
「うん」

 喉がカラカラに乾いて、声が掠れた。
 頭の中は未だに全てがストップ状態で、何一つ次の言葉が浮かばない。
 どう受け止めたらいいかわからない香奈美の言葉がゆっくりゆっくり廻っていて、廻るたびに厭な予感がミシミシと音を立てて膨れていく。

「肇ちゃん、あの――」
「悪い。着替えてきていいかな?」

 借り物のタキシードにコートを着たままで、手にはスーツとお土産を持ったままだった。だからって話を聞けないわけじゃない。でも。
 敵前逃亡――香奈美を前にそんな言葉を使うのは不適切だとわかってはいても、この現実から一度逃げ出したかった。
 理解出来ない。
 受け止めきれない。
 けれど心の奥底ではこの非常事態をきちんと理解していた。
 きちんと向き合わなければいけないんだということも。

「きちんと話したいから。着替えさせて。この恰好じゃ落ちつかない」

 香奈美が頷くのを確認して、俺は寝室に入った。
 クローゼットの前で着替えながら、ぼんやりと言われたことを考えていた。ぼんやりと、この先の展開を。
 どんなに考えても、靄がかかったようにぼんやりとした頭は、何の答えにも辿り着こうとはしなかった。
 ただ、香奈美が今すぐ出て行くつもりでいるだろうこと。
 そのことだけははっきりと意識の中に入りこんでくる。
 そして、きっとそれを止めることなど出来ないだろうと、そんな予感も。

 ――話す前から随分弱気だな、俺は。

 そんな自分が情けなくて、自嘲気味の笑みが零れる。
 けれど、帰ってきたばかりの、荷物を置くことも着替えることもしていない俺に向かって言い出した香奈美の決意の強さには、どうやっても勝てない気がして仕方なかった。
 きちんと話せば分かり合える――そんな望みはあるのだろうか。
 自信は、全くなかった。
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2011.03 ここから始まる未来の僕へ
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