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真珠色に沈む
COLORFUL LOVE
2

 **



「昨日はいろいろすみませんでした」
「いや。俺のほうこそ悪かったな。余計な口出ししちゃって」
「いいえ。言ってもらって良かったです。言ってもらわなければ、あたしは何も知らずに自分のことだけを考えていたと思いますから」

 あきらの苦労や想いも知らず自分の主張だけをしていただろうと思うと、そうならなくて良かったと胸を撫で下ろしたくなる。
 本当に感謝していると告げると、平野は照れ臭そうに笑って、椅子に腰かけた。

「でも、美作専務はそれを望んでいたんじゃないのか?」
「ああ……そう、かもしれませんね」

 つくしは小さく笑って、窓の外に視線を流した。

「美作さんは、優しすぎる人だから」

 昨夜、あきらと話したことを頭の中に巡らせれば、自然とあきらの笑顔が浮かぶ。

「あたしはあたしなりに、足りないかもしれないけどそれなりの覚悟を決めているんです。何があっても立ち向かっていこうって。美作さんだって、そんなあたしの気持ちはきっとわかってると思うんです。でも、それでも必死に守ってくれるというか……」
「すぎるくらいの優しさをかけてもらってるんだ」
「……はい」

 つくしにだってそれなりの覚悟はある。司とのことも経験としてあるから、それなりに免疫もあるつもりでいる。
 それでも、実際に問題に直面して、越えられそうにない高い壁を前にしたら、やっぱり傷ついたり落ち込んだり、苦しくてたまらなくて逃げ出したくなったりするだろう。
 それは仕方ないことなのだと思う。
 けれどつくしは、いつだって自分の心を見誤って、思っている以上に傷ついたり思っている以上に悩んだりしてしまう。ぐだぐだと悩んで考え過ぎて、開き直るまでにたくさんの時間を要して。
 あきらには、それがわかるのだ。手にとるように。

「美作さんは、あたし自身よりもあたしのことを理解しているんです。きっと」
「牧野さん自身よりも?」

 つくしは頷いた。

「どういう時にあたしが傷ついて、悩んで落ち込んで立ち止まって、一人じゃ立てなくなって、ってそういうのを全部わかっていて、だから必要以上に傷つかないようにって、いつだって気遣ってくれて」

「ほんと、優しすぎるんですよ」とつくしは言い、そしてすぐに「でも、」と言葉を続けた。

「でも、ありがたいと思ってます」

 心の籠る、温かな声だった。

「あたしはきっと、その美作さんの優しすぎる気遣いに助けられて、こうしていられるんです。もっともっと厳しいことがこの先待ち構えているんだから、そんなに甘やかしていちゃダメだって言う人もいるだろうし、実際そうなんだろうけど、でも、あたしにはきっとあの優しさが必要なんです」

 そんなあきらに守られて、つくしは笑顔でいられる。
 それは揺るぎない現実だった。
 平野はじっと、語るつくしを見つめていた。
 あきらへの想いが滲み溢れる言葉たちを受け止めて、そうしてふっと表情を緩める。

「やっぱり余計なことをしたよ、俺は」
「え? いえ、そんなことはないです。あたしは――」
「二人は、お互いをきちんと理解してる。美作専務は、牧野さんを籠の中の鳥にするつもりで甘やかしてるわけじゃないし、牧野さんは、専務の優しさに甘え切ってぶら下がっているわけじゃない。きちんとお互いをわかった上で、今必要なのは何か、必要でないのか何かをきちんと見極めてる」
「……」
「だからやっぱり、俺は余計なことをしたんだって思うよ」

 平野はどこか苦笑交じりの笑みを広げた。

「普通はな、無理をしてるんだよ、そういう時って」
「無理、ですか?」
「相手のためを思ってする我慢って、最初はいいけど積もり積もれば不満になったりするだろ? 小さな歪みはやがて大きくなって修復不可能になったりしてさ」
「……そうですね。わかる気がします」
「俺は二人にそうなって欲しくないって思ったから、専務の想いを伝えた。……だけど」

 平野は一度言葉を切り、小さく息を吐く。

「だけど、専務が黙っていたのは、別に我慢しようとしていたわけじゃなかったんだよな。自分の中で消化出来るとわかっているから口にしない。いずれ話す日が来るとしても、その時きちんと向き合ってわかり合える自信があるから、今は敢えて伝えない。牧野さんをきちんと理解しているからその選択が出来た」
「……」
「牧野さんも、そう。普通は、なんで何も言ってくれないんだ、って不満に思うもんだよ。例え相手が自分のためを思ってしてくれたとわかっていてもね」

 たしかにそうかもしれない、とつくしは思った。
 重要なことであればある程、自分は信用されていないのではないか、見くびられているんじゃないか、そう思っても不思議ではないのかもしれない。
 でも、つくしの中にそんな想いは微塵も湧いてはこなかった。例え湧いたとしてもそれをあきらにぶつければ、その答えを必ずもらえるとわかっている。
 だからいつでも綺麗にその想いは解消されて、つくしの中に根深く残ることはなかった。

「知らされずにいる時間が長ければ長い程、どうしてあの時って思ってしまう。時間を巻き戻すことが出来ない分、知らずにいた悔いは大きくなるし、相手への不満や不信感も膨れる。……だけど、牧野さんはそうじゃない。美作専務の優しさの本質を理解してるから」

「そうだろ?」と平野に問われ、つくしは苦笑交じりに頷いた。

「そうですね。そうなんだと思います、きっと。あんまり深く考えたことがないので、そんなふうに改めて言葉にされても、なかなかピンとこないんですけど」

 平野はそんなつくしに深く微笑んだ。

「ほらな、やっぱり俺のおせっかいなんて必要なかった。二人の信頼関係は、苦労して作り上げたものじゃなくて、自然に形になったものなんだもんな」

「まったくなー」と呆れたように笑顔で溜め息を吐いた平野に、つくしはどこか恥ずかしくて照れ笑いを浮かべた。
 短い沈黙に流れたのは、緩やかな優しさだった。
 まるであきらがいるような。
 そこにはいないあきらの優しさを、つくしは感じていた。――そして平野もまた……。

「仕事のことですけど……」

 意識せずとも、つくしの口は自然と言葉を発していた。

「やれるところまで、やらせて下さい」

 迷いはなかった。

「やってみて無理だったってこともあるかもしれないんですけど、やっぱりやってみたいんです」
「それは、二人で話し合っての結論だね?」
「はい」

 平野はつくしをじっと見て、そして静かに頷いた。

「わかった。それなら俺は精一杯応援するよ。頑張って」
「……はい。ありがとうございます」



 **



 会議室からオフィスへと戻る道すがら、「正式な返答はまたするけど、会社側は受け入れるつもりでいる。社長がそう言ってたから安心してていいよ」と笑った平野の言葉が嬉しかった。
 自分の歩くこの道は、理解し支えてくれる周囲の優しい人達のおかげで成り立っている。「ありがとう」の言葉以外に何かを返せるとしたら、それはこれからの日々を精一杯送ることだけ。

 ――頑張ろう、あたし。

 つくしはそっと心に誓った。


 ブーン、ブーン、とテーブルに置いた携帯電話が振動を始めたのは、もうすぐ十六時になろうかという時だった。
 自分の携帯電話だと気付いたつくしが手に取りディスプレイを見ると、そこには類の名前があった。
 あきらかと思っていたつくしは少しだけ意外に感じながら――決してガッカリしたわけではないことは強く主張しておこう――、通話ボタンを押した。但しそこには美穂も平野もいるので、「もしもし」と小さな声を発して、そそくさと窓辺へと移動しながら。

『牧野? なんか声小さくない?』
「ごめん。今、会社の納会なの」
『ああ、なるほど』

『それで遠慮気味なトーンなわけね』と類が言い、「そういうこと」とつくしは言った。

「類は会社?」
『うん。ウチも納会。って言っても、俺は執務室でおヒルネ中だけど』
「類さ、納会くらい出なさいよ。専務でしょうが」
『少しだけ顔出したよ。でもすぐに飽きちゃった。専務ってさ、忙しいって言い訳が通用するんだよ。誰も呼びに来ない』

『静かでいいよ』なんて嬉しそうに類は言うけれど、そんな言い訳は一部の人間にはバレバレだろうとつくしは思う。
 でも、その行動全てがあまりにも類らしくて、思わず笑ってしまった。
 そんな類も、昔では考えられない程に日々忙しくしていて、きちんと仕事もこなしている。なんと言っても今や専務だ。それだってあきらよりもずっと早くに専務になった。時々つくしに電話をしてきては、「もうやだ、眠い」等と甘えた事を言っているけれど、世間では将来有望な花沢物産の後継者という評価なのだ。
 つくしはいつも「裏表がありすぎよね」と笑うのだけれど、それだけの信頼を勝ち得ているというのは、とても凄いことだとも思っていた。

『で、牧野は何時に抜けられそう? 納会って出入り自由でしょう?』
「よくわかったね。どこも大体そうなの?」
『少なくともウチはそうだよ。美作だってそんなもんでしょ』

『もれなく子会社も。』と類は言い、更に言葉を続けた。

『俺はいつでも会社出れるから、牧野の時間に合わせるつもりなんだけど』
「あたしに? あたしに合わせなくても、レストランは三時くらいから貸切なんじゃないの?」
『牧野がいないんじゃ、つまんないもん』

 電話だからその表情までは見えない。でもきっと、穢れのない無垢な笑顔を浮かべているんだろうなあと、簡単に想像出来るような声だった。
 類はいつだってこの調子で、それは今に始まったことではないのだけれど、それでもつくしはドキリとする。
 つくしはいつも「人をからかいの対象にしないでよ」と照れ隠しのように言うけれど、類の放つその言葉の本当の意味は、いつだってきちんと理解出来てしまう。

「……まったくもう、類は」
『だって牧野、反応がかわいいから』

 そしてつくしの心中を知っていて尚、いつもと変わらぬ類。
 二人だけにわかる言葉と、二人だけにわかる心と、二人だけにわかる表情がそこにはあって、こればかりは、例えあきらでも割り込むことも壊すことも不可能だ。

『ねえ、何時がいい?』
「え? あー、そうだなあ……」

 そしてつくしはいつの間にやら類のペースに巻き込まれているのだけれど、もはやそれさえもいつも通りで、類ならばいいかと思ってしまう。
 つくしとて、類がいたら楽しいし心強い。レストランの、誰がいるか誰もいないかもわからない部屋へたった一人で乗り込む事を考えたら、類の存在が必要不可欠に思えた。

「じゃあ、五時半頃までには着くようにする。類、平気?」
『うん、平気だよ。じゃあ後で』
「うん、じゃあね」

 電話を切ったつくしは、ふうとひとつ息を吐く。
 そしてぼんやり思った。

 ――美作さん、何時に行くんだろう?

 つくしは、先程あきらに送ったメッセージの返事が来ていないことがほんの少しだけ気になっていた。
 どうでもいいことならともかく、こういう待ち合わせの時間等に関しては、あきらはいつだってすぐに反応してくれる。でも、ニ十分近く経とうかという今も返事が来ていないということは、何か手が放せない状況にある可能性が高い。
 実のところ、類が何か知っているのでは、と期待していた。
 でも、類はあきらの名前を口にしなかった。きっとそれは、あきらに関する情報を何も持っていないから。
 類のことだ、知っていれば教えてくれていただろう。

 ――まあ、直接電話してみるっていう手があるんだけどさ。

 でも、返事が来ていない今、電話を鳴らしても出られないかもしれないし、仮に出たとしても、無理して出てくれている可能性の方が高くなる。
 そう思うと、電話は躊躇われた。

 ――まだ時間もあるし、もう少し待ってみようかな。

 今はそれが一番良い。そんな気がした。

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2011.05.23 真珠色に沈む
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