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真珠色に沈む
COLORFUL LOVE
4
 数秒、数十秒……つくしは、言葉なく呆然と百合を見つめていた。
 パーティー会場のドレスアップした姿とはもちろん違うものの、やはりとても綺麗で華やかな百合に見惚れていた、と言ってもいいのかもしれない。
 そんなつくしに、百合が笑いかけてくる。

「突然でごめんなさい。私、大木百合と申します」

 つくしは、その百合の声でハッと我に返る。

「あ、えっと。はい。大木社長の……」
「あら、私のことご存知なの?」
「はい。あの……先週パーティーで」

 百合は一瞬考えて、ああ、と頷いた。

「そういえば、ロサードの皆さんは招待されていたものね」
「はい」
「それなら話が早いわ。私、あなたと少しお話がしたいの。これからいいかしら?」
「え、あたし、とですか?」
「ええ」

 つくしは僅かに目を泳がせる。
 百合が自分に一体何の話があると言うのだろう。――いや、おそらくあきらのことに間違いはない。けれど、一体何を話そうと言うのか。

 ――どうしよう。どうしたらいいんだろう?

 百合は真っ直ぐにつくしを見つめたまま、その返事を待っている。
 口の端をゆるりと上げた綺麗な笑みを湛えて。けれど柔らかに緩められた瞳の奥には鋭い光が宿っていて、つくしを射抜くように見据えている。
 真っ直ぐ向けられた視線。
 それを見て、つくしは感じた。
 自分には、ノーという選択肢はないのだ、きっと。
 こうしてここに現れて、名指しで呼び止められているからには、つくしのことをある程度調べ上げている。何をどこまで知っているのかはわからないけれど、あきらとの関係以外にも、住んでいる場所や交友関係、日頃の行動範囲だって把握されているかもしれない。
 今は無理だと言えば、いつならいいんだと切り返されるだろう。話すことなどないと言ったところで、こっちにはあるんだと言われたら、それ以上は何も言えない。ここがダメなら別の場所で、と待ち伏せされることも考えられる。
 今断ったところで、話す時間はいずれどこかで作らなければならないのだ。きっと。
 それならば、今、話してしまったほうがいいのかもしれない。
 何を言われるか、何を訊かれるか、すごくすごく不安ではあるけれど。

 ――でも、あたしがあたしの力で乗り越えなきゃいけないことよね。

 この美しい人もまた、あきらのことを想い慕っているのだから。
 つくしはぎゅっと口の端に力を入れると、コクリと頷いた。

「わかりました」

 つくしの返事を聞いて、百合はニコリと笑った。

「ここで立ち話もなんですから、何処か温かい場所でお茶でも飲みながら話しましょう」

 言って、車に乗るようにつくしを導いた。
 つくしはちらりと美穂を見る。

「美穂、ごめん。あたし――」
「もしかして、お友達かしら?」

 つくしの言葉を遮り投げられた百合の声は、まるでその時初めて美穂の存在を認識したような、そんな響きを持っていた。

「そうです。会社の同僚です」
「そう。もしかして、この後二人でどこかへ行く予定だったかしら?」
「あ、えと――」
「はい! そうです」

 今度は、美穂がつくしの言葉を遮った。そしてつくしに「ね?」と同意を求める。
 たしかに二人は一緒に行く予定だった。けれどそれは「二人でどこかへ」という類の予定ではない。
 それでも美穂は同意を求める。それは美穂なりに考えがあってのこと。
 視線を送ってくる百合に、つくしは頷いた。

「そうなんです」
「なので、お話が終わるまでどこか近くで待ちたいんですけど、行き先を教えていただくか……もしくは、ご一緒させていただけませんか?」

「後で連絡を取って待ち合わせるのも大変なので」と言った美穂に、百合は少し考えて、それから小さく笑って頷いた。

「では、どうぞ」

「強引なのね」と言わんばかりの表情をしていたが、この際そんなものは見て見ぬふりをする。
 何処か不安げな表情を浮かべたつくしに、美穂は小さく、でもしっかりと頷いてみせる。
 ――「大丈夫よ、つくし」
 そう言われているような、そんな頷きだった。
 きっと美穂は、つくしの胸の内に気付いている。戸惑いも不安も、決意も。
 だからこそ、近くにいようとこうして一緒に来てくれたのだ。
 それは本当に心強い、有難いことだった。

 ――ありがとう、美穂。

 大きな感謝を胸に、つくしも小さく頷いた。

 車は、するりと動き出した。
 百合と、つくしと美穂と……様々な思惑を乗せて。


 車内はしんと静まり返っていた。
 つくしと美穂はもちろんのこと、百合も言葉を発しないその空間は、ただの静寂を通り越して異様な緊張感が漂っている。
 高級車の乗り心地の良さとは対照的なそのなんとも居心地の悪い空間で、つくしは隣に座る百合の視線を感じて、身を固くしていた。
 射抜くような鋭さがあるわけではなかったけれど、心の内も見抜こうとするかのようにじっと注がれるそれをどう受け止めていいのか、どう受け流していいのか、その対応に困ったつくしはひたすら俯いて気付かぬふりをするしかなかった。
 視界に、百合の綺麗に整えられた指先が映り込む。
 スラリと長い指、爪には小花を散らしたようなネイルアート。華やかだけれど上品なそれは、彼女の装いや雰囲気に見事にマッチしている。

 ――綺麗だなあ。

 思わず心の中で呟く。
 そして、思い出してしまった。
 あのパーティーの夜、エスコートをするあきらの腕に添えられた百合の手が、やはりとても美しいと思ったことを。
 もちろん近くで見たわけではない。でもあの時も、百合の爪にはとても華やかなネイルアートが施されていて、それがキラキラと光り輝いていた。
 当然のことながら、手には顔のような表情はない。けれど、その手や指先が、愛しげにあきらの腕に触れていて、その手の持ち主が、大きな幸せと深い喜びを感じていることが伝わってくる気がして、つくしの胸はズキズキと痛んだ。
 思い出すだけで、今もやっぱり胸が痛い。
 あの日負った傷は、未だ完全には治っていない。ほんの些細なきっかけで、塞がりかけた傷は簡単に開き、やがてだくだくと血を流す。
 つくしは、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
 細くも長くもない普通の指に、普通に切っただけの爪。ネイルアートどころか、マニキュアすら塗られていない――そんな自分の指先を隠すように。
 爪が掌に食い込み小さな痛みが広がる。

 ――もっと痛くていいのに。

 もっともっと痛ければ、その痛みが胸の痛みを忘れさせてくれるかもしれないのに。
 胸の奥で思いながら、こんな短い爪ではそれさえも叶わないことに、落胆した。

 ふいに、つくしの鞄の中で携帯電話がブーンと低い音を立てる。
 ハッとして鞄を探り、手に掴んだ時、既に振動は止んでいた。
 ディスプレイにはメッセージ受信の文字。見ればそれは、助手席に座る美穂からだった。
 つくしはちらりと美穂を見て、そしてすぐに開いた。

――
美作専務に連絡しないの?
彼女の話って専務のことだよね、きっと。しかもあんまり良い話じゃない気がする。
五時半の約束は専務じゃないよね?
専務に連絡して、早く来てもらった方がいいんじゃない?
――

 美穂の言う事は尤もだった。きっとそうすることが一番良い。それはつくしにもわかっていた。
 つくしは文章を打ち込むと、すぐに返信した。

――
美作さんはまだ仕事中だと思う。
連絡しても心配させるだけだし、ただ話すだけだから、私一人でも大丈夫だよ。
心配してくれてありがとう。
――

 これを読んだ美穂は、「つくしって強がりね」と呆れるだろうか。「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ?」と顔を顰めるだろうか。
 今は見えない美穂の反応を気にしつつ、つくしは携帯電話を鞄の中に戻した。
 その時、再び携帯電話が短く震えた。

 ――え、美穂?

 美穂がつくしからの返信をすぐに読んだことは間違いない。けれどこんなに早くさらなる返信をしたのだろうかと少々驚きながら、再びディスプレイを確認する。

「……」

 つくしの鼓動が、トクンと早くなった。
 表示されているのは美穂ではなく、あきらの名前。

――
遅くなってごめん。急な来客でまだ会社を出れそうにないんだ。
まだ時間が読めないから、終わった時点でもう一度連絡入れるよ。
あいつらのことだから心配はいらないだろうけど、揃ったら先に始めていいからな。
何か困ったことがあったらいつでも連絡して。ケータイは繋がるから。
――

 ――やっぱり。

 それがつくしの素直な感想だった。
 自分と同じように午後は納会だと言いながらも、あきらが忙しくしているだろうことは最初から予想出来ていた。
 同じくらいの時間にレストランに着けたらいいな、と思いながらも、きっとそれは無理だろうとも思っていた。
 類のように、適当に納会を抜けて、なんてこともあきらはしそうにない。納会は納会できちんと出て、その上で他にしなければならない仕事をきちんと終わらせる。
 あきらはそういう男だ。
 わかっていた。
 けれど、その思いの奥で、不安が膨れる。
 連絡しても心配させるだけだから、なんて美穂に言いながらも、実際に連絡しても来れないだろうことがわかったら、やけに心細くなった。

 ――どうしよう、美作さん。あたし、どうしたらいい?

 わかっている。連絡をすればいいのだ。あきらは「困ったら連絡しろ」と言っているのだから。
 きっとつくしが連絡を入れれば、それなりの対処をしてくれるし、多少時間が掛かっても駆けつけてくれるだろう。あきらならば、きっと。
 そして、それが一番良いのだ、きっと。
 それでも、やっぱり。

 ――やっぱり、今は言えない、よね。

 結局つくしの答えは変わらなかった。
 そんな自分に自分で呆れる。けれどどうしようもない。
 つくしは小さく息を吐いて、今度こそ携帯電話を仕舞い込んだ。
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2011.06.05 真珠色に沈む
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