ふう、ともう一度息を吐き、戻ろうと美穂達の方を振り向く。
そこには、笑って話す平野と美穂の姿があった。
近づいて行くと――と言っても、大した距離ではないけれど――すぐにつくしに気付いた美穂が、「何時に出るか決まった?」と訊いてきた。
何も言わずともパーティーに関係することだろうとわかってしまうのが美穂で、つくしは感心したように笑みを浮かべる。
「うん。五時半頃に着くように行く」
「五時半? じゃあそろそろ出ちゃう?」
「もう出るの? まだ早いでしょう?」
「早いけど、ゆっくり移動してどこかでブラブラしてたらあっという間じゃない?」
「私、つき合うよ」と美穂が笑った。
どうやらその美穂からこの後の予定が伝わっているらしい平野は、腕時計を見ながら頷く。
「こっちはもういつ抜けても大丈夫だぞ。というかこれ以上遅くなると、二次会参加に期待がかかるから、今のうちかもな」
「そうなんですか?」
「どうやらそのようよ。まあそれは私がきっちり断るけどさ。……どうする?」
平野の言葉からすると、ここで抜け出すのが一番いいのだろう。
でも、本当に抜けていいのだろうか、とつくしは周囲を見渡した。
同じ部署の人間はほとんど全員残っていて、何組かに分かれてそれぞれが楽しそうにしている。自分達だけが抜けて、しかも二次会も行かないなんてことが通用するのかと不安になった。
だからと言って、二次会に行ってしまったのではパーティーには行けない。普段なかなか集まれない仲間達が忙しい中それぞれ都合をつけて集まるのだ、つくしだけがドタキャンするわけにもいかないし、なによりも、つくし自身とても楽しみにしていた。
ならば、答えはひとつしかない。
「……じゃあ、行かせてもらおうか?」
つくしは遠慮気味に言い、平野を見ると、平野は笑顔で頷いた。
「みんな好きで残ってるだけだから、気にせず抜けていいぞ。なにせ出入り自由なんだから」
その言葉は、つくしにはとても心強く、そして嬉しかった。
「たしかそのレストランって、一階はカフェになってたよな? 時間まで二人でお茶ってのもアリじゃないか?」
「あー、そうか。そうですよね。私、外でブラつくことばっかり考えてた。つくし、そうする?」
「あたしはどっちでも。外でブラブラでも全然かまわないよ」
一階がカフェになっていることは知っていた。以前、あきらと行ったことがあったから。
その時に飲んだジンジャーハーブティーが気に入って、それ以来何度か利用している。
けれど、美穂と二人で街をブラブラしながら、普段は素通りしてしまうお店に入ってみるのもまたとても楽しいだろうと思った。「ブラブラして、それからティータイムってのもいいね」と美穂が言い、つくしは「そうだね」と頷く。
「防寒はしっかりして行けよ。外は寒そうだぞ。空も真っ白だし」
「うわー、ホントだ。つくし、寒かったらすぐにどこか入ろうね」
「うん、そうしよう」
外を見ながら二人は頷き合い、それから平野に挨拶をしてその場を離れた。
会社を出て見上げた空は本当にどこまでも真っ白で、空気は射すように冷たかった。
「さむーい!」
「ねえねえ、今日って雪の予報とか出てた?」
「さあ、出てた覚えないんだけど」
「だよねえ。……でも、雪が降りそうな寒さじゃない? 空の色も」
「うん。そう思う」
息は白く宙に溶ける。
本当に雪が降るかもしれないと、改めて真っ白な空を見上げたつくしは思った。
それでも予定に何の変更もないだろうことは知っているし、これと言った不安もない。
でも。
「ねえ、美穂。あたしにつき合ってないで、すぐに帰ったほうがいいんじゃない?」
「え? ああ。雪が降ったら電車が止まるかもって?」
「そう」
つくしが頷くと、美穂はカラリと笑った。
「大丈夫よ。今すぐなんて降らないだろうし」
「そうだけど」
「万が一、ものすごーく降ってきてこれはヤバいってなったら、美作専務が助けてくれるでしょ。きっと。人の彼氏に頼るつもりってのもなんだけど」
肩を竦めて笑う美穂に、つくしも思わず笑った。
たしかにその通り。つくしといる限りは、美穂だって何も不安に思わなくていいのだ。あきらはもちろん、類だって総二郎だって、つくしの友人を雪の中に放り出したりはしないのだから。
「むしろ私は、二次会に行くらしい会社のみんなのことの方が心配なんだけど」
「あー、たしかにそうかも」
「どうせいつもの居酒屋でしょ? あそこ地下だからさ。飲み終えて外に出たら雪でびっくり、とかあり得そうじゃない?」
「うん。あり得るね」
美穂とつくしは思案顔で空を見上げた。
平野の元を去った二人は、そのまま課長の佐々木に挨拶に行った。
そこには同じ部署――しかも同じ課の人間がたくさんいて、すぐに二人は二次会へと誘われた。予定通り美穂が丁重に断ったのだけれど、「もし都合がついたらちょっとでもいいから来いよ」なんて言われてしまった。
場所が何処かも聞いてはいないが、それだけに、いつも飲み会で利用している居酒屋なんだろうと予想出来た。
「いっそのこと、早い時間に降り出して、やっぱり二次会はなしにしようくらいのことになったほうが身のためかも」
「ちょっと名残惜しいだろうけど、帰れなくなるよりはね」
「うん」
――もし雪が降り出したら、佐々木課長に連絡してあげようかな。
口には出さなかったが、つくしは心の中で思う。――そして美穂も、同じことを思っていた。
ただし、あの地下の居酒屋で、まともに電話が通じるかは甚だ疑問だが。
「さて。じゃあ行きますか」
「うん。行きましょう」
二人は笑顔を浮かべて頷き合い、駅に向かって歩き出した。
「あの通りを抜けた先に雑貨屋さんがあるの知ってる?」
「そんなのあったっけ?」
「うん。たしかビルの二階だった気がするんだけど。一階が靴屋だったかな」
「あー、わかった。かなり奥まったところでしょ?」
「そうそう」
寒さにちょっぴり肩を竦めながらも、会話は弾む。
「私、そこが結構好きでさ。行くと必ず何か買っちゃうの」
「へええ。入ったことない」
「ホント? じゃあ行ってみる?」
「うん。行ってみたい」
車道を一台の車がゆっくりと走り抜けて、少し先でピタリと停まった。一人の男性が降りて、車の横に立つ。
何気なく視界には入っていたけれど、何でもない、ただそれだけの光景。
けれど、その男性の立つ場所に近づいていくうちに、奇妙な事に気がついた。
先にそれを口にしたのは、美穂だった。
「ねえ、つくし」
「ん?」
「あの人、ずっとこっちを見てない?」
「……やっぱりそう思う?」
その男性は、じっとつくし達を見ていたのだ。
それは「何気なく」なのかもしれないけれど、何処か空気が違う。
まるで、二人が来るのを待っているような、そんな感じがした。
「美穂、知り合い?」
「まさか。つくしこそ知り合いじゃないの? あれ、高級車でしょ?」
「そうだけど……でも、見覚えないよ?」
「ホントに?」
「うん。まあ、あたしが見たことないだけかもしれないけど」
コソコソと話しているうちにその距離はどんどん縮まり、やがてすぐ目の前に迫った。
「どうする? 走り抜ける?」
「それも怪しいでしょ。普通に通り過ぎようよ」
「そうだね」
二人は少々足早に、その男性の前を通り過ぎる。
たっぷり気にしながらも、あまり気にしていないような顔で。
けれど、結局二人は足を止めることになった。
「失礼ですが、牧野つくし様でしょうか?」
男性が、つくしの名前を口にしたから。
つくしにとっては予想外のことだった。
ただ、美穂にとってはそうでもなく、小さくつくしの腕を突くと、耳元に囁いた。
「やっぱり知り合いなんじゃない?」
「えー、そうなのかなあ……」
じっとその顔を見つめるけれど、やっぱり記憶にはない。
――美作さんのところじゃないよね。……てことは、類か、西門さんか……。
つくしとて、彼らの家の使用人全員を知っているわけではない。だから見たことのない人がいたとしても不思議ではなく、だから余計に判断がつかない。
一体誰だろうと考えているところに、再び男性の声がした。
「牧野つくし様ですよね?」
未だ相手が誰であるか判断はつかないけれど、ひとまずつくしは返事をすることにした。
「そうですけど……あの、えっと……」
どちら様ですか、と訊ねていいものか迷っているうちに、その男性はひとつ頷いて、それ以上は何も言わずに脇に停めている高級車の後部座席を開けた。
「……え」
「……あっ!」
そこには、つくしと美穂が思わず声を上げてしまう人物が乗っていて、驚く二人とは対照的に、余裕のある表情でゆっくりと車を降りてきた。
アシンメトリーなラッフルフリルスカートがふわりと揺れ、ブーツがコツリを音を立てる。
「はじめまして……で、よろしかったかしら?」
二人の前に立ち上品な笑みを浮かべたのは、大木社長の娘――百合だった。